給水塔のある風景

総本家青信号特派員氏の投稿に触発され、そう言えば自分も各地で給水塔やその残骸を写しているような気がしてきました。そこで、探してみると意外と集まりましたので北から順にご紹介したいと思います。

1.尺別鉄道 新尺別駅

昭和44年2月28日 尺別鉄道新尺別駅

ここは1900生氏、KAWANAKA氏と共に訪れた思い出の地です。駅と機関庫がこじんまりと集まった、模型で再現したくなるような風景です。給炭場と給水塔が並んでいます。駅周辺には郵便局などもありましたが、今グーグルのストリートビューで見てみると鉄道施設はおろか民家も何もない原野(牧場?)になっていて、場所も特定できません。この訪問時は、国鉄尺別駅まで戻る手段探しに時間をとられ、肝心の尺別鉄道探訪が疎かになったのが悔やまれます。

2.美唄鉄道 常磐台駅

昭和44年3月4日 美唄鉄道常磐台駅 キハ102

ここも両氏と一緒でした。ところが、美唄鉄道終点の常磐台には列車ではなく、三菱バスで往復し、美唄鉄道には乗らずじまいでした。常磐台駅は巨大な出炭設備があり転車台や向こうに給水塔も見えます。この常磐台では、空のセキ10両ほどを牽いて登ってきた7号機が空転を繰り返して立ち往生し、その様子を並走する道路から撮影するのに時間を費やしてしまい、多分バスの時刻が迫っていたのだろうと思いますが、結局常磐台駅構内の写真はこの写真1枚しかありません。

昭和44年3月4日 美唄鉄道常磐駅付近 空転し前に進めない7号機の前で、スコップでレール上の氷を取り除いている機関助士

3.真岡鉄道 真岡駅

平成11年10月23日 真岡鉄道真岡駅 C11325

この給水塔が国鉄真岡線時代のものかどうかはわかりません。機関庫も貯炭場も新しそうですから、給水塔も新しいかもしれません。この時点で活躍していたのはC11325でしたが、C11325は令和2年12月からは東武鉄道に移り、現在はC1266が「SLもおか」を牽いています。現在 全国に何両かの動態保存機がありますが、その車両基地には何らかの給水設備があるのでしょう。必ずしも自然落下の給水塔や給水タンクとは限らず、ポンプ給水かもしれません。そういう意味では真岡の給水塔は数少ない現役選手かもしれません。

4.国鉄明知線 明知駅

昭和45年10月18日 明知線明知駅 C12230

明知駅には駐泊所があって、給水塔もありました。C12が到着した貨車とこれから明知を発つ貨車を、機関庫も引上げ線として使って入換え中の光景です。現在はこの木造機関庫は取り壊され、洗車線になっているようです。明知駅を出るとすぐ勾配区間が待っているのが写真でもわかりますが、明知線には勾配区間が多く、数両の貨車でもC12は喘ぎあえぎ登っていました。炭庫がキャブの屋根まで嵩上げされた増炭改造機や青ナンバー機もいました。国鉄時代は「明知線」「明知駅」でしたが、3セクになってからは「明鉄道」「明駅」です。川は明智川、明智消防署、城跡は明知城と不統一ですが、明智光秀ゆかりの地ですから、明智が優勢のようです。

5.西濃鉄道 美濃赤坂駅

平成13年12月30日 西濃鉄道赤坂機関区

群馬県高崎に単身赴任していた当時、正月休みにマイカーで三原に帰省する際に美濃赤坂に立寄り、西濃鉄道の沿線を見て回りました。西濃鉄道にはかつて2両のB6(2105と2109)が活躍していましたが、2105は昭和39年に廃車になり、2109は昭和45年までDLの予備機として残っていましたが、大井川鉄道に移り動態保存され、現在は埼玉県にある日本工業大学で動態保存されています。このタンク跡は給水塔跡かと思って写していましたが、あとで調べると給水塔ではありませんでした。

白井良和氏著「私鉄車両めぐり 西濃鉄道」より引用。大きな水槽でした。

給水塔は撤去され、ポンプ小屋?だけが残っていた。

結局、残っていた脚部は給油塔跡であることが判りましたが、石油類のタンクはしっかりした防油堤の中に設置しなければならず、給油塔としては短命だったように思います。

6.名松線 伊勢奥津駅

平成29年5月11日 名松線伊勢奥津駅

この投稿を思いついたきっかけになった特派員氏の記事の地です。すっかりツタがはびこっていました。コンクリートの脚部に俳句が書かれた木札がありました。

給水塔の脚に取り付けられた俳句札

平成16年11月に名松線開通70周年記念の俳句大会があったようです。11月なのであたりはススキ原だったのでしょう。

7.国鉄関西本線 加茂駅

昭和48年5月3日 関西本線加茂駅 給水口は2つあり、線路が両側にあったことがわかる。

この日は多分、月ヶ瀬あたりへD51の貨物を撮りに行った際に、ついでに撮っていたものです。今となってはD51より貴重な記録に思えます。加茂は関西鉄道によって開通しており、給水塔は関西鉄道時代のものでしょう。ここには機関庫もありました。「明治の機関車コレクション」に機関庫の写真が残っています。

機芸出版社刊「明治の機関車コレクション」より引用。

3線の立派な機関庫ですが、給水塔は見当たりません。うしろの山の姿からは、この写真は東を向いて撮られているようです。

明治時代の写真と同じ東向きのアングル。保線車両が停まっているあたりが機関庫か?

機関庫と給水塔の位置関係が難しいのですが、最初の写真で線路跡が枕木ではないのが気になります。アッシュピットを埋めたあとなのか、謎のままです。皆様のご推理をお願いします。

8.北陸本線 糸魚川駅

昭和48年7月25日 糸魚川駅 DD1612

糸魚川にあった東洋活性白土の小型蒸機を撮ったあと、糸魚川駅で当時珍しかったDD16を撮っていました。大糸線のC56に代わってDD16だ投入されていました。DD16は65両が作られましたが、昭和48年には全国でまだ21両しかなく、関西には配置がなく 珍しい存在で思わずカメラを向けました。そのうしろに給水塔が写っていました。この時期糸魚川機関区はありましたが、配置車両がなく、このDD16は富山一区所属でした。

キハ517+キハ5242

キハ51はもともと両数も少なく、昭和48年の配置表によると盛岡に6両、山形に1両、中込に2両、松本と富山一にそれぞれ3両ずつと 計15両は中日本から北日本でしか見られず、DD16と同様に貴重な1枚でした。キハ51とキハ52の強力編成は大糸北線で活躍中でした。

9.樽見鉄道 本巣駅

平成14年12月28日 樽見鉄道本巣駅                           左の客車はオハ148,その先にオハ1413、スハフ142が留置されていた

かつての国鉄樽見線で、国鉄時代の駅名は美濃本巣でした。ここには大阪セメントの工場があり、車両基地もあって構内も広く 多くの車両が留置されていました。C11に給水していた給水塔も健在でした。

10.加悦鉄道 加悦駅

昭和48年6月10日 加悦駅 キハ101

片ボギーのキハ101は給水塔の横に留置されていました。構内には保存車両が数多く並び、キハ08が活躍中でした。この日は、加悦から先の大江山鉱山に続く廃線跡を辿り、山越えして出石に出て、出石鉄道跡探索を楽しんだ1日でした。京都からクルマで行ったように思います。

11.別府鉄道別府機関区

昭和44年7月27日 別府鉄道別府機関区

夏休みが始まるのを待って出かけた中国地方の私鉄巡りの最初は別府訪問でした。土山からの混合列車に乗りたかったのですが便が悪く、高砂線の野口から 旧佐久鉄道のキハ3で別府に入りました。既に蒸機は1両もいませんでしたが、機関区の入口には給水塔が残っていました。現在のデジカメ時代なら給水塔だけでも何枚も写しているでしょうが、旅の始めでもあり、この1枚しか撮っていません。

12.山陰本線 倉吉駅

昭和48年7月15日 倉吉駅 C1141

米手氏、1900生氏と倉吉線、若桜線を訪ねた際の一コマです。倉吉線には何度か訪ねていますが、京都から出雲市行きの夜行普通列車で早朝倉吉に着いて、混合列車の旅を楽しんだものです。C1141かC11261のどちらかがいて オハニ36がピカイチの客車でした。

13.国鉄若桜線 若桜駅

昭和48年7月15日 若桜駅  積雪地帯ならではの融雪溝が走る

倉吉線探訪のあと、若桜線を楽しみました。すでに蒸機は無く、DE15が牽く混合列車で、途中の丹比駅では貨車の入換えを待つという、のんびりした旅でした。若桜鉄道になってからは、若桜駅構内を圧縮空気で動くC12167が人気のようです。

14.一畑電鉄 雲州平田駅

昭和48年12月12日 一畑電鉄雲州平田駅

電化完成は昭和5年のことですから、レンガ積みのこの給水塔は電化後も40年以上使われていたのでしょう。現在も残っているかは不明です。山陰地方唯一の私鉄となった一畑電鉄は経営難に苦しんでおられるようですが、がんばってほしいものです。

15.井笠鉄道 矢掛駅跡

平成11年1月30日 旧井笠鉄道矢掛駅跡

平成11年1月30日 旧井笠鉄道矢掛駅跡

旧山陽道の宿場町である矢掛町の西のはずれに井笠鉄道矢掛支線の終点矢掛駅跡が残っています。現在は北振バスの車庫になっていますが、上の写真を撮った際は井笠バスの車庫兼バスターミナルでした。給水タンクは何となく新しそうですが、給水塔は井笠鉄道時代の物ではないかと思われます。北振バスは井笠鉄道の子会社でしたが、平成24年に独立し、一方の井笠鉄道バスは平成24年10月末で営業を終了しています。

鉄道時代のままの矢掛駅跡

16.島原鉄道 南島原駅

昭和53年10月 島原鉄道南島原駅 キハ5505

この時点で蒸機は姿を消していましたが、給水塔は残っていました。諫早から国鉄に乗り入れる両運のキハ55はかっこよかったです。うしろは湘南顔のキハ4500が改造されたキユニ4500で、まだ地方私鉄でも郵便、小荷物輸送が盛んだった時代でした。

17.日豊本線 宮崎駅

昭和49年3月 日豊本線宮崎駅 C5739

学生時代最後の春休みに日南線のC11などを撮りに行った際の1カットです。C5739は梅小路など山陰本線京都口でよく撮っていたカマで、再会できたのがうれしかったです。

18.旧鹿児島交通 上日置駅跡

平成30年5月11日 旧鹿児島交通上日置駅跡

平成30年5月に南薩地方を訪ね、旧南薩鉄道の知覧線や万世線跡を含め、廃線跡探訪も兼ねた観光旅行を楽しみました。中でもこの上日置駅跡の給水塔と、私鉄では珍しいスイッチバック駅跡は特に印象に残りました。めったに訪れる人もないだろう駅跡や給水塔が見事に手入れされ、保存されていることに感動を覚えました。

以上18ヶ所の給水塔のご紹介でした。蒸気機関車時代には当たり前の風景だった給水塔、給炭施設、ターンテーブルなどの付帯設備も次々と姿を消しています。車両と共にこのような設備も時代の証人としての産業遺産として後世に残されてゆくことを期待します。今回、改めて給水塔探しに火を点けて頂いた特派員氏に感謝です。

給水塔のある風景」への50件のフィードバック

  1. 西村さま、尺別鉄道、懐かしいです。
    1969年9月4日、新尺別機関区です。ちゃんとした地方鉄道でしたが、道内時刻表にも掲載されておらず、本当に行きにくい鉄道でした。当日の午後、尺別駅で降りると、運よく尺別炭山行の混合列車が停車していました。帰りは、中1扉、ワンマン運転の無料バスで尺別駅に戻りました。今では、尺別駅も廃止されてしまいました。

    • 藤本哲男様 コメントありがとうございます。我々は事前調査もしないまま、尺別駅に降り立ち、無料バスで新尺別まで行く途中で、C12が牽く尺別行き列車をバスの車窓から見て、行き違ったことにガッカリしたように思います。あとは1900生さんのコメント通りです。JR尺別駅が廃止されたニュースはショックでした。

  2. 1963年9月23日、美濃赤坂です。
    京阪沿線の高校時代に訪れています。当時からマイナーなローカル私鉄を撮影していました。

    • 藤本様 しっかりと撮っておられますね。実は私も高校時代に赤坂へ行っているのですが、その目的は金生山での化石採集でした。高校時代は地学部でしたので。赤坂は石灰岩地帯で化石の宝庫だったのですが、採石場で化石を探していると発破の大音響と共にバラバラと岩石が降ってきた思い出があります。赤坂のあとは、北恵那鉄道の苗木に行って水晶探しをしました。北恵那の混合列車に乗った思い出があります。残念ながら ハンマーなどの道具でリュックは一杯で、カメラを持って行かなかったので西濃も北恵那も見ただけでした。

  3. 西村さま  藤本哲男さま
    我々の新尺別機関区訪問は藤本さまの逆コースでした。札幌から釧路行夜行423レで尺別に着きましたが、新尺別行の列車は少し前に出た後で、改札の駅員に促されるまま、とりあえずその中央ドアの小さなバスに乗り込みましたね。降りる際に料金を聞くと「要りません」といわれビックリ。到着後すぐにこういう訪問時の鉄則である帰路アクセスの確認をしたところ、バスはおろか列車も午後しかないことがわかり、これでは午後に予定の雄別炭鉱行が果たせなくなるため大いに焦りましたね。近くの郵便局に飛び込んでタクシー事情を聞いたりして、結局尺別まで荷物を受取に行くという商店主を探してもらうのに小一時間を要し、貴重な滞在時間の半分くらいを費やしてしまいました。現在と違い情報を得る手段が限られているか殆どなかったため、ぶっつけ本番になりましたが、本土と違って北海道では気軽な訪問は中々難しいことを身をもって知りました。

    • 1900生様 思い出話をありがとうございます。郵便局での交渉は、貴殿にお願いして、KAWANAKA氏と私は機関庫の中でC12を撮ったりしていたようにも思います。いずれにせよ、日曹炭鉱豊富と共に半世紀を過ぎても忘れられない訪問でした。

  4. 西村様
    はい、火点け役の特派員です。車両が無くても、こんなテーマでもデジ青に載せられることを知ってもらいたくて、書き始めました。このきっかけは、10年ぐらい前に、吉川文夫さんが「鉄道探検隊」の隊長になり、沖中忠順さんや私が隊員になって企画・発行した「鉄道風景回顧」という本でした。結構売れて、3冊が続刊しました。それこそ、フィルムが余った時、何の目的も無く撮る写真にこそ、お宝が隠されていると思いました。
    私も探し出すと、たまたま給水塔が写っていた例がよくありましたが、西村さんもよく撮っておられますね。模型もやっておられたから、その視点があったことと思います。外へ出て写す意欲は低下しましたが、逆にネガ・ベタ焼きを見直して、“こんなん撮ってたんか”と、思わぬシーンを見つけ出す楽しみが増えました。

    • 特派員様 「鉄道風景懐古」3冊は、「DRFC-OB」名で私の写真も数枚採用して頂いていることもあり当時のことをふり返る際に、大変重宝しています。あの3冊をもっと深掘りすれば、時代の記録としての価値が増すと思います。模型に関しては、車両製作が主でしたが、いつかは小さなレイアウトセクション(例えば駐泊所のようなもの)を作りたいと思っていましたので、車両以外も結構写していました。その思いが「江若ジオラマ」になりました。今回、特派員氏に火を点けられて古いネガを探しましたが、昭和40年代のネガの多くが、ビネガーシンドロームでカールしてしまって、上手にスキャンできませんでした。改めて、急いでデータ化しておかねばならないと気付かされました。

      • 西村様
        「鉄道風景懐古」は、最初、沖中さんと私の二人で進めていたのですが、いい写真が無く、急遽、当時のDRFCのアルバムにも手を出してしまい、西村さんの写真も使わせてもらいました。その代わり、原稿料は要らないので、写真提供者全員に本を送るように、沖中さんから指図が出ました。沖中さんらしい気遣いでした。
        西村さんが給水塔回りを撮られたのも、やはり模型化のためだったのですね。私も、TMSから出た「ストラクチャーガイド」は、模型もしないのに、ボロボロになるまで読んでいました。同じくTMSの河田耕一さんの「鉄道風景30題」も、写真・文章に癒されました。

  5. 西村様
    たまたま映り込んでいたという次元ではなく、意識して撮影されたと推察します。鉄道模型、とりわけジオラマを作るには多くの資料写真が必要で、ひとつのものを作るにも様々な角度から撮った写真が欲しくなります。ところが実際にはむつかしく、一枚でもあると助かります。「鉄道模型的視点」という言葉、むかし何かの本で読んだ覚えがあります。模型作りを意識すると、確かに撮り方も違ってくるのかもしれませんね。西村様が製作された江若のジオラマ、見たくなりました。
    加茂駅の給水塔、懐かしく思い出します。まだD51がいたころ何度か通りましたが、給水塔が写った写真はひとコマだけでした。それも休車のC57が目的で、たまたま背景に写りこんでいただけです。

    総本家青信号特派員様 
    やはり「鉄道風景懐古」がヒントでしたか。はい、私も3冊持っております。1999年発行の第2巻を開くと、沖中様と総本家様が出席された座談会の記事が載ってました。

    • 紫の1863様 温かいコメントありがとうございます。加茂に休車のC57がいたとは知りませんでした。亀山のC57でしょうか?

    • 紫の1863様
      「鉄道風景懐古」、3冊とも所有されていましたか。改めて奥付を見ると、もう20年以上前の発行だったのですね。座談会もやりました。と言っても、別に集まった訳ではなく、編集者からアンケートが来て記入、あとで、集合したかのように編集しただけです。私の名前が間違って記載されたことも思い出です。こんな上製本が売れたのも、この時代ならではですね。

    • 随分遅いレスポンスですが、関西本線加茂の給水塔。
      1979年には2基残っていました。
      このうち上部に鉄製水槽の残った方は、左右にWスポートが付いていて、流石は、平坦線区から勾配区間にかかる幹線の関所だと感心いたしました。
      もう1基は軽油貯蔵になっていたのか、煉瓦の上にコンクリの円筒。また付近には煉瓦製の防空壕に似た地面の入り口等、加茂は駅舎を含めて見どころ満載でした。

    • 米手作市様 瀬野のようですね。瀬野もすっかり様変わりしましたが、広島方の上り線と下り線に挟まれた場所にある、水平の引上線跡だけは 撤去工事も難しい場所なので当時のまま残っています。今からでも遅くはありません。続編をお待ちします。

  6. 西村様

    最近のニュース記事を共有いたします。https://www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/20240719/3070013335.html

    今まで何ら登録されていなかったのが不思議に思いました。

  7. 西村雅幸さんのご厚意に甘えて、遅ればせながら“たまたま写っていた給水塔”を投稿します。近ごろボケてきたと見えて撮影場所や撮影時期が判りません。私はあなた方とはちがうのです。分かった方は教えて下さい。

      • 米手様 水島のコメントが変な位置に入ってしまいました。上のC12は片上鉄道の西片上ですね。給炭と給水が一緒になっているように見えます。おもしろいのは給炭台にトロッコ?らしい線路がひかれているように見えます。片上港から石炭を運べるようになっていたのではないでしょうか。貴重な写真をありがとうございました。

    • 米手様 続投ありがとうございます。これは現在の水島臨海鉄道、当時は多分倉敷市営水島鉄道の水島機関区での撮影でしょう。かつては蒸機が活躍していましたから給水塔が残っていたのですね。

    • 言われて初めて気がつきました。反対から見た高架です。トロッコ用でしょうかね?

      • 米手様 貴重なDD45の写真ありがとうございます。三菱三原生まれのB-Bではなく4輪連結のロッド式D形DLです。蒸機ではD形E形があるのですから、DLにD形があってもおかしくはないのですが、この珍奇な機関車は片上では不評で、関東鉄道鉾田線を経て北の八戸線の鮫駅の入換え用になったと思います。実は模型でこのDD45を作ろうと思ったのですが、丁度良い車輪径のウエイトバランス付き車輪4輪が手に入らず、あきらめました。仮に車輪が手に入っても、ロッドを精密に作るウデがないので、多分スムースな動きは作れなかったでしょうね。

      • 片上鉄道に2年しかいなかったDD451の写真が、さりげなく出てくるところが米手さまの凄いところです。
        1970年9月14日、関東鉄道鉾田線、石岡機関区のDD451です。

        • 後にも書いたようにDD13のつもりで撮った物をあとでよく見たらDD45と書いてあり、さらにムカデ競走のような足回りを見て驚いたほどです。
          決してすごいことはありません。運が良かっただけです。 

    • 米手様 続編をありがとうございます。キハ064がいることから、多分加古川だと思います。山陽本線の車窓から撮られたのでしょう。キハ06の他、キハ20や奥の方にはキハユニ15もいますので、加古川線管理所だと思います。

    • 米手様 3番ホームの表示が「仙台・上野」になっているので仙台以北には違いないのですが、一ノ関か盛岡でしょうか。D51218は盛岡区のカマです。次のD62と同じ駅、同じ給水塔なのかも判断がつきません。DD51にD51の前補機がついて、奥中山に向かうところでしょうか?

    • 米手作市様
      西村雅幸様
      中央に特徴のある「跨線テルハ」が見えますので盛岡駅に間違いがないと思います。東北本線の全線電化が完成するヨンサントウを1か月後に控えた1968年8月30日の盛岡駅に5列車「ゆうづる」が到着したところです。

      • 快速つくばね様 確かに盛岡駅ですね。ありがとうございました。これで今晩、ゆっくり眠れます。

  8. 西村雅幸さん、快速つくばね様
    ありがとうございます。
    まず、DD45の解説をありがとうございました。DD13のつもりで撮ったらDD45と分かり、???が湧いていました。
    キハ06は加古川で車中から撮ったものです。
    D51+DD51は盛岡でしたか。一ノ関はD62です。ご指摘ありがとうございました。

  9. 時期遅れで申し訳ありませんが、最後にもう少し見て頂きたい給水塔がありますので、いましばらくお付き合い下さい。
    これを載せて頂かないと立つ瀬がありません。
    機関車への給水だけでなく、機関区のお風呂や作業全般に利用されていた水源で、いまも現役で活躍しています。

    • 石造りの給水塔、すごく気になります。撮影場所をあえて記さないのは、米手さんの暖かい配慮と解釈しているのですが、撮影年代は分かりますか?北海道で米手さんがDD51を撮ったのは、ごく初期の頃ですね。

      • 総本家さん、
        あたたかいなんてもんじゃない、本当にズボラなんです。
        でも撮影は昭和49年3月です。

    • 荷物車と郵便車?が2両に客車2両の編成からして北海道でしょうか。宗谷本線か石北線かと思いますが、かなり大規模な給水塔であることから、拠点駅あるいは勾配用補機の解結駅かと考えましたが、バックの山容を見てもどこの駅かわかりませんでした。

        • 西村雅幸さま
          そうですね。そうかもしれません。右手(ホームの東側)に拡がるヤード(留置線)もポイントに探したのですが、列車をなんとなく下りのように思いこんでいて、上り列車かもと想像できませんでした。気になるのは上りだとすると322レですが、旅客車の前部に2両の荷物車等を連結していたのでしょうか。後部にしか連結しないと思い込んでいたため、上下を誤っていたようです。客車列車時代にはイヤというほど見ていた筈なのですが、観察眼が足りずにボ~と見ていたのでしょう。

    • ボンネットバスが走った道に夢中で、サボっておりました。
      これは難問ですね。西村様のおっしゃる音威子府を検討してみたところ、腑に落ちない点がいくつか見つかりました。給水塔の位置が違うこと、信号機が腕木式とは違って色灯式だったこと、それに撮影された場所です。少し高い場所からのように見えますので、線路を渡る道路橋から撮影されたように思います。音威子府駅の旭川寄りに、このような道路橋は確認できませんので、別の駅ではないでしょうか。
      牽引機にも疑問があります。昭和49年3月の時点では324列車は旭川の蒸機が牽引していたはずで、何かの事情でDD51が代走したのでしょうか。客車の編成は旭川寄りに2両の荷物車が連結されていましたので、上り列車と考えられます。
      DD51の番号から宗谷本線、石北本線、根室本線あたりを考えましたが、いまだ特定には至っておりません。というより、お手上げなのです。さっぱりわかりません。
      昭和49年3月は米手様の人生の一大イベントがあったはずですので、ご本人に思い出していただくほかありません。道東のどこかの駅だと思いますが、記憶にありませんか?

      • はい、一石を投じた私として、噛まない訳には行きません。昭和49年とすれば、DD51の客レ牽引線区として、やはり根室本線、石北本線が挙げられると思います。紫の1863さんの言われるように、昭和49年の北海道と言えば、米手さんにとって一大イベント、新婚旅行の行き先だったはず。ならば、背後の山容から、観光地の層雲峡、大雪山の近くではと思い、根室本線富良野、石北本線上川を挙げました。いずれも過去には、給水塔など機関区設備がありました。まず富良野ですが、機関区設備の位置は同じですが、ホームは島式2本の二面4線です。もうひとつの上川ですが、まさに二面3線の国鉄型構内、機関区こそありませんでしたが、旭川方面への折り返し列車があり、転車台、給水塔がありました。ネットで拾った現況写真ともよく似ています。もうひとつ補強として、珍しい石造りの給水塔ですが、石造りの駅舎として有名なのが、近くの富良野線の美瑛駅です。一体で産出される凝灰岩ですが、写真の給水塔の石質とよく似ています。

        • 総本家様 上川駅でしたか。上川なら1枚だけ写真がありました。昭和44年3月3日 留辺蘂YHで泊まったあと、522レ
          で旭川に向かう時でした。前からマニ602595東スミ+マニ602228大ミハ+スハ32384札オタ+スハフ32840札オタの4両編成でした。かすかに跨線橋も写っています。

      • 米手様の個人情報にかかわることなので、詳細には触れなかったのですが、総本家様がおっしゃる通り層雲峡へ行かれたと以前のコメントに米手様ご自身が書き込まれてます。それなら上川がくさいとあたりをつけました。ここでグーグルマップの出番です。旭川寄りに線路をまたぐ道路橋があって、そこからの眺めはまさしく米手様の写真の通りです。2面3線の配置、山の稜線もぴったりと一致します。1970年代の航空写真でも道路橋が確認でき、給水塔の長い影も見えます。さらに給水塔手前の建屋もあって、これは上川駅と断定してよいでしょう。旭川行きの上り列車ですね。上川駅を12時26分に発車する網走発旭川行き522列車か、16時18分に発車する遠軽発旭川行き528列車のどちらかと思います。3月という時期を考えると、周囲が明るいのでお昼過ぎの522列車でしょうか。
        実は1900生様のコメントを拝読し、編成から宗谷本線の324列車ではないかと直感しました。しかし、調べるほどに違うような気がしてきて、全く分からなくなりました。
        三人寄れば文殊の知恵と申しますが、皆様それぞれに着目点が違っていて、自分一人では考えつかないヒントをいただきました。

        • ひとつ訂正があります。522列車は小樽行きでした。ネットで見つけたD51が引いていたころの画像は、荷物車2両+旅客車2両で、米手様の写真と同じ編成でした。
          2018年4月11日に総本家様が投稿された「いとしのDD51 -5-」に、米手様と西村様の楽しいやり取りがあり、西村様が「上川駅」と解答されてます。

          • 探偵団の皆様
            ありがとうございます。
            思い出しました、上川でした。
            フィルムのコマの位置からは網走となるのですが、これはどう見てもちがうので悩んでいました。

        • 紫の1863さま
          上川でしたか。種々のデータを駆使しての緻密な解析による結論に納得しました。上川も候補として考えたものの、ここ数年間の直通キハ40の車窓から見た限りでは、留置線は数線しかない印象でしたので外していました。改めて写真を見ていて、そういえばその向こうに留置線跡のような広い空き地があったことを思い出しました。記憶だけでは中々場所を特定することの難しさを痛感しました。

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