輪をかけて倉吉線 投稿日時: 2016年2月25日 投稿者: 西村雅幸 米手作市さまから山守駅での昔の若者たちの写真が出たところで 当日の様子を引き続きご紹介します。昭和48年7月15日 日曜日の記録です。 当日買った倉吉線と若桜線の切符 倉吉線の帰路 西倉吉から乗った 倉吉行き混424レの様子です。 打吹駅で貨車を増結 真夏の列車は窓を開け放して進む 上灘駅に停車。前方に竹田川橋梁が見える。 以上で倉吉線の旅を終わります。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
米手作市さま 西村雅幸さま 懐かしいですね。暫く掲示板を留守にしている間に、1900生が倉吉線行きの仕掛け張本人だとか、色々噂になっていたようですが、手配?写真まで載せられてはもう観念するしかありませんので、盛り上がってきた懐かしのBOX談義に加わらせて頂きます。 仕掛け人は恐らく小生だったのだろうと思いますが、何が目的で仕掛けたのかもう思い出せません。倉吉線の廃止まではもう十数年ありますから、それが動機ではなかったでしょうし、元倉吉駅が打吹駅に改称して旧上井駅に譲った記念に行ったわけでもなかったと思います。さしずめC11のDE10置き換えか、夜行急行「だいせん」の20系客車の置き換えまでに、という魂胆ではなかったかと思われます。一つ確実なのは、帰りに若桜線の乗りつぶしが出来ることも魅力だったように思います。 西村さんが記されたように、寝台車の座席利用の指定席で早暁の倉吉に降り立ち、すぐにピット線へ行きアッシュ落としを撮り、次駅上灘の鉄橋で撮りました。実は小生も全く同じ構図で8ミリフィルムを回しておりました。余談ですが、4月の三江線ツアーの余興に、かつてのC56貨物と20年前のC56+12系客車をご覧にいれようと準備中ですが、同じ山陰のSLということで、あの時に撮った倉吉線の映像も用意だけはしましたので、時間が許せば見て頂けると思います。 なお山守までのキハは恐らく28・58の2両で、倉吉発着の「みささ」のいわば付属編成のアルバイトです。 さて西村さんは若桜線までキチンと記憶されていたようですが、それ以降は思い出せないと仰いました。逆に小生は山守まで足を延ばしていたことと若桜線往復を見聞きするまで、全く忘れておりました。これで時間が繋がらなかった鳥取での誤差が判明しました。どうも人は自分の関心のある部分だけ覚えているようです。なので3人の記憶を突き合わせると、ほぼ完ぺきな記憶が蘇るのですね。 ところで復路ですが、若桜から戻って郡家で因美線岡山行きのDCに乗換え、岡山から自転車(?後述)に乗って帰京したのですが、この因美線でとんでもないハプニングがあったことを覚えておられますか。ついでですので読者の方にもご披露しましょう。 現在の智頭急との接続駅である智頭を過ぎると、列車は峠の物見トンネルに向けて勾配を登ります。土師からはいよいよ25パーミルになって、180PS×3両のDCはウンウン唸りながらよじ登っていくことになります。我々は中間のキハ20に乗っていましたが、ふと見ると車体下から水が漏れ出ています。それもジャージャーとかなりの量です。皆で何の水だろうか、WCの水かなと話していましたが、結局ラジエータ-からの漏水ではないかとの結論に至りました。それからBOX談義のノリで会話が続き「このまま水が無くなったらどうなる?きっとエンジンが火を噴いて爆発するで。火事になるで」といういうようなやりとりになり、これを聞いた隣席のオバサン達が「火事になって爆発するそうな。アブナイアブナイ」と言ってそそくさと別の車輛へ移っていきました。 オバサン達が言ったかどうかしりませんが、たまたま車掌が通りかかったのでその旨を説明して確認してすぐに運転士に伝えてもらいました。暫くしてキハ20のエンジンはストップし、非力なDCは更にヨタヨタとやっとのことで那岐駅に着きました。この先のトンネル通過を考えて、我々も先頭車両へ移動と腰を浮かせた途端、信じられない光景を眼にしたのでした。駅員がホーム散水用のホース(昔は花壇の手入れ用に大概の所にホースがあった)を引っ張って来て、なんとエンジンめがけて放水し出したのです。最初はボワッと水蒸気が上がりましたが、ラジエーターに注水するならまだしも、恐らく焼き付きかけている熱々のエンジンに冷水を浴びせるとは、と一瞬我とわが目を疑ったものでした。しかしものの5分ほどで再びエンジンが始動するに及んで、DMH17エンジンの頑強さと国鉄の技術力を再認識することになりました。この後はスムーズに走ったようでした。ひと騒動と炎天下の撮影で疲れはててグッスリ寝込んでしまい、気が付くともう岡山でした。 既に山陽新幹線は出来ていましたから、普通なら新幹線で京都へとなるところでしょうが、奇人変人の3人組とあって、誰が言うともなく特急で一本だけ残った82系「かもめ」で帰ろうということになり、指定券を求めました。当時は新型のマルス発券機に替わっており、それまでの印判式の漢字とひらがなではなく、すべてカナと数字の券面だったと記憶しています。西村さんがこの「カモメ」ゴウ指定券の表記を見て、「まるで自転車みたい」と仰いましたので、京都まで自転車で、となった次第です。 カモメ号は岡山以東をそのまま乗り通す酔狂者は我々以外にはおらず、回送同然のガラ空き状態で22:20頃京都に着きました。若いからできたことで、今ならサッサと新幹線でもう1時間半早く帰るところでしょうね。 暑かったけど大満足の一日でした。ああ懐かしい。 返信 ↓
思い出しました! なぎ駅に着く少し前から焦げ臭いにおいと煙が充満してきて、あちこちの乗客が慌てて前後の車両に移動していきました。エンジンの真上に鎮座している我々も引っ越そうか?と考えているうちになぎ駅に着いて先ほどの騒動になったのを思い出しました。 いまなら新聞に『国鉄因美線で車両から煙・大学生の機転で乗客無事!』などと出ていたかもしれません。 返信 ↓
1900生さま 米手作市さま 若桜線のあとのことは全く思い出せません。キハ20のオーバーヒート騒ぎ、那岐駅での注水・・・。言われてみればあったような という感じです。82系のかもめは何となく覚えがあります。それと往きの列車が寝台の座席扱いだったのも覚えがありません。もう40年以上も前のことですからやむを得ないということにしましょう。三江線ツアーでの8mm上映会が楽しみです。 返信 ↓
オハニ61もオハフ61も更新工事が終わったばかりなのか、それとも手入れが行き届いているのかぴかぴかできれいですね。
米手作市さま 西村雅幸さま
懐かしいですね。暫く掲示板を留守にしている間に、1900生が倉吉線行きの仕掛け張本人だとか、色々噂になっていたようですが、手配?写真まで載せられてはもう観念するしかありませんので、盛り上がってきた懐かしのBOX談義に加わらせて頂きます。
仕掛け人は恐らく小生だったのだろうと思いますが、何が目的で仕掛けたのかもう思い出せません。倉吉線の廃止まではもう十数年ありますから、それが動機ではなかったでしょうし、元倉吉駅が打吹駅に改称して旧上井駅に譲った記念に行ったわけでもなかったと思います。さしずめC11のDE10置き換えか、夜行急行「だいせん」の20系客車の置き換えまでに、という魂胆ではなかったかと思われます。一つ確実なのは、帰りに若桜線の乗りつぶしが出来ることも魅力だったように思います。
西村さんが記されたように、寝台車の座席利用の指定席で早暁の倉吉に降り立ち、すぐにピット線へ行きアッシュ落としを撮り、次駅上灘の鉄橋で撮りました。実は小生も全く同じ構図で8ミリフィルムを回しておりました。余談ですが、4月の三江線ツアーの余興に、かつてのC56貨物と20年前のC56+12系客車をご覧にいれようと準備中ですが、同じ山陰のSLということで、あの時に撮った倉吉線の映像も用意だけはしましたので、時間が許せば見て頂けると思います。
なお山守までのキハは恐らく28・58の2両で、倉吉発着の「みささ」のいわば付属編成のアルバイトです。
さて西村さんは若桜線までキチンと記憶されていたようですが、それ以降は思い出せないと仰いました。逆に小生は山守まで足を延ばしていたことと若桜線往復を見聞きするまで、全く忘れておりました。これで時間が繋がらなかった鳥取での誤差が判明しました。どうも人は自分の関心のある部分だけ覚えているようです。なので3人の記憶を突き合わせると、ほぼ完ぺきな記憶が蘇るのですね。
ところで復路ですが、若桜から戻って郡家で因美線岡山行きのDCに乗換え、岡山から自転車(?後述)に乗って帰京したのですが、この因美線でとんでもないハプニングがあったことを覚えておられますか。ついでですので読者の方にもご披露しましょう。
現在の智頭急との接続駅である智頭を過ぎると、列車は峠の物見トンネルに向けて勾配を登ります。土師からはいよいよ25パーミルになって、180PS×3両のDCはウンウン唸りながらよじ登っていくことになります。我々は中間のキハ20に乗っていましたが、ふと見ると車体下から水が漏れ出ています。それもジャージャーとかなりの量です。皆で何の水だろうか、WCの水かなと話していましたが、結局ラジエータ-からの漏水ではないかとの結論に至りました。それからBOX談義のノリで会話が続き「このまま水が無くなったらどうなる?きっとエンジンが火を噴いて爆発するで。火事になるで」といういうようなやりとりになり、これを聞いた隣席のオバサン達が「火事になって爆発するそうな。アブナイアブナイ」と言ってそそくさと別の車輛へ移っていきました。
オバサン達が言ったかどうかしりませんが、たまたま車掌が通りかかったのでその旨を説明して確認してすぐに運転士に伝えてもらいました。暫くしてキハ20のエンジンはストップし、非力なDCは更にヨタヨタとやっとのことで那岐駅に着きました。この先のトンネル通過を考えて、我々も先頭車両へ移動と腰を浮かせた途端、信じられない光景を眼にしたのでした。駅員がホーム散水用のホース(昔は花壇の手入れ用に大概の所にホースがあった)を引っ張って来て、なんとエンジンめがけて放水し出したのです。最初はボワッと水蒸気が上がりましたが、ラジエーターに注水するならまだしも、恐らく焼き付きかけている熱々のエンジンに冷水を浴びせるとは、と一瞬我とわが目を疑ったものでした。しかしものの5分ほどで再びエンジンが始動するに及んで、DMH17エンジンの頑強さと国鉄の技術力を再認識することになりました。この後はスムーズに走ったようでした。ひと騒動と炎天下の撮影で疲れはててグッスリ寝込んでしまい、気が付くともう岡山でした。
既に山陽新幹線は出来ていましたから、普通なら新幹線で京都へとなるところでしょうが、奇人変人の3人組とあって、誰が言うともなく特急で一本だけ残った82系「かもめ」で帰ろうということになり、指定券を求めました。当時は新型のマルス発券機に替わっており、それまでの印判式の漢字とひらがなではなく、すべてカナと数字の券面だったと記憶しています。西村さんがこの「カモメ」ゴウ指定券の表記を見て、「まるで自転車みたい」と仰いましたので、京都まで自転車で、となった次第です。
カモメ号は岡山以東をそのまま乗り通す酔狂者は我々以外にはおらず、回送同然のガラ空き状態で22:20頃京都に着きました。若いからできたことで、今ならサッサと新幹線でもう1時間半早く帰るところでしょうね。
暑かったけど大満足の一日でした。ああ懐かしい。
思い出しました!
なぎ駅に着く少し前から焦げ臭いにおいと煙が充満してきて、あちこちの乗客が慌てて前後の車両に移動していきました。エンジンの真上に鎮座している我々も引っ越そうか?と考えているうちになぎ駅に着いて先ほどの騒動になったのを思い出しました。
いまなら新聞に『国鉄因美線で車両から煙・大学生の機転で乗客無事!』などと出ていたかもしれません。
1900生さま 米手作市さま
若桜線のあとのことは全く思い出せません。キハ20のオーバーヒート騒ぎ、那岐駅での注水・・・。言われてみればあったような という感じです。82系のかもめは何となく覚えがあります。それと往きの列車が寝台の座席扱いだったのも覚えがありません。もう40年以上も前のことですからやむを得ないということにしましょう。三江線ツアーでの8mm上映会が楽しみです。