久しぶりに見るC57と関連写真

本来は『「カシオペア紀行」を追いかけて』としたいところであるが、高齢者ファンなので「懐かしいC57を見る」という回顧録的懐メロ的な題とした。歳をとったことを自覚する題で今年最後の投稿とした。

2024年11月30日初電を乗り継いで8時過ぎに新潟駅に降り立った。今回も駅撮影よりも走行撮影がお好きなクモハ73106東ウラさんの運転するレンタカーでEF8195の牽引する「カシオペア紀行」とその折り返し回送を撮影することが主目的で台湾のお好きな千住のヤスベイさん(ぶんしゅう旅日記によく登場する芸名)とデカンショまつりさん号さんの4人で行った時の記録である。

集合場所は新津駅で「ばんえつ物語号」の牽引機C57180を見るのが最初の撮影目的で、日本海側特有の雨混じりの天気であったがどういうわけかこの時間に少しだけ晴れてくれた。この後ろ姿はかつて京都、園部、東和歌山(現和歌山)、亀山、福知山、米子、出雲市等々で客車と連結する際に見られた風景で電機からバトンタッチする時などはワクワックして眺めた後ろ姿である。▼

次に磐越西線の五十島駅に向かった。雨あがりのぬかるんだ道路を行くと既に車を使った大勢いの同業者で一杯であった。有名人も散見され絡まれないように空き空間を探して撮影する。曇天であるが寒い曇空なら煙はよく上がるだろうという負け惜しみを信じて撮った会津若松行き「ばんえつ物語号」C57180[新津]である。ヘッドマークは別として現役時代と変わらぬ姿である。▼

C57180は1946(昭和21)年に三菱重工三原で製造(製造番号513)され新潟地区で活躍して1969(昭和44)年に廃車された。その後新津市内の小学校に保存されていたものを1999(平成11)年に復元し、主に「SLばんえつ物語号」として運転されている。

1969(昭和44)年9月23日新津区の転車台の乘る同機。▼

C57180が門鉄デフを装備した時の姿がある。2009(平成21)年2月13₋15日に京葉線・内房線千葉みなと-木更津間で運転された「SL春さきどり号」で2月14日の千葉みなと駅の超満員の観衆に囲まれた姿である。九州ではお馴染みであった門鉄式デフレクターであるがスノープローが付いていた。▼

羽越本線の蒸気機関車は他にC571とD51498が動態保存機に選定されている。C571は1937(昭和12)年川崎車輛で製造(製造番号1769)され水戸、宇都宮、千葉等関東地区で活躍後1954(昭和29)年に新津に配属された。1961(昭和36)年には羽越本線村上―間島間で急行「日本海号」を牽引中に土砂崩壊の現場に突入し大破したが、トップナンバーであったことが幸いしたのか復旧された。1972(昭和47)年3月14日321列車秋田行きが最後の運行となったが、同年5月新津-村上間でお召し列車に指定された。

日本海沿いの名勝桑川-今川間を行くトップナンバーC571[新津]牽引直江津発秋田行き821列車▼

C571は1972年9月25日には故郷である佐倉に貸与され9月30日と10月1日に千葉鉄道管内で鉄道100年記念列車[なつかしのSL列車号」に使用された。1972(昭和47)年10月1日成田線久住付近のC571牽引鉄道100周年記念列車▼

同日総武本線倉橋-飯岡間を行くC571牽引の鉄道100周年記念列車▼

故郷千葉を後にしてC571は梅小路に向かい10月10日梅小路蒸気機関車館(現京都鉄道博物館)に他の保存機とともに並ぶことになった。また、1976(昭和51)年9月4日には「京阪100年記念号」としてイベント運転中痛ましい事故が起こっている。C571と言えば大きな集煙装置を付けた山口線の「SL山口号」が有名で長年同線で活躍してきたが引退が近いと言われている、個人的には山口線はD60時代しか知らない。

羽越本線新津機関区所属のもう一つの動態保存機にD51498があった。現在はC6120とともに高崎付近で活躍中である。写真は1969(昭和44年)10月10日鼠ケ関駅の新津発839列車秋田行き牽引中の姿で煙突上のクルクルパーがないとよい。▼

ここで本題は「カシオペア紀行を追って」であったが4人で撮影した日は北日本特有の季節風が吹き撮影に苦しんだがどこも車利用の同業社で一杯であった。そのような中で雲の切れ間から太陽が僅かに差した羽越本線桂根-新屋間のEF8195牽引9111列車秋田行きである。単線片ポールだが逆光である▼。

カシオペア紀行の上り回送9822列車も追いかけたが沿線の名峰鳥海山もご覧の通りで最後のショットでは頂上が僅かに見えたが冬の陽の落ちるのは早くお見せするような出来栄えでなかった。遊佐付近の上り回送9822列車。▼

以上で終わりであるが、紅葉鮮やかな叡電、須田寛氏の訃報、京都市電写真展の大盛況報告などがあり、投稿のタイミングとしては場違いと感じたが今年も残り僅かとなったためあえて投稿した。

 

 

 

久しぶりに見るC57と関連写真」への25件のフィードバック

  1. 準特急様
    初電で午前8時の新潟、と聞いただけで、今なお、衰えを知らない準特急さんの姿を想像してしまいます。C571、D51498の現役時代も添えていただき、保存機を対比することもできました。それにしても、C57とカシオペアが走るとあれば、凄い人出なのですね。クルマ利用の同業者がいかに多いかもわかりますが、一緒に行ける仲間があればこそです。
    西のテーマで、烏丸線などで勝手に盛り上がっていますが、物理的に参加が不可能な方もおられますので、一体感の醸成は難しいですが、これもデジ青の多様性と考えています。ご遠慮なされずに、どんどん東の話題も載せてください。

    • 総本家青信号特派員様
      地元を大切にするのはいいことだとえらそうなことを言いましたが、紅葉や雪化粧の叡電など思い立ったらすぐ行けてまたそれを実行されている姿に本当に頭が下がります。それに比べて皆さんの興味がない関東の私鉄沿線に住んでいますから投稿は遠慮しておりその分出番が少ないのは事実です。今回の「懐かしのC57」はいつも運転していただきお世話になっているクモハ73106東ウラさんから「カシオペア紀行追いかけ」のお誘いがあり、よく存じ上げている方と共にC57もついでに撮影した記録です。誘いを受けるのは有難いことです。自主投稿なのでかってにC57180、1、D51498の新津出身の保存3トリオにも照準を合わせました。これなら年配の方も多少お付き合いしていただけるかなと思いました。カシオペアはいつも綿密な計画をお立てになるクモハ73東ウラさんの指導のもと上下10回近くの撮影ができました。初電は4時45分に乗りました。クモハ73さんとは酒が飲めないことと私の足が遅いことでいつもご迷惑をかけておりますが、走行写真が好きな所は意見が合います。しかし、ぬかるんだ坂道を使っての俯瞰はダメになりました。

      • 準特急様
        お書きのように「誘いを受けること」は、この歳になっては、有り難いことだと受け止め、私も可能な限り参加するようにしています。そして、時には、自らがお誘いするような事案を立ち上げて、お互いのコミュニケーションを大事にしています。ただいま、23時45分、テレビでは白組勝ったと絶叫していますが、準特急さんには、来年もよろしくお願いいたします。

        • 総本家青信号特派員様
          「人の出会いは一期一会」とか言われますが「呼ばれるうちが花(華)」ということもあり若い人等から歳食った爺さんでも声がかかったならブツブツ言わずなるべく参加するようにしたいものです。鉄道趣味は「蓼食う虫も好き好き」の大集団でまとめるのが大変です。中には鉄道写真など恐らく撮ったことがないがタイミングよくコメントくれる方もいます。こういう人の真似を少しでも出来たらもう少しましな人間になれるのと違うかと考えています。酒がの飲めず付き合い下手の私はやっぱしダメですね。

  2. C57180などのご寄稿を拝読いたしました。
    私は、C57180とD51498は、それぞれ新津駅、新津区で撮影しただけです。
    一方、C571は、1970年3月に小砂川で走りを撮るなど、何回か出会っております。昭和47年に佐倉区へ貸出という記載がありましたので、9月24日に新津から佐倉への貸し出し途上の田端での一休み後、EF80に牽引されて田端を出発する直前の写真をアップいたします。
    同機は、田端→金町→新小岩で24日は新小岩泊だったのではないかと思われます。なお、銚子往復後は、新津へは戻らず、梅小路入りしたという微かな記憶がありますが—-。
    (追伸)10月1日、飯岡では築堤反対側にいました。ニアミスでしたね。まだ、入社前の大学4年のときでした。

  3. クモハ73106東ウラ様
    道東に続き今回の磐越西線・羽越本線でもお世話になりました。C571が梅小路に行く前の故郷千葉への立ち寄りの記録を有難うございます。EF80が先導したのですね。総武本線倉橋-飯岡間はニアミスですか。あそこは編成全体をとらえることができるので銚子電鉄の帰り等に255系特急電車や113系ローカル電車の撮影をしました。梅小路ではC551やC581のトップナンバーはよく見かけましたが、C571は基本的には山口線の方に行っていて通常は留守だったようですね。私はイベント列車は苦手で回送列車は避ける傾向がありますが、よく引っ張って行ってくれました。有難うございます。機会がありましたら新幹線E5+E6、E8+E5等17連の撮影に行きたいと思います。その時は懲りずにまた宜しくお願いしたいと思います。

  4. 準特急様
     今年の納めとなるご投稿、C57は子供の頃からD51と共に親しんだ機関車でした。煙突が高くて・・客車を牽いている姿が綺麗でしたね!
     鳥海山を背景のカシオペア、鳥海山との絶妙なマッチング、素敵ですね! 有り難うございました。
     良いお年をお迎えください。
     
     

    • マルーン様
      一人暮らしを6年間続けていますが楽しみはスポーツ観戦とデジ青です。私の場合の撮影地は東日本が多くなりますが、マルーンさんや総本家さん、それに外部の同年齢の方など皆さんから暖かい励ましのコメントをいただき大変うれしく思ってます。先日は久しぶりに冬眠中の高田幸男さんから山形新幹線の感想を見事な語りでコメントしていただき何回も読み直しました。酒がもう少し飲めればと思うこともあります。ところで煙突の高いC57は金沢区の機関車で金沢電化でその多くは梅小路や名古屋に転属してマルーンさんもどこかで再会しているはずです。富士山は冬の今の時期ならよく見えますが、日本海側の鳥海山は厄介です。諸先輩でも鳥海山の山容を見事にとらえた写真は少ないです。撮影激戦地に行きますと私くらいの歳でも三脚担いで頑張る同業者も結構います。それでは来年もいい年をお迎えください。

  5. 準特急様
    年が変わり間が抜けてしまいましたが、気になることがあり投稿させていただきます。
    「SLばんえつ物語号」(現・SLばんえつ物語)運転開始した1999年9月5日にC58 180の製造年を見て私の誕生年と同じなので慌てて新津駅で撮った写真がこの1枚です。後で製造年月日を調べたところ私と月日まで一致したのがC57 189号機でC11、C58、C59は近い日付のものがありましたが一致したのはありませんでした。区名札を見ると1文字だと思っていましたが「新津」(当時は新津運輸区)と二文字になっていました。これは近くにある「新潟」と区別するためでしょうか。他にもこのような例があるのでしょうか。

    • 「新」が付く機関区は、他にも新鶴見、新見がありますが、区名札は何れも「新」であったと思います。違う字で重複している例では「長」がありますが、長野機関区が「長」であったのに対し、長岡は新津と同様の二字で「長岡」表示だったように記憶しています。機関区の運用範囲が重なる可能性がある場所では、片方を二字の表示としたものでしょうか。

      • 宮崎繁幹様
        ご教示有難うございます。長岡区と長野区の機関車は直江津で出会うので区別したのですね。たまたまでしょうが2文字というのがどちらも新潟支社管内というのも面白いですね。
        そういえば国鉄の四国支社管内で1文字が共通する「高松」、「松山」、「高知」という機関区がありましたが、それぞれ『高』、『松』、『知』で区別していたことを思い出しました。JR四国になっても継承しているようです。

        • 快速つくばね様、宮崎繁幹様、
          明けましておめでとうございます。
          本年もよろしくお願いいたします。

          SL全盛時代はよくわかりませんが、1980年の車両配置表では添付の如くなっており、第一や第二が付してあるものを除いた場合の2文字の例は、「長岡」と「東新」のみです。区名札がダブっていても、現場では車両番号で処理しているので、問題はなかったと思います。転属直後の車両標記を書き換えずに走ってる姿も散見できました(四国では車両標記だけでなく、区名札を挿していたので問題なかったのかもしれませんが)。
          車両使用順序図表でも駅を一文字で表記するので同様の問題がありますが、伊予三島(「三」)と三本松(「三本」)や伊予北条(DLの場合「北条」、DCの場合「北」)と北伊予(「北伊」(DLのみ))など二文字にして区別している例もあれば、伊予市や伊野はともに「伊」(DL)、新居浜と新野がともに「新」(DC)とドウドウとダブっている例もあり、ダブリについてはあまり気にはしていなかったように思われます。

        • 四方誠様
          詳細な情報ありがとうございます。2文字の区名札は特殊な例なのですね。C57 180の「新津」も車籍が復活した1年目ですから取り敢えずの区名札なのかもしれません。添付していただいた一覧表の区名ですが、小樽築港区は『小』となっていますが、蒸気機関車時代は『築』であったような気がします。大分は管理局の略号が大阪鉄道管理局と区別するために『分』となっていましたが、区名は『大』だったのですね。『知』の区名札の写っている写真を添付します。本年もよろしくお願いいたします。

          準特急様
          C57 189の画像ありがとうございます。この場所を借りてお礼申し上げます。
          羽越本線の阿賀野川橋梁は架橋当時では全国最長を誇った橋ですね。写真を撮られた時の橋梁は2代目で、常磐線旧上り線の利根川橋梁からトラス3連が移設されて架け替えられたものを使用していたようです。

  6. 快速つくばね様
    1969年9月23日新津の阿賀野川の堤防から下ってきたC57189の写真がありました。この機関車は1972年8月25日に豊岡で廃車寸前の姿も撮っています。私の生まれた日は日独伊三国同盟のドイツが降伏した日で日本も敗戦間際でした。鉄道車両も資材不足のD52やD51の所謂戦時設計スタイルやC11の角形ドームなど最悪の車両が生まれた時期です。この後の戦後すぐは闇市の時代で戦後の復興は昭和30年頃まで待ったような気がします。しかし、昭和22~3年ごろには貨物機の旅客用改造とは言えC61やC62など後に特急や急行を牽引した機関車が生まれていましたし、C57やC58も船底テンダーやコロ軸受けの炭水車台車などを履いた魅力的な機関車が現れていました。区名ですが、確かに昔は一文字でしたが、最近、特にJR発足後は組織がよくわからず車両基地でも地区名のみで正式の呼び名がわからず省略して記録しています。

  7. 四方誠様
    私の拙いDF50投稿ではいろいろお世話になりました。
    ご本人に確認しましたがDF504は前原誠二さんが好きだったナンバーです。電機、ディーゼル機の配置についても有難うございます。

    快速つくばね様
    1963年版鉄道図書刊行会発行の国鉄動力車配置表をもとに蒸気機関車の配置区の区名札について調べてみました。
    まず、話題の新潟支社ですが長岡第一(機関)区は[岡一]、新津区は[新]、新潟区は[潟]、新潟機関区東新潟港支区は[東]とあります。
    区名札が五つと多いのが大宮機関区、大館機関区、大分運転所、吉松機関区薩摩大口支区、大糸線管理所信濃大町分所です。
    次に四つあるのが、福島機関区、福井機関区、福知山機関区、糸崎機関区福山支区です。もう一つは長町機関区、長野機関区、長門機関区、長崎機関区です。
    二つとなると結構多いです。機関区・区名札等省略しますが、
    直江津と直方、宮古と宮崎、名寄と名古屋、米沢と米原、横手と横浜、新鶴見と新見、松本と松山、西舞鶴と西唐津、和歌山と和田山支区、八王子と八代支区、佐倉と佐々等々まだまだあるかもしれません。国鉄も機関区が多くありかち合わないように工夫したものと思われます。尚、支区とか分所などは実際の区名札を確認したことがありません。例えば和田山支区にゴロゴロいたC55は全て豊岡区の[豊]でした。
    快速つくばねさんご指摘の小樽築港は[築]です。同区のC57は釧路迄のロングランで有名でした。また私の所有する配置表では長万部は[万]となっていますが[萬]だったと思います。また小郡も[小]となっていますが[郡]でした。そうすると郡山と小郡も同じ[郡]の区名札です。
    おわりに区名札[長]が僅かですが見える長門区のD51196です。1964(昭和39)年3月31日浜田での撮影です。

    • 準特急様
      詳しい調査結果をまとめていただき有難うございました。よく理解できました。長門機関区は1962年までは駅名とあわせて正明市機関区と呼称していましたので区名札はたぶん『正』だったのでしょうか。
      テーマを逸脱させてしまいましたので、先にコメントいたしました羽越本線「阿賀野川橋梁」について補足しC57に戻します。「阿賀野川橋梁」は1961年8月29日に発生した踏切事故により新津方1連が破損、落橋し、最終的には1963年常磐線「利根川橋梁」から旧上り線のトラス3連が移設されて架け替えられ修復されました。丁度常磐線では1958年から「利根川橋梁」の(2代目)から(3代目)への架け替え工事が行われており、1958年(昭和33年)下り線の新橋梁(3代目)が架設され、1962年に旧下り線の橋梁(2代目)を補強のうえ新上り線への転用工事が終わった時でした。この工事の結果余剰となった旧上り線の橋梁の一部が事故のあった「阿賀野川橋梁」に移設されました。
      ここでC57 1の話に戻ります。この機関車は1937年4月4日に水戸機関区に新製配置されたので、「利根川橋梁」を日常走行していました。C57 1は最終的に1954年10月7日に新津機関区に転属しましたので9年後常磐線から移設された「阿賀野川橋梁」を再度走ることとなりました。
      現在の4代目の「利根川橋梁」は2013年から2014年の1年間をかけて架け替えられました。架け替えられる前の建設中には大正橋(2代目)、昭和橋(3代目)、平成橋(4代目)の3代の橋を同時に見ることができましたので、記録に残すべく2013年4月8日に撮影を行いました。天王台側からの「利根川橋梁」。左から順に下り線の昭和橋、上り線の大正橋(列車は、E231系)、4代目複線の平成橋。

  8. 準特急様、
    明けましておめでとうございます。
    本年もどうかよろしくお願いいたします。
    (ご挨拶が遅れ、申し訳ありません)

    SL時代は、たくさんの機関区があったことがよくわかります。小郡は二文字目の「郡」でしたか。何となく電略(広コリ)に引きづられているような気がしますね。小月や小串と間違える人もいないでしょうに。ちなみに、四国の車両使用順序図表でも後免は「免」の一文字で、電略のメンに引きづられたかな、と思っていたところでした。

    快速つくばね様、
    小樽築港は、交友社さんがやらかしたっぽいですね。
    DF91のお写真、私は撮れなかったのでうらやましいです。高知区の扇形庫ですね。
    添付は、手前が43号、奥が48号ですが、区名札の「知」の文字が48号では少し小ぶりとなっています。(1982年5月2日、高知機関区)

    • 四方誠様
      DF50の写真ありがとうございます。電略(電報略号)の話も面白いですね。私が四国を周っていたことの車両基地には四カマ、タト、マツ、ウワ、コチ、コマ、トクなどを表記した車両がありました。国鉄時代は同一鉄道管理局(一部支社)内は同一の命名をしないように管理されていたと思いますが、JRになってからは使う頻度も低くなり、新設駅や改称駅には考慮することなく付与しているようです。
      DF91の写真をもう1枚添付します。いずれも1967年12月28日の高知機関区です。

      • 快速つくばね様、
        扇形庫がまだ大きかった時代なんですね。私は天井の高い部分からお写真左手に3線分しかなかった時代しか知りません(DF91の車体中央付近ぐらいまででしょうか)。添付写真は、その小さくなった扇形庫です(日付は前回と同じです)。

  9. 快速つくばね様
    同じ区名札を発表しましたがまだまだありそうです。
    [新]も5箇所ありました。新得、新津、新鶴見、新見、新宮です。国鉄時代の機関区や支区、派出所等々数えきれないと言いましょうか見落としているのが多いです。1963年版の配置表を参考にしていますから今はないものも多いですが快速つくばねさんならお分かりだと思います。前回にプラスして柳ヶ浦と柳井、豊岡と豊後森、静内と静岡、五稜郭と五条、富良野と富山、山形と高山、浜松と浜田、高岡と高松、鳥取と鳥栖、上田と上井、津山と津和野、吉塚と吉松、木曽福島と木次、田端と紀伊田辺、糸魚川と糸崎。まだあるでしょうね。
    正明市は[正]であったかどうかはわかりませんが多分[正]でしょう。
    快速つくばねさんが常磐線利根川橋梁の一部が羽越線の阿賀野川に移設され新製後水戸に配属され利根川を渡ったC571が晩年に阿賀野川を走る話を始めてお聞きしC571に橋梁通過時の感想を聴いてみたいと思いました。取手と言えば利根川の河川敷でゴルフをしたことがあります。車両に戻りますが最初は興味がなく廃止される頃に興味を持った車両は数多くあります。103系電車もその一つで写真は関東で消える頃常磐線の15連を撮りたく2002年7月14日に新松戸で撮ったクモハ103-123先頭の取手行きです。天王台から歩いて利根川橋梁に向かうことも考えましたが距離が長くて諦めた思い出があります。

    • 準特急様
      103系の15連の写真ありがとうございます。今では首都圏地区において4ドアー車の15連は普通に走っていますが、1987年12月に日本で初めて常磐線快速電車の103系が4ドアー電車最長の15両編成に増強され、片側60枚の両開きドアーが一斉に開閉するのを見て目を見張りました。学生の頃鉄道ファン誌の表紙を飾ったエメラルドグリーンの103系(南千住から見た上り列車が旧隅田川橋梁を渡るところ)を見て、東京にはこんな色の電車が走るのだと思っていましたが、社会人になって毎日乗ることになるとは考えてもみませんでした。
      「利根川橋梁」に戻りますが、旧上り線のトラス8連のうち残る5連は、4連が北陸本線上り線の「庄川橋梁」、1連が神岡鉄道神岡線(廃線)の「第二高原川橋梁」に転用されたようです。全国組織の国鉄だからできたのですね。
      この橋で一番記憶に残っているのは、岩波映画製作所が1963年に製作した『ある機関助士』で、機関士と機関助士が「取手通過」、「定時・定時」とお互いに喚呼・確認し、機関士がこの橋梁の上で煙草に火をつけるシーンです。水戸17時27発の上り急行「みちのく」上野行き12列車が水戸に3分延着し、取手から上野までの国電区間は既に夕方の帰宅ラッシュに入っていて過密ダイヤになっていて遅延回復が不可能なため、取手到着前までに列車の遅れを回復して定時運行に戻した直後です。この映画は、1962年5月3日に発生した「三河島事故」の反省から製作されたものですが、弁天町の交通科学館や万世橋の交通博物館で何回も上映されました。現在はYouTubeでいつでも見ることができます。
      1971年1月の「利根川橋梁」を渡る「みちのく」から改称された下り「十和田1号」です。

  10. 快速つくばね様
    新しい発見と懐かしい話題有難うございます。「ある機関助士」は有名な映画ですが、私が見た記憶に残るのは三国連太郎の「大いなる旅路」です。8620を雪中転覆させるシーンもありましたが東北本線の大型蒸機が活躍した時代の国鉄の家族の30年史が印象的でした。「みちのく」の遅延回復で思い出すのは仙台区の機関助士をやられていた知人から聞いた話ですが遅れていた列車の乗車客の一人が家族が危篤状態で機関士にかけより青函連絡船に間に合うように嘆願されそれに間に合わせたため後日一升瓶を持ってお礼に来られた話です。そういう時代もあったのですね。デジ青に再登場ですが1966年3月20日の下り「みちのく」で牽引機はC6245[平]です。「今は山中今は浜」の碑が建つ広野を出て直ぐの勾配区間を飛ばす昼行急行です。

    • 準特急様
      キリがないのでこのテーマはこの辺で打ち止めとさせていただきますが、私はかろうじてC62の「ゆうづる」には間に合いましたが、C62が牽引する客車の「みちのく」には出合うことができませんでした。当時の時刻によると「みちのく」の下りと上りは「原ノ町」で離合していますが、一般的には知られていませんが、1964年10月から1965年10月までの1年間だけ上りの12列車「みちのく」がC62+C61(たまにC62)の重連で運転されていたようです。上下の経路違いは山陽本線と呉線にもありましたが、この期間「隅田川-仙台」間の荷物列車を下りは常磐線、上りは東北本線を経由させる運転となったため、上り「みちのく」に本務機の平区のC62の次位に仙台区のC61を連結させて回送させていました。
      東日本大震災で「富岡-浪江」間が不通になっていた2017年12月27日の原ノ町構内です。寂しくなりましたが、「みちのく」の走っていた当時と構内配線は変わらず、「みちのく」下りは左側の1番線に、上りは向かい側2番線に停車していました。

      • 快速つくばね様
        キリがないのでこれでやめますが、上りみちのくは2回撮影して何れもC62重連とC62+C60100番台の重連でした。

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