ナンバーの話② 「形式入りナンバー」
本シリーズ、前回の「ナンバーの話」では、50件以上のコメントを頂戴し、皆さんから寄せられた貴重なナンバーを楽しませていただきました。デジ青の双方向システムが遺憾なく発揮された例だと思います。投稿テーマは何でも自由ですが、やはり車両にまつわる話題は欠かせないものだと痛感しました。続いてナンバーの話、蒸機に取り付けられたナンバープレートの話です。形式・製造番号を表すナンバープレートは、いわば機関車の表札であり、とくに前面の煙室扉に取り付けられたナンバープレートは、蒸機のシンボルと言っても過言ではありません。国鉄の蒸機の場合、全国の各工場の鋳物作業場で、銅と錫の合金である砲金を木型に流し込んで製作されます。そのなかでも人気があるのは、戦前製のナンバープレートに見られる、下部に小さく「形式〇〇」と入ったプレートです。昭和13年ごろまでに製造されたプレートは、すべて形式入りでしたが、戦争で金属類の使用を抑えるため、形式入りの無いプレートへと変化していきます。その後、形式入りプレートも、工場入りした際に新しいプレートに付け替えられることもあり、撮影していた昭和40年代には形式入りの蒸機は少数になっていて、撮影したうちでは1割にも満たなかったと思います。身近な梅小路機関区で見た蒸機のなかで、ダントツの人気は、形式入りのプレートの若番号C575に尽きると思います。皆さんも、蒸機に限らず、ナンバープレートの思い出、お寄せください。▲C575の正面のナンバープレートには「形式 C57」の小さな刻印が入る。これが入るだけで、グッと品格が上がる気がする。プレートは、英数字の数によって左右長が異なり、C575は最小の4文字、形式入りなので天地はあるため、“名刺”比率の珍しいプレートだった。
▲C575は昭和12年製造、梅小路区に配属、その後、宮原、姫路、金沢、福知山と移り、昭和41年再び梅小路に来た、当初は金沢時代のツララ切りや回転式火の粉止めを付けた冴えない姿だったが、梅小路区の整備によって、美しい姿を取り戻した。正面を見ると、ナンバーブレートが傾いて取り付けられていることが分かる。昭和46年の山陰本線DL化まで活躍し、豊岡、浜田と転属し、昭和49年に廃車になった。
▲美しく整備されるきっかけになったのが、昭和45年にイベント列車を牽いて、京都~姫路を走った時ではないかと思う。ランボードに白線が入れられ、連結器は銀に磨き出し、プレートを区員が磨き上げる姿を機関区でも見た。そのイベント列車のヘッドマークを掲げるため、端梁上のステーも延長された。▲いっぽう運転室は、形式入りの無い、通常のナンバープレートだった。製造銘板や区名札も美しく、気品が漂う。
▲梅小路に配属のC57のプレート 製造は前述のように全国にある国鉄工場で造られるが、各工場によって、書体に違いがあって、工場名を当てることができるそうだ。上の4両は関西に長く配置されていたため、鷹取工場製と思われ、一見同じ書体に見えるが微妙に異なる。また、5、89のように形式と製造番号の間にアキがあるものと、39、190のようにアキがなくベタ組もある。
▲梅小路区に配属されていたC5715は、正面は形式なしだが、運転台は形式入りと、C575とは逆の例もある。▲▲ナンバープレートの取り付け位置も微妙に違う、冒頭のC575は煙室扉の上部の蝶番の横にあるが、このC5741[福]は蝶番の上にプレートがあり、ずいぶん印象が違う。
▲磨き込まれたプレートに、「梅」の区名札、信号を確認し加減弁に手を添える、機関士の凛々しい姿、やっぱり蒸機はエエなぁと感じさせる角度だった。
▲山陰本線には、C575とよく似た、C557[福]も走っていた、同じ形式入りだから、正面は見分けが付きにくい。ただ昭和30年には名古屋区へ転属しているので、両者が出会うことはなかった(お預かりしているTさんのデータから転載しました)。
総本家青信号特派員様
蒸機に取り付けられたナンバープレートの地色は黒だとばかり思っていましたが、米原機関区で緑色のプレートを初めて見た時は驚きました。後年、名古屋鉄道管理局管内は、競合しない線区で機関区を次のような色で識別していることを知りました。
『赤』名古屋区・美濃太田区、『緑』米原区・多治見区、『青』大垣区・中津川区、『黒』稲沢区・高山区
今でも最も美しいと記憶に残っているのが、鹿児島機関区に配置された機関車でした。鹿児島工場があったためか区名札も砲金で鋳造されたものが取り付けられ、その他の標識も磨き上げられていました。
昭和45~6年ごろの梅小路にいたC57のうち、127号機だけ仲間外れにされているのはかわいそうです。
正面のプレートは形式と番号の間が空いていて、同じ機関車でも違いがあったとは今日まで気づきませんでした。
紫の1863様
失礼しました。たまたま適当な写真がなく、C57127は抜かしてしまいました。最後まで梅小路に残ったC57の5機のうち、127は、昭和38年に転属していて、いちばん馴染みのあるカマでしたね。形式と番号のアキですが、「形式入り」が無くなった戦前製には、このアキはなく、戦後、新しい仕様で造られたプレートからアキができました。
同じ時期に梅小路にいたC11 96も、正面のプレートは形式入りでした。しかしよく見ると数字の配列がアンバランスですね。
紫の1863様
C1196も形式入りでした。梅小路に行くと、いつも扇形線にいて、動いているのを見たことがありませんでしたが、庫内の入換用のようでした。C11は特段に珍しい形式でもありませんが、やはり「形式入りの梅小路のC11」は、それだけで別格でした。たしかに文字のバランスが悪く、Cと1の間にアキがあります。「1」は細い棒一本ですから、前後のバランスの取り方が難しいようです。
昭和46年4月25日午後の梅小路で、扇形庫に勢ぞろいした5両のC57を撮影された方は多く、品川530様をはじめ書籍やネットでよく見かけます。この時39号機は園部までの区間列車の運用についていて、不在でした。
15号機と190号機は火を落としていて、C11 96が移動させていました。添付の画像はC11がC57 190を扇形庫から引き出すところです。
昭和46年4月25日の午後、梅小路の扇形庫には5両のC57とC11が並べられ、たくさんのファンが思い思いに写真を撮っていました。そんな仲間を横目に、少し離れた場所にいた48635のナンバーはなく、ペンキ書きの番号がさみしそうに見えたものです。
紫の1863様
1967年10月の片町線の上り貨物を牽引して鴻池新田で交換待ちしている48635です。この時の正面のナンバープレートは形式入りでした。
奈良運転所配置時代は通常木津での貨車の入換えに従事していましたが、片町線の貨物列車用に配置された4両(予備1両)のC11のうち2両が使えない時に片町線に応援に入っていました。放出、片町に転車台がなかったので、上り列車(片町-放出-奈良)は、逆機運転(バック運転)となっていました。
快速つくばね様
48635が元気だったころの姿を見せていただきましてありがとうございます。88638と交代して梅小路に配置替えとなり、昭和45年の秋、ナンバープレートが盗難にあったニュースを新聞で見た記憶があります。その後の梅小路は立ち入り禁止になり、往復はがきを出して見学をお願いしましたが、希望は叶いませんでした。
添付の画像は48635に代わって木津で入れ替えに働いた、88638のナンバープレートです。4枚すべてが形式入りのプレートでした。
紫の1863様
コメントありがとうございます。1969年1月15日の木津で入換えをする48635の写真が残っていました。この時には前面の連結器周りがゼブラ塗装されていたようです。
快速つくばね様
紫の1863様
48635の動向をお聞かせいただき、ありがとうございます。紫さんが写された昭和46年4月25日は、梅小路C57の最後の日でしたね。一日中、写していたこと思い出しました。48635は、撮った確証がなく、あわてて車両配置表で確認しましたが、エンピツで〇を付けていて、写していたこと判明しました。
総本家青信号特派員様
主旨が「形式入りナンバー」ですのでとりあえず数点貼り付けます。
まず1966年3月22日会津若松機関区にいたD50368[會]です。化粧煙突ですが。既に火を落とした状態でした。
準特急様
ナンバープレートの数々、ありがとうございます。D50は製造時期からすると、全機が形式入りですが、その後換装されたり、煙突もパイプ煙突になったりと、なかなか原型には出会えませんでした。しかも区名札も「会」ではなく「會」なのですね。格式を感じます。
総本家様
1963年5月3日有名中の有名機関車ですが庫に入っていて撮影できず、かろうじてナンバープレートを撮りました。
準特急様
やはりC51225を撮っておられたとは! C51225については、もう少しの差で間に合わなかった私の悲しい思い出があり、つぎのデジ青で告白させていただきます。
これは1963年4月1日八代機関支区で見た戦後型C59の改造機のナンバープレート。「形式入り」と関係なくおまけのようなものです。
総本家様
今日の最後のおまけはD50の改造(キャブ下の従台車)です機関区名の「出」は「出水」です。1963年4月1日八代機関支区。
形式入りナンバーのC51を探したら少しありました。この写真は総本家さんご存知ですよね。1963年4月1日吉松機関区で撮影。左は大畑ループで有名なD51170[人吉]で、真ん中が形式入りナンバーのC5178[吉松]、右はC5194[吉松]です。始めて九州に行き機関区巡りに熱中していた頃の記録です。
準特急さま
はい、忘れようとして忘れられない写真です。「鉄道ファン」で高校生の頃に拝見し、原型C51の良さを、イヤッと言うほど、感じた写真でした。デフの下端がカーブしておらず、C57のように斜めになっていました。こちらも昭和38年の撮影ですか、高校3年生でよく各地へ行かれたものです。
C5194[吉松]も正面は形式入りナンバーですが、パイプ煙突が興ざめでした。腐っても鯛は鯛と言えるかどうか。C51、D50は煙突がパイイプ化されると駄目ですね。
そうですね。C51の魅力を損ねる要素は、いろいろありますが、やはり、煙突(化粧かパイプか)がトップ、つぎは動輪(スポークかボックスか)、デフ(正規か変形か)、ナンバープレート(形式ありかナシか)でしょうか。ただ、末期など、そんな贅沢は言えず、“腐ってもC51”の思いで、梅小路で撮っていたものでした。
フリマサイトを見ると、今でも蒸機のナンバープレートが高額で取引されています。ナンバープレートには興味があっても、大枚はたいて現物を自己所有したいと言う思いは全くありません。ただ、自分で手造りしたプレートは置いておきたいと思い、C575のプレートを写真に伸ばして、ぶ厚いハレパネに貼り付けて、角もRを付けてプレートらしくして、飾って楽しんでいます。