ナンバーの話④ 形式入りナンバー C51225余話
前項で1900生さんから、C51ゆかりの鳥羽快速と修学旅行の思い出を記していただきました。私も京都の小学生でしたから、往復とも鳥羽快速に乗車して、伊勢志摩へ一泊2日の修学旅行へ行ったものです。ただ、道中のことは全く記憶になく、卒業アルバム用に客車内で撮ってもらった写真に、木の背摺りが写っていましたので、乗車したのはオハ61系だったことは判明しました。1900生さんが目撃された加太越えの補機もC51だったかも知れませんし、折り返しで7分停車する亀山駅では、C51225が車窓を横切って行ったのかも知れません。▲修学旅行で出会っていたかもしれないC51225だったが、そのあとは、亀山へ行く機会もなく、同機は昭和40年に廃車となってしまい、私にとってはこの眼で見ることが叶わない幻の名機となったが、その廃止を前にして行事が行われた。
姫路~京都~鳥羽を結んだ“鳥羽快速”2441レ、2442レは、昭和40年2月改正で、京都~鳥羽の準急「志摩」に格上げされてDC化されます。亀山区の蒸機も用途廃止となり、C51225も含まれました。それに先立って、同年2月28日、鉄道友の会では、阪神支部・名古屋支部の共催の「お別れ会」が亀山機関区で執り行われました。当時の友の会会長、片岡仁左衛門も参加する盛大な式となりました。原型C51の最後の公開であり、いまでも参加できなかったことに臍を噛む思いですが、その全貌を伝えるネガが、Kさんのネガの中から見つかりました。
▲京阪神からの参加者は“鳥羽快速”に乗って、10:40に亀山着、機関区で「C51225機関車お別れ式」が行われた。式次第、同機の略歴が貼られている。▲鉄道友の会からの花輪を煙室扉に掲げられた。端梁まで白線が入れられたのは、労りの気持ちはわかるが、ちょっと過剰過ぎた。▲片岡仁左衛門会長からのテープカット。記事によれば、会員だけでなく、機関区の職員も多く参集したと記されていた。▲2月4日の同機の最後の営業運転を行った機関士・助士へ花束の贈呈。中央には、司会の当時の阪神支部の支部長も見える。▲ロッドも揃えられて順光の側線に止められた。原型C51の最後の麗姿を見せた。すでに火は落としていたようだが、煙突から淡煙を吐いて20mほど動いたそうだ。
総本家青信号特派員さま
そうですね、小生が見た加太越えの本務機はC51だった可能性が高いですね。その頃はまだSLの形式は山陰線でよく見かけたC57と東海道線のC62・C59くらいしか知りませんでしたから、SLとしか表現できませんでした。亀山区のお別れ会はやはり名機ゆえのフィナーレだったのでしょう。