あれから半世紀

私の1日は朝食後にデジ青を見ることから始まります。今朝は驚きました。準特急氏が「少し前の三原、糸崎駅界隈」と題して6枚の写真を投稿されているではありませんか! 撮影が1964年、65年ですから もう半世紀以上が経過しています。でも感覚的には 私も「少し前」と感じます。ここのところ雪が舞う寒い日が続いている当地ですが、今日は快晴の穏やかな日和なのを幸いに 準特急氏が撮影された6ヶ所の今を巡ってこようと 早速出かけることにしました。準特急殿の記事の順に「あれから半世紀後の三原、糸崎駅界隈」をご紹介し、準特急殿への御礼に代えさせて頂きます。

まずは三原駅に到着の急行安芸 C59161のカットからです。1975年(昭和50年)に山陽新幹線三原駅が開業します。その時点では新幹線は山側に高架、在来線は地上のままでした。1989年(平成元年)9月になって 在来線上り線が高架となり、翌1990年に下り線も高架となって 現在の姿になりました。従ってC59を撮影されたと同じ位置での撮影はもうできません。C59の背景にパチンコ屋と「みつわ」という看板が見えます。下の写真で 屋上に赤い看板が載っているのがパチンコ屋の位置です。昔の写真ではパチンコ屋と仕出し屋「みつわ」は接していますが現在は駐車場をはさんで白い5階建ての細いビルが「みつわ」さんです。急行安芸の3両目 オロネ10の位置に踏切がありますが 当時は「東1番踏切」と呼ばれていた開かずの踏切で 丁度「みつわ」さんの前でした。踏切跡の道路は今もあります。また 高架が邪魔していますが、バックの山の形は変わっていません。

平成29年1月26日 三原駅東

2枚目のカットはD51761が牽く呉線613レです。この場所は更に糸崎方面に向かった次の「東2番踏切」です。

三原駅東 旧東2番踏切あたり

左手の歩道にカーブミラーが立っていますが、この細い道が東2番踏切の跡です。D51の右手うしろに見える建物は「東洋繊維三原工場」で国内では数少ない「麻繊維品」の工場でした。現在工場跡地はショッピングモールやマンションになっています。客車後方の山手に白い建物が写っていますが、これは「テイジン」や「三菱」の社宅(アパート)で現在でも同じ風景です。但し現在では殆ど住人はおらず空き家状態です。

次は沼田(ぬた)川橋梁を渡るD51818です。まだ木造のワムも混じった20数両の結構長い編成ですね。

沼田川橋梁

呉線の電化は1970年(昭和45年)ですから 電化5年前ということになります。準特急殿の写真は干潮時で橋脚がしっかり見えますが、私が現地に着いたときはかなり潮が上がっていました。当然ながら山(筆影山 ふでかげやま)の姿は変わってはいませんが、半世紀を経て樹木がかなり繁茂しています。D51の写真を良く見ると機関車の前方奥には山裾まで海が広がっていますが、現在ここは埋め立てられて三菱の車両工場になっています。私がときどき筆影山中腹から見下ろした光景をご紹介していますが、その山です。

広行き123M  D51と同じタイミングでの撮影失敗!

今日が土日なら「瀬戸内マリンビュー」号を撮ろうかと思ったのですが、平日のため105系を撮りました。今春から「トワイライトエキスプレス瑞風」が早朝に渡って来るでしょうが、カメラの放列になるのでしょうか。日の出の時刻によりますが逆光になります。

さて三原駅からこの沼田川橋梁まで歩けば30分近くかかりますが、準特急殿は歩かれたのでしょうか?あるいは呉線沿いに走るバスを利用されたのでしょうか?そんなことがふと気になりました。

次は糸崎駅に停車中のクハ86001です。私が三原に住むようになった昭和50年でも80系電車が主力でした。切妻のクハ85が先頭のことが多かった印象があります。クハ86001の向こうにキハが写っていますが、呉線はまだ電化されていないので、呉線の気動車が糸崎まで乗り入れていたことがわかります。

糸崎駅下りホームからの風景

今はまだタクアンの115系が幅をきかせていますが、丁度日陰で見にくいですが227系がかなり存在感を増してきています。かつては機関車交換などで長時間停車したときにはホームにあった立ち食いソバ屋さんがにぎわったものです。現在も長いホームは健在ですが、売店もトイレもなく そんなに長い編成の列車は停車しないので、ホームの途中に鉄柵があって ホーム先端まで行けなくなっています。

次は糸崎駅発車のD52348です。

糸崎駅西 天保跨線橋

ここにはかつて「天保踏切」がありました。江戸時代天保年間に埋立が始まり天保新開と呼ばれていたのが由来です。その天保新開が三菱三原や日本セメントの工場用地となりました。「天保踏切」を渡ると三菱正門だったのですが、今では踏切は廃止され跨線橋となっています。D52と同じアングルで撮ろうと思いましたが、工事中で近づけませんでした。そこで40年前 1976年(昭和51年)の写真をお目にかけます。EF15がD52と同じポイントを渡っているようです。

昭和51年 EF15153

左手の小屋や照明用鉄塔はそっくりです。EF15のモーター音と2軸貨車のジョイント通過音が聞こえてくるようです。

最後が三菱三原構内のC59116です。撮影時期が1964年か1965年か判りませんが、C59116は1965年7月9日付けで広島区で廃車とされています。撮影時期とはツジツマが合いますか?

さてこの車窓から撮影されたC59のいる場所なのですが 現在は道路となっています。

三菱三原北側 市道糸崎港線

かつてこの道路の右手 山陽本線のすぐそばまでが工場敷地で糸崎駅からの引込線や完成車両の試運転線がありました。しかしこの工場での車両製作は終わりを告げ 構内の線路も不要となったため、その用地を市に売却し 現在では三原駅から糸崎港までの道路となっています。

C59116の左手や後方に煙突が見えますが、かつての鋳造工場や熱処理工場です。C59のうしろに交流電機が見えます。1964年か65年だとすると ED75かEF70のどちらかですが、貫通扉があるようですからED75だと思われます。車両製作が終わったあとの三菱三原ではしばらくレムなどの貨車の解体作業も受注していました。広島で廃車されたC59を三原に持ってきて解体したのかもしれません。

駆け足で市内を回って何とか6ヶ所の今を記録することができました。実はここのところ山陽鉄道や糸崎界隈の古い話でデジ青を賑わせていますが、侍が走り回っていた時代のことに熱心な方は多くても、近代の事物には無関心の方が多く、いざ昭和30年から40年代の写真を探そうとしても意外と地元の住民は地元の光景を撮影、記録されていないのです。むしろ準特急殿のように遠来の方が貴重な記録を残されているのです。一昨年の呉線開業80周年記念行事に関してもtsurukame殿や総本家特派員殿から貴重な写真を提供頂きました。そういう意味で今回の準特急殿の6枚の写真は 昭和の三原、糸崎の貴重な記録です。ご披露頂きありがとうございました。

2 thoughts on “あれから半世紀

  1. 西村雅幸様
    三原にお住まいの西村さんがデジ青にいつも地元の情報を発信していただきそのご活躍に毎回感心していましたが、「そうだ、三原、糸崎両駅なら多少写真に撮っていたぞ」と思い出しデジ青に報告しようと思った次第です。ひょっとしたら西村さんから現在はこうなっているとのコメントがあるのではないかと勝手に期待もしていました。そうした折に準特急どころか超特急韋駄天走りで6箇所をまわって即デジ青報告をしていただき大変嬉しく思いました。感謝しております。私、よく激変という言葉を使いますが、三原駅界隈はまさに激変でして私が新旧定点撮影を試みるなら諦めたであろう場所です。蒸機急行終末期には北の「ニセコ」と西の「安芸」が双璧で、呉線の有名撮影地の記録が趣味誌等に残されていますが、当時は何でもないパチンコ屋さんが大型ビルになったりするこのような駅周辺の対比も面白いものだと改めて思いました。山や海などの自然、鉄橋など遮るものがない場所はそのまま昔の面影が残っており懐かしく拝見させていただきました。糸崎の西側も昔が残っているようです。沼田川はヌタガワと呼ぶのは始めて知りました。この橋梁へはメモにバスの時間を記録しており、珍しくバスに乗って行った様です。C59116ですが1965年4月3日の撮影です。ご多忙中いろいろとありがとうございました。

    • 準特急様
      貴殿は’65年度生なのでDRFC入学直前の旅行だったのでしょうか。新旧定点撮影ができるのは 長くこの趣味を続けていて今も元気な人へのご褒美でしょう。沼田川まではバス利用だったのですね。今は民営化されていますが 当時は三原市営バスだったかもしれません。C59116の撮影が65年4月ということは65年7月9日廃車というのは解体後の書類上の廃車日なのでしょう。狭い町のことですから 一巡するのは簡単ですが、今回のように具体的な目的をもって現地に立つといろんな発見があって楽しい1日になりました。春の木次線にもお越しだと伺いました。また昔話に花を咲かせたいものです。

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