老人は向日町に転居後20年ばかり各地の電車めぐりを凍結した。その間、各地の小私鉄が廃止に追い込まれ寂しい思いに浸っていた。それを復活させたのは吉谷さんの一言であった。「電車の好きな君らしくない。ストレス解消には新しい電車仲間を作ることだ」と言って海外鉄道研究会と路面電車同好会への入会を勧められた。氏は1985年に亡くなったが翌年6月に海外鉄研に入会、再び電車にも目配りするようになった。
復活後、海外の電車見学に行くことが出来たが、日本のローカル線めぐりは遅々として進まなかった。その頃に野上電鉄と栗原電鉄が危ないことを知った。共に国や地方自治体の助成金で存続していたのが1993年には失効になり廃止されると報じられた。野上電鉄の調査をと思ったが、内情を知り中止とし「青信号63号:1994-10-1」に投稿、それで栗原電鉄訪問とした。出発は1994年8月12日、帰着は同月16日、実に35年ぶりであった。
初日は遠州鉄道に立ち寄るとし、車庫は終点「西鹿島」に移転したことを改札で知り、高架駅からの乗車は初めてであった。車庫では若い社員の案内で設備の説明を受けた。この時「車庫では機器の修理は一切しない。取り外した機器はメーカーに送り修繕と整備をして貰っている。次いで通信システムの全面的な更新で近代化が促進され、合理化と安全運転の両面達成に繋がるものです」。との話を聞くや中小私鉄も変わったものだと感激した。ところが栗原電鉄では一変した話を沢辺駅で通票閉塞器を操作していた駅長さんと昔話を重ねるうちに聞くことになった。彼は老人と同年で、高校卒業時の国家公務員9等級(高卒現業)の月給は4千円であったが、栗原電鉄は6千円であった。それだけ会社は裕福であったのが1986年細倉鉱山閉鎖によって急転、没落の道を辿った。
累積赤字は9億7千万を数え筆頭株主の三菱は清算の道を選ぼうとしたが、それでは住民の方に申し訳ないと、赤字清算額に持ち株の70%を加えた10億7500万円を沿線町村に寄付して第3セクター化の道を選んだ。最盛期には150人だった従業員は今や嘱託6名入れて32名、正社員は26人となった。と言って名刺交換となったのだが、営業課観光係長となっていた。不思議に思って本職を尋ねると運転課長で、別会社となった線路工事課、電気工事課の仕事以外は何でも屋だと破顔された。
年明けの年賀状にはヂィーゼルカーが入線し、4月から電車に代わって走りますと書き添えてあった。第3セクター化は1995年4月1日、くりはら田園鉄道と名乗った。その日から電車に代わって走ったジィ―ゼルカーは2種5両であった。新車はわたらせ渓谷鉄道と同型で、あかがね(銅)色の中型車3両(KC95:1~3)と元名古屋鉄道三河線の中古車(KD10型キハ15,16)2両であった。老人は図らずも1997年6月に業界会議で盛岡への途中、東北自動車道を走るバス車中からKC95型を見ている。鉱山鉄道であったことから足尾鉱山にあやかったのはよいとして、生まれ変わった鉄道の色としてはつまらんと思った。
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