68190の続編は遠州鉄道の規格型

太平洋戦争は日本の全面的な降伏で終わった。鉄道の復興で被害の大きかったものに車両も上げられた。当時の所管機関であった運輸省は、車両新造には独自の標準設計を決め許可制とした。これに基づいた車両の建造は少なかったが、制約を受けた割には鉄道会社の独自性に負うものがほとんどであった。復興資材が取り合いにならぬように国が認めた新造車の資材については責任を持って優先的に割り当てるということであったが、鉄道会社はそれぞれに動いた節もあるようだが、それには触れない。

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(続)生き残った田園鉄道、弘南鉄道

現在も健闘している弘南鉄道は旅客運輸で経営を存続しているが、訪問した半世紀前は貨物運輸も事業の一端として大きなウエイトを占めていた。在籍車両調査を終え、車庫事務所を出る時に是非写真を撮ってほしいと言われたものがある。それは組成した貨物列車であった。「これから仕業に出るが、その姿を撮ってほしい。なかでも林檎輸送は好調で、ことしは国鉄ワム90000の新車を10両購入した。これから新車を使って初めて10両編成を仕立て集荷に行く」と、課長は意気込んだ。そこで編成を組んでくれたが、中線は旅客列車の行き違いで使えず、外線で牽引機はED202となった。

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関さんの昭和の電車にあやかる

元会長より、同年輩の関さんに失礼のないように新聞掲載稿に対応するように命じられた。先日の「あやかりたい」とした真意は、日本の鉄道界は電車時代になった喜びを共にするためでした。今回、元会長から老人に与えられたテーマは、阪急2800型と国鉄117系の比較をするようにとの提案であったが、今も現役車が残っているので遠慮させて頂きたい。ふと思ったのがデジ青2014年5月12日付きで掲載された遠州鉄道モハ1型の話だ。須磨の大人が珍しや日本の電車を紹介しているが、車庫事務所でお邪魔虫となった老人が聞いてきたことで、デジ青【47254】の後追いする事にさせていただきたい。

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夢を追った人にあやかる

関さんがデジタル元祖青信号に登場したのは2010年11月8日だそうだ。それも京阪1900型を背負っての登場であった。どうやらデジ青には京阪電車に関心を寄せているマニヤが大勢いるようだと思って配慮されてのことなら嬉しい。ところが新聞登場は11月8日より以前の事らしい。でも藤本君と老人が名指しされたのは「あたり!」である。DRFCでは京阪と阪急を巡ってはクラブ創設当時から両電鉄を対象に口角泡を飛ばして論争と言えばおこがましいが、ののしり合いがあったのは事実である。その根源は、戦争中の統制で京阪が阪急に合併させられたが、戦後の分離にあたり阪急側が手前味噌を並べて新京阪線を併合したことに端を発している。分離後の京阪電鉄中堅社員からも愚痴を聞かされた結果、阪急は「こすい」となったのであろう。このようなことが拡大してクラブを2分しての罵り合いがあったのは紛れもない事実である。

関さんは限られた鉄道のデッサンだけではなく、広く日本全国の電車を取り上げていらっしゃるのは、それだけ津々浦々を歴訪されたのではないかと推察している。老人はそれにあやからせて頂いているのである。中には雑誌で見ただけのものもあるが、その時はあんな電車が走っているのかとなり、夢の中身は一段とさえるのであります。

話変わって老人は関さんより2学年先輩となりますが、貴兄の母校である京都工芸繊維大学の事を今も覚えています。生家が下鴨であった、洛北高校卒業生と言ったことだけではなく、老人の兄は工繊の建築科1953年入学です。同級生に寺内信(まこと)さんがいらっしゃり、大変な鉄道ファンでした。兄は4年で卒業しましたが、寺内さんは新設の大学院に残られ、後には大阪工大の教授になった方です。老人の中学時代に鉄道車両のイロハを教えてくれた方でした。貴兄が工芸繊維大学在学中、寺内さんは院生だったと思いますがご存知ありませんか?大阪人でとても気さくな方です。意匠科と建築科は製図室が隣り合わせであったと記憶しています。両学科はとても仲良しで、寺内さんや兄を探しに行ったときは両実習室を覗きに行きました。

ところで貴兄の電車の作品集が出版されているようですね。昨2日に丸善じゅんくで探そうと思い尋ねましたら定休日の札があり、すごすごと帰宅しました。正確な書籍名を教えて下さいませんか、ブックファースト桂で申し込みます。

老人は京阪馬鹿と名乗り関西鉄道研究会で1987年、てっちゃんに復帰しました。関東人に馬鹿とはなんだ、ふざけるな、と言われて馬鹿をひっこめました。幼いころから「アホ馬鹿、すっぽん、まぬけ」と言い習わしてきた関西語です。この言葉には凝性(こりしょう)という意味も含まれているようです。京阪凝性よりバカの方が語呂よしと思ったのですが・・・。ところで老人は現在「新京阪沿線の住人です」。住家を向日町に決めた時、「裏切り者!」という怒声が当然飛んでまいりました。

ところでクローバー会役員さん、関さんの席を用意して下さるようにお願いします。デジ青の愛読者です。コメント会員として自由にあやからせていただきましょう。

生き残った田園鉄道は弘南鉄道

三山電鉄紹介後、間をおいて山形県電鉄訪問記を果たし肩の荷が下りたようだ。1959年東北旅行はこれよりバックオーライで青森県に移ろう。福島、山形から仙台を経て北上が一気に十和田に跳んだ結果、林檎の国での電車訪問記となった。理由は後で明かすとして、ノート中心に「急電101号」、ピク誌「私鉄車両めぐり」を脇に置いて話を続けよう。

弘前には9月21日、盛岡16時03分発DC準急「八甲田」で20時42分到着となった。弘南鉄道には、昭和17年3月南海電鉄に併合された加太電鉄の車両が譲渡されていると奥野師匠に教えられ、どんな電車が走っているのか楽しみであった。翌朝、国鉄弘前駅の跨線橋を下りると木造客車改造の制御車を連結した編成が停車中であった。平賀車庫で書類や図面を閲覧している間に晴天はどこへやら、暗い画像もありで申し訳ない。撮り損なった車両は高松で見つけた同型車で補うことにさせて頂く。弘南鉄道は昭和2年9月7日、弘前~津軽尾上間を蒸機牽引で開業した。昭和23年7月1日に電化(DC600V)された。さらに路線延長を進め、黒石まで延びたのは1951年7月1日、これが現在の営業路線となっている。その後、架線電圧は昭和29年4月1日に750Vに昇圧された。

京都から追いかけてきた甲斐あり、加太電車はこれ!

京都から追いかけてきた甲斐あり、加太電車はこれ!

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温泉電車は2両で開業

先に紹介した同じ山形県内で開業(1926年12月26日)した三山電気鉄道は木造車3両を準備した。ところが3年後(1929年12月8日)開業した庄内電気鉄道は、庄内平野の中心である鶴岡市から日本海縁に一気に電化線を完成させた。ピクトリアル誌199号では会社設立にあたり親潟県人の出資を仰いだことが紹介されている。そして3年の時間差は半鋼製ボギー車2両を新造、5ケ月後更に1両増備した。同じ田園地帯を走る高畠鉄道とは大きな差がある。その根源は日本海を望む終着点に湯野浜温泉があったからだ。日本の民有鉄道は、昭和初期までに建設されたものは地域開発や利便性以外に神社仏閣や温泉へ連絡を目的としたものがあり、その一例とも言える。

地図

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電化は良いが、電車一両の高畠線

以前、老人は山形鉄道三山線を紹介した(デジ青44556)。続いて訪問した日の午前中に訪ねた高畠線を紹介する筈が、すっかり忘れてしまい今日に至っている。訪問したのは1959(昭34)年9月15日で、56年も前の話である。今回メモを整理し、足らぬ箇所をピクトリアル128号((昭37年刊行)を参考にして補ってみた。印象に残っているのは石造りの本社事務所で、京都から来たと言ったら事務所の方はびっくりされ、応接室に招き入れ図面その他の書類を閲覧させて頂いた。三山線では社員休憩室(空弁当箱があった)だっただけに思い出深い。京都の鉄道ファンがよくぞ尋ねてくれたと、感激されたのではないかと今も思っている。

奥羽線・糠の目を起点とする高畠線は、大正11(1923)年3月16日に高畠までを開業した。この時は蒸気鉄道で、二井宿迄延長されたのは大正13年8月31日、全線電化は昭和4年9月1日であった。電化と共に電気機関車1両、電車1両を購入している。これで質問させて頂いた。「電車故障の時はどうしていたのですか?」。「電気機関車がハフを引っ張って代用していた。両方ダメになった時や停電した時などは蒸気機関車の出番となった。」との話であった。なるほど、一日の運行回数が少ない鉄道ではそんなものかと思った。道理で国鉄糠の目から乗った列車(7時52分発二井宿行き)はデキ1牽引の混合列車で、客車代用のデハニ2の客は京都人を含めて10人位だったと思う。

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2010年 大井川鉄道詣では 終焉を迎えた筈が 

1994年GW、就職した息子が配置された上尾に始めての訪問は、その帰途が2度目の大井川鉄道訪問となった。この年の5月下旬、所属していた海外鉄道研究会20周年行事が大井川鉄道中心に挙行されるにあたり、関西支部幹事の一員として下見を兼ねて立ち寄った。本心は白井さんに京阪特急の運転予定日を聞くことであったが、来年の「もみじシーズンには間に合わせたい」との返事を得た。この日は新金谷駅留置線で先に紹介した改造前の京阪特急を撮り、千頭往復を終えたSL急行が新金谷から回送され、C11を外したところをキャッチした。アンパンマン列車が走ったのは1998年で、2000年のJR四国より大井川の方が2年早い。

 

SL急行での運用者車のほんどはオハ35、47系である。

SL急行での運用車のほんどはオハ35、47系である。

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SL急行・かわね号、アプトをよじ登るせっそ号

電車の話に終始したのでは大井川鐡道元副社長・白井昭さんに申し訳ないので、少し宣伝させて頂く。このところ各地でSLブームとなっているが、その根端となったのは名古屋鉄道から大井川鐡道に派遣された白井昭さんのご努力の賜物である。その白井さんとの縁を作ってくれたのが京阪3000系特急車であった。3000系を追いかけている道中では蒸機牽引列車を無視していたわけでなく、随時カメラを向けていた。蒸機牽引旅客列車を復活運転させたのは1976(昭51)年夏だと伺った。国鉄が蒸気機関車の運転を終えたのは1975年12月で、山口線で不定期列車【山口号】を走らせたのが1979年8月と言うから大井川鐡道の方が早い。この時の苦労話はパソコンで【大井川鉄道の鉄道保存を顧みて・白井昭】を打ち込んでいただくと該当サイトに繋がる。

最初はこの位置で京阪特急を、と思っていたが、SL牽引列車の登場となった。

最初はこの位置で京阪特急を、と思っていたが、SL牽引列車の登場となった。

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大井川を渡る列車の紹介

大井川には水力発電所が沿線のそこかしこにあり、その建設で鉄道が敷かれたことで知られている。JRになった後も金谷駅構内で接続箇所があった。それが面白い事に折り返し用の引き込み線がトンネル内まで伸びていた。最近直通列車が設定されておらず、レイルの接続は解除されたように思う。構内配線の観察などがうわの空の老人は、本年(2015年)5月のイベント?では気にもしなかった。大井川鐡道の列車は金谷駅の一端から出入しているが、その単線はしばらく草陰に並行しており見え隠れするが、次駅新金谷方面には下り坂となっている。それがレベルとなると左折して大代川を渡る。左折地点(先の写真では311+511の編成)では東海道線とは5Mぐらいの高低差がありが、その先が今回の撮影地としての紹介点となり近くに踏切ありで、大代川沿い道路からも上がりやすい地点である。

 

千頭行き一番電車を待っていると寝台特急がやってくるが列車名は?

千頭行き一番電車を待っていると寝台特急がやってくるが、列車名は?

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川根路に 関西の特急車3社で4種そろい踏み!

京阪3000系が走りだすと共に元近鉄特急車であった1編成は、外部塗色を元の特急色に戻すことになった。1996年訪問時、新金谷工場は塗装下地作業に追われていた。翌1997年関西の電車ファンの一部で話題となっていた近鉄南大阪線の特急車が、大井川鐡道に到着したとの報を得て老人が訪ねたのは8月13日午後であった。岳南鉄道に京王3000系が入線したとの情報も得ており、新幹線新富士経由で吉原へ、そこで金谷へ急いだ。先ず近鉄特急の留置先を運転手に聞いて直行だ。千頭駅ではお馴染みとなった留置線に出向いて【びっくり!】した。

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先頭車16001号の特急標識の上には貼り札がある。それを見た時「日本制輪子工業所有車」の文字にびっくりしたのだ。阪急2800系が廃車になったとき、どこやらのブレーキシューメーカーが【阪急と富山地鉄】との橋渡しをしたらしいが、阪急京都線特急は高速で酷使されており車体に緩みが生じており、京阪3000系に変更になったそうだ、との噂話を耳にしていた。その時は部品メーカーが廃車物件に手を出すなんて信じられない話で、終戦直後の喉から手が出るほどに車両不足の時代なら分かるとして、経済成長時代では「あほかいな」と一笑に付される話が本当にあるのかと、わが目を疑ったものだ。その後、伏木あたりのスクラップ(リサイクル)業者がJR車両の解体をしているのをテレビで見たが、こうした業者が一枚噛んだのかな? それで使用済みのブレーキシューの後始末屋の出番となったのかな? 真相はわからない。どんな背景を担いで近鉄特急がやって来たのか、だれか教えて下さーい!

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川根路を京阪特急が走っていた!

1994年春に新金谷に送られた京阪3008+3507編成は、1995年盆休みに走っていなかったと先のデジ青【63160】に投稿したが、実は走っていた。ここに皆さんにまたもや【お詫び】でございます。年を取るとあれこれと思い出す事があり、澤村君から聞いた話が残っていたようで1995年末に運転開始との情報が染みついていたようだ。実は1995年8月12日撮影のフィルムが先日出て来たのだが、3000系の姿があった。それは京阪特急を待ち受ける時は田野口駅から下流の橋を対岸へ渡り、川沿いで西日を迎え輝くはずのシーンであった。当日は早朝の新幹線乗継で新富士へ、岳南鉄道で2時間ばかり時間をつぶし浜松行きで金屋へ、連絡の大井川鐡道線で田野口に向かったのだ。対岸に渡ってみたが川巾広く2両編成では遥かなたとなる事が分かり、諦めて橋の手すりにもたれての1枚となった。

川沿いを走る姿は叡電鞍馬線とオーバーラップしないかな

川沿いを走る姿は叡電鞍馬線とオーバーラップしないかな?

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関東勢の一掃と関西の特急車両が続々と!

老人が大井川鐡道に目をつけ、年に一度は顔出しするようになったのは白井昭さんから「お宅の3000が新金谷に近日入りますよ」と、1994年春の彼岸の日に声を掛けられた事に起因している。それを前に澤村君から白井さんとのやり取りの一端を耳にしており、関西ではあまり話題にならない大井川鐡道に喰らい付いてみよう、との気持ちが沸いたのであった。この年5月に東京出張があり、その帰路に金屋口に顔出し1回目があった。その時の光景の一端を紹介しょう。

回送された時の姿をこれより1年近く保持された。

回送された時の姿はこれより1年近く保持された。

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東京で見た電車、それに乗れた話

老人は富山から大阪へ転勤後も東京出張に恵まれた。其の時は旅館宿泊でなく民家の2階を丸ごとアパート代わりに仕立てた家屋があり、会社はそれを社宅代用で借用していた。東京出張所は文京区で、社宅代用は西武鉄道池袋線桜台下車徒歩5分の地であった。これで東京へ出張すれば西武電車に乗れることになった。ある朝、池袋駅に10両編成が山手線を乗り越えて入構するのに気付いた。湘南型6両+4両の固定編成で10両である。その頃の関西私鉄は6両編成が最長で、関西では見られない10両編成がしずしずと下り勾配を降りてくる姿に見入った。その電車の兄貴分あたる車両に大井川鐡道で出会ったのだ。大井川での車号は312+512、313+513の2編成となる。これらの編成が10連になったのではないが、湘南型と言われている前頭部の姿があっさりしているのが特徴で、老人は好きなのだ。

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え。312+512号車

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ゲテモノは遊覧のためか?

老人は学生時代、東京からの帰途に大井川鐡道に立ち寄り、多彩な中古車群に驚いた後はそのままとなってしまった。1994年春、彼岸の日に名古屋市交通局日新車庫で白井昭さんから声掛けを頂き、翌年の盆休みからご先祖さまに義理欠く行為を取るようになった。その発端は大井川鐡道が各地でお払い箱となった電車の再生工場であることに気付き、その指揮者が名古屋鉄道から出向されていた白井昭さんであった。

先ずオープンカークハ861号、種車は名鉄2805号だとされている。ならば戦後、京阪にもあった1300、1600型の兄弟で、車体長17m級の大型車となる。これを1986年に改造したもので、台枠と屋根を残しての工事を金屋口の工場で施工している。車内を見ていただきたい、木製対向座席の間にはテーブルがあり、表は白生地張となり御客様を迎える準備がされている。窓はなく雨が降ればどうするのか心配だ。30年ぐらい前から流行している各地のトロッコ号の先走りのようだが、こちらはボギー車で、単台車の貨車改造より乗り心地は上々であろう。千頭方に運転台があり、種車と同型の2822+2829(M+Tc)が牽引していたとのこと。

その牽引車の写真だが変色姿でごめんなさい。光沢紙裏面にはKodakとなっているが、20年たてばこんなに変色するのかと、実は驚いている。お詫びの印としてもう1景、京阪特急と並んだ1997年のKonika100年プリント、この年にクハは廃車となり牽引車も翌1998年に後を追い役目を終えた。
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盆休みに先祖を迎えず電車三昧(Ⅰ)

盆休みとなると毎年のように大井川鐡道に通っていた。その起源は元京阪特急が走るようになったからで、新金谷駅徒歩1分の吉川(きっかわ)屋旅館が定宿になった。ある年は準特急氏、逗子の旦那様、総本家氏に加えJTS牧野1号氏と共に在庫ビールを飲み干してしまったが、翌朝は5時前に起床、金谷駅近辺に散開して寝台特急を迎えた。

その頃、木造国電のなれの果てに次いでステンレス車体の両運転台車が千頭駅に留置されるようになった。1950年代中期から各地で見られた日車型スタイルなのだが、このステンレス車1105号の銘板では昭和35年汽車会社となっていた。1105号は岳南鉄道に入線、お払い箱となるや大井川に来たものだ。

大鐡にはステンレスカー以外にアルミカーもあった。こちらは正真正銘の昭和38年日本車両製で、北陸鉄道加南線で走っていた。「しらさぎ号」と名付けられ国鉄のお株を奪ったようなものだ。日頃は2両だが多客時となると電気機器の相性あう2両と4両編成で走った。近鉄特急のお古が揃った時点でこちらも休車となり新金谷車庫の本線側の留置線が定位置となった。何時の間にやら見られなくなったので、車庫で聞いてみたら故郷の山中温泉に里帰りしたそうだ。

孤独な1両でのステンレス製

孤独な1両でのステンレス製

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老人の69年前の広島での思い出

8月3日早朝、3時に目覚めテレビをつけて見た。原爆投下の日に広島で市内電車を運転していた若い女性の、今も健在の方の実話をまじえてのドキュメントが放映されていた。過去に何度も彼女達の話は紹介されているが、広島電鉄が今も残る車両を提供し、千田車庫内で彼女たちがハンドルを握るシーンを再現したものであった。原爆投下後の町の姿を紹介するシーンでは、1946年8月に兄と共に電車から見た光景だな、と思うや蒲団を上げて正座した。

原爆投下後の広島の姿を見た時の老人は満8歳、小学校2年であった。7月、夏休みになるや父母に連れられ母の実家、田舎:島根県鹿足郡六日市町に向かった。呉線まわりの下関行きで目覚め、広島の街を見てびっくりであった。横川駅を出ると大田川の築堤となるが、築堤下には貨車が転がっていた。そして己斐駅、スッカラカン、改札口だけに屋根があった。祖母の葬儀の帰路で乗った宮島線の電車、そして市内線の電車も留置されていた。電車は走っている。乗りたい! 父母は3泊して老人を残し帰京した。一人になっても実家周辺には同年輩の遊び仲間が多数おり心配なしだが、電車狂いには気になるのは己斐駅で見た電車の姿であった。迎えに誰が来るのか、ばんざい!願い通りの兄がやってきた。しめたとばかりに帰路は己斐で途中下車、市内電車で広島駅に出る交渉は成立した。
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木造国電はどうなったのか

関西人は木造国電を知らないのが普通、配置がなかった。京都駅に出入りする国電は全て鋼製で、東京圏のように荷物電車は木造といった時代がなかった。それだけに老人は木造国電なるものに興味を持っていたのだが、琴電でも車庫で見ただけで乗ったことがない。それだけにThurukame氏が走行中の姿を撮影したことを知っており、紹介したかった。そこで箱詰めになっている琴電、それも半世紀以上前のものを取り出し整理してみたら「あった!」、1961年3月17日撮影となっている。その前年、老人の訪問時は車庫奥の留置で走る姿は見られずであった。調べてみると1967年2月廃車とある。富山から大阪へ転勤となったのが1963年秋で、この時から四国担当となり何度も出張しているが、お眼にかかれずであった。

thurukameさん撮影の琴電瓦町駅へ入線の木造国電

thurukameさん撮影の琴電瓦町駅へ入線の木造国電

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東風吹かば 鯰の鳴動 街砕く Ⅱ

鯰が暴れたころの老人はDRFC、海外鉄研、JTC(日本路面電車同好会)のメンバーで、連絡が取れない会員の情報集めに熱中していた。26日、姫路の木村氏から「JTS二井林御大に連絡が取れた。マンション入居OKで自宅に帰られたので訪問したいが、須磨以東は山陽本線不通の為で芦屋へ行くのは困難やけど……」と電話が入った。「甲子園-青木間が運転開始となる。誰か誘って行ってくる!」と返事。JTC・Ku、Am両君に連絡、午後3時30分阪神芦屋駅集合とした。二井林御大に電話を入れ「明日行くから、何を所望するや?」と聞き、結果を3人で分担購入する事にした。

昼間は急行になる直通特急

昼間は急行になる直通特急

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