(続)生き残った田園鉄道、弘南鉄道

現在も健闘している弘南鉄道は旅客運輸で経営を存続しているが、訪問した半世紀前は貨物運輸も事業の一端として大きなウエイトを占めていた。在籍車両調査を終え、車庫事務所を出る時に是非写真を撮ってほしいと言われたものがある。それは組成した貨物列車であった。「これから仕業に出るが、その姿を撮ってほしい。なかでも林檎輸送は好調で、ことしは国鉄ワム90000の新車を10両購入した。これから新車を使って初めて10両編成を仕立て集荷に行く」と、課長は意気込んだ。そこで編成を組んでくれたが、中線は旅客列車の行き違いで使えず、外線で牽引機はED202となった。

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本務機となる筈のED301は庫内で検査中のため隊列の先頭に着くのは無理として、貨車10両のうちワム90000は4両だけであるのはご愛嬌として帰宅後、報告にお伺いした奥野利夫師匠は牽引しているED202の写真に眼を留められた。「この電関、大阪高野鉄道にあった日本最初の国産電機の成れの果てと違うか?」との指摘であった。老人は日本最初の国産電気機関車が何処で製造されたのか知らなかった。奥野さんは吉川文夫さんと連絡を取り確認され、大阪高野鉄道が4両自社製作した木造電関が、駿豆鉄道を経て昭和23年電化の時に津軽に2両輿入れたものであると教えられたのであった。この話は尾びれがあって30年ばかり前の話となるが、東洋電機(株)50年史を京阪電鉄で閲覧する機会があった。それには創業翌年(大正9)年に駿豆鉄道より3両分の電気機関車の発注を受けたとあり、ポール姿の自重16頓車の写真が掲載されていた。恐らく主電動機中心に電気機器類の納入をしたのだろう。高野鉄道は2次車新造にあたり、台枠をどこかの鉄工所、多分梅鉢鉄工所で組んでもらい、電気機器は別として台車も別途輸入して組み立てた2両が弘南鉄道にやって来たのではないかと思っている。これを語るお相手は既に黄泉の国の人となられたのが残念だ。本務機がED301なのは両機の出力を比べてみると良くわかる。共に駆動軸数は4で、出力41KWと71KWで×4となっていた。

林檎鉄道での調査を終えて弘前駅に戻ってくると駅前が賑やかであった。リンゴを盛り上げた屋台のオッサンが何やら吠えている。何を言っているのか解らないので傍観していると「一箱どうだ」と津軽弁が飛んできた。「いくら?」と問い返したら「一箱1200円」との返事。そこで「この木箱のリンゴを京都迄送ってくれ!」と指さし「千円にまけて!」と言ったら、「せめて汽車賃乗せてくれ」と言われ1,090円で商談成立。木箱の中身はゴールデン・デリシャスで、京都では1個50円した。それが25個入っていると言われ、試食しての買い物であった。もちろん売主の住所屋号を署名した捺印入りの領収書を頂戴した。

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土産を手配して気持ちは軽くなった。行きがかりのオバサンに「弘前電鉄」の駅を訪ねたら、駅前からバスに乗って銀行前で下車して誰かに訪ねるとよいと。どうやらややこしいところが終点らしい。降りて信号を右折、歩くうち水路縁に出た。どうやら弘前城のお堀らしく、それに沿って歩くように言われた。やっと駅に到着したら単線突っ込み型ホームは良いとして、駅舎内は黒山の人だかり、相撲のテレビ中継の真っ最中であった。そこに2両編成が到着、高校生がどやどやと降りた引き換えに10人ばかりが乗り込んで出発した。2駅目、西弘前が車庫所在地であった。木造建屋の事務所で書類を閲覧させて頂くうちに「これが工事中の車体更新105号車の3面図です」と出された。すぐに定規を持ち出しトレースした。それを下敷きにして謄写版原紙に写し取った奥野師匠の作品を見ていただきたい。車両要目一覧のうちサハフ301号は津軽鉄道に貸出中で現車はなかったが、後に売却したとのこと。クハニ200型の写真がどこへ行ったのか所在不明となった。藤本君ありませんか?

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1 thought on “(続)生き残った田園鉄道、弘南鉄道

  1. 本編、続編と貴重な画像を有難うございます。
    ED202は、言われてみれば、鋼体化されたとはいえ、大阪高野鉄道の面影がうっすらと残っており、即答された奥野師匠はさすがです。
    弘南鉄道は、京阪沿線の高校時代、現役時代、社会人になってからと計4回訪れており、クハニ200の写真もありますので、続々編を書きたいと思っています。

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