温泉電車は2両で開業

先に紹介した同じ山形県内で開業(1926年12月26日)した三山電気鉄道は木造車3両を準備した。ところが3年後(1929年12月8日)開業した庄内電気鉄道は、庄内平野の中心である鶴岡市から日本海縁に一気に電化線を完成させた。ピクトリアル誌199号では会社設立にあたり親潟県人の出資を仰いだことが紹介されている。そして3年の時間差は半鋼製ボギー車2両を新造、5ケ月後更に1両増備した。同じ田園地帯を走る高畠鉄道とは大きな差がある。その根源は日本海を望む終着点に湯野浜温泉があったからだ。日本の民有鉄道は、昭和初期までに建設されたものは地域開発や利便性以外に神社仏閣や温泉へ連絡を目的としたものがあり、その一例とも言える。

地図


添付した地形図は国土地理院昭和9年修正測図を適当に縮図したもので、訪問した時の駅の位置を追加してみた。訪問時の運行本数は上下共に23本で、列車本数46は地方小鉄道としては運行密度が高い方である。因みに昭和14年11月のダイヤでは上下共に16本で列車本数は32となる。先に紹介した高畠鉄道では区間運転を入れても上下共で列車本数は20で、庄内電鉄は1.6倍の輸送力を持っていることになる。因みに三山電鉄と比較すると昭和14年7月現在では上下共に14本、列車本数28となっていた。戦時体制下、陸運統制で三山電鉄と高畠鉄道は昭和19年10月1日合併、三山電鉄が山形交通を名乗ることになった。出羽丘陵を境界として庄内平野に位置する庄内電鉄は、丘陵西部の自動車事業を統合の上、庄内交通を名乗ることになった。車庫は鶴岡駅構内と七窪駅北側で、後者は屋根を持つ突っ込み単線で、降雪期を考慮したものであった。

表

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写真は上からモハ5、モハ3、蒲原デハ11

写真は上からモハ5、モハ3、蒲原デハ11

昭和34年9月23日の訪問で、この時の在籍客車数は急電101号では8両だと報告している。今回も急電掲載稿を参考にして話を進めてみよう。追加事項は追記:以降で分類した。

創業時のデハ1,2は共に更新工事を受け2段窓となっているが、元は新潟の蒲原交通のデハ11~13と同型で(写真の3枚目)、腰板の高いものであった由。増備のデハ3も同型と思われるが、更新後の姿は運転台が2両は中央、1両は片隅となっている。更新工事は1(昭32-4)、2(昭和33-3)、3(昭和31-10)の竣工で、いずれも東洋工機の施工である。台車は東洋車両製で、同型のものが高畠鉄道モハニ1、2号、蒲原鉄道デハ11~13号に採用されている。追記:開通時のデハ1~3号車は、更新前に2号→5号と改番されモハ1、3、5号となった。2号が5号に改番された理由は不詳で、それより3号の扉位置が1号と違うことも?で、聞き忘れたようだ。

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モハ7号は昭29-8の入線。台車はブリル27GE-1で、運転台は湯野浜方片隅、鶴岡方全室である。追記:当車は京王帝都電鉄の元2119号車で、戦災復旧車である。応急復旧を受けたのでダブルルーフに鉄板をかぶせたので深い屋根形状となった。入線にあたり日本鉄道自動車で整備工事を受けた。以前、準特急氏からデジ青で紹介されたことがあるが、元東急の準大型車があるのにぼろ電車を購入した理由は多客時の増結にあったようだ。さすが温泉電車!と納得したものだ。

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写真は上からモハ101、モハ103

写真は上からモハ101、モハ103

この2両は東急の戦後の供出車である。101号が昭和22-11月入線、昭和34-1東洋工機で更新修繕を受けた。103号は昭和23-10月入線、近く更新工事を受けることになっている。追記:戦後の供出車とは敗戦後、車両は割当制となり、割当を受けた鉄道は代替として自社の保有車を緊急を要する地方鉄道に供出する必要があった。東急電鉄は大東急と言われていた時期で、鉄道省規格型モハ63型の割当20両(MTc10組)を受け、代替車として大東急に併合された元池上電鉄が最後に新造したデハ100、200型を各1両、払い下げを受けることになった。他社では静岡鉄道2両、京福電鉄福井支社4両にも譲渡された。

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ハ12,13号は共に明治期の木造4輪車の改造車となっていたが、詳細は分からず仕舞いであった。瀬古竜雄、吉川文夫両氏の考察によれば国電の始祖、甲武鉄道の電車が客車として佐久鐡道に払い下げられ更に新宮鐡道に、御用済みとなった後の昭和17年3月に2両譲渡を受けたものを土埼工場で車体新造したものだそうだ。外形はよく似ているが、窓配置は12号が1D6D1、13号は1D5D1となっている。両端部の窓巾は13号の方が広くなっていた。

庄内電車には乗る時間がなかった。次なる訪問地である新潟県では4電鉄が待っていると思うと気がはやり、湯野浜で一浴びなど思いつかなかった。でも25年ばかり前に仕事で庄内平野を訪ねている。その時は関空から飛び、酒田で会議を済ませバスで湯野浜温泉へのコースであった。翌日はゴルフという出し物があったが不参加で、庄内平野の中心である鶴岡の町を歩いた。この時に思い出した事があった。車庫を訪ねた時に応対して下さった課長さんが「検車設備が整っているから車両の手入れのいいことでは東北では随一でしょう!」と胸を張られた事であった。京都から福島を手始めにぐるりと東北の電車を訪ねる旅をしてきた若者への土産話であったのだろう。確かに鶴岡の車庫は鉄骨組で天井高いスレート貼りのがっちりしたもので、耐寒耐雪の雪国ならではの構築物であった。

4 thoughts on “温泉電車は2両で開業

  1. 乙訓の老人さま
    庄内交通湯野浜線のご紹介、興味深く拝見しました。昔からなんとなく気になっていた鉄道でしたが、廃止されてからは記憶の片隅に追いやられていたようです。小型電車は、詳細は知りませんでしたが、小さいレイアウトで模型化するにはもってこいの、可愛らしくローカル色あふれた電車だと思います。
    かれこれ20年程前になるでしょうか、羽越線の撮影に行った際に、国土地理院地図で下調べをしていて同線を思い出しました。具体的な路線線形を知らなかったので、てっきり羽前大山から出ていたものと思っていました。周辺地形から、大山を出て北上し、西~南転して温泉へ至っていたのだろうことは推測できましたが、鶴岡~大山間のルートには気が付きませんでした。今回の記事で初めて知りました。この線形のように、大山集落の北辺に駅を設けたことで、鶴岡発着の意味は充分あったと思われます。
    手元にある昭和37年8月の時刻表によれば、運転本数はやはり片道23本です。営業キロ程がミスプリで2.2kmとあるのはご愛敬でしょうか。実際の営業キロはどれほどだったのでしょうか。また面白いことに同区間にバスも運行されており、経路に興味のあるところですが50分を要しています。電車では最速26分です。すでにこの頃からモータリゼーションの影響を受け、バスによる旅客確保を図っていたのかもしれませんが、のちの廃止に至る第一歩を踏み出していたのかもしれません。

  2. 山形に高校までいたのでこのところ懐かしい記事が続きです。大阪から山形に移ったのは昭和55年で、山形の私鉄がなくなってたった5年でした。この頃は善宝寺の鉄道博物館も健在でしたし、中学生のときに国道7号線を走っていたら廃車体を目撃したこともあります。もう30年も前のお話です。

  3. 1900さん、返事が遅くなりごめんなさい。急用勃発で20日朝、パソコン前を離れました。先ほど帰宅、そうだったわいとお返事するのが遅れたことごめんなさい。開業時の営業距離は12,2Kmで、中間駅は京田、北大山、善宝持の3駅です。運転時間は27分、評定時速は27.11Kmとなります。その後、安丹、善宝寺が増設されました。私が訪問した時の運転時間は26分でしたが、走行中の写真は1枚も有りません。秋田で日本海に乗り遅れ、鶴岡着が14時となり車庫で所属車両について教えてもらい、ノートには7号車の3面図、1号車の側面図が残っています。ここで筆を止めて、ご挨拶を課長さんにしたのでしょう。その時に工場(車庫)のご自慢が「土産話」となったのだと思います。
    たかおかくん、元気ですか。老人は77歳の祝いを大井川のSL急行車内でしてもらいました。発端は横浜の孫娘がテレビでSL列車を見ているときに「あの電車に乗りたい!となり、息子が企画したものでした。貴君とのお付き合いも20年を超えました。今度こそ「神田の飲み屋」で異国気分で飲めるように貴兄と横山君の都合をお尋ねしてのスケジュールを立案したいと思っています。

  4. 1900さん、またしてもスカタンです。増設駅は安丹、善宝寺ではなく安丹、七窪です。穴掘って潜りたい心境です。

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