福島を取り巻いた電車

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先のデジ青【17434】では湯口会員から福島の電鉄線形成について経過が紹介された。図を参考にしてほしい。Aは今も残る飯坂西線、Bは廃線となった飯坂東線で、東線は1925年内に改軌と電化工事が竣工した福島電気鉄道である。梅鉢鉄工所製木造車は車体巾1676粍、車体妻外寸法9690粍、出入口巾610粍、窓寸法縦612×巾735粍、座席巾355粍、屋根高3327粍と、数字を羅列したのはどなたかペーパーモデルを制作してくれないか、との老人の呟きである。台車:梅鉢鉄工所、電動機:芝浦35HP×2、制御器:芝浦単式、制動機:梅鉢手動、空車時重量:7,950kg、最大運転速度:24km/hr、乗客定員42人となっていた。

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電化開業は湯野町-長岡-福島駅前に始まり、延長線も長岡分岐点-保原-梁川、保原-掛田間を年内に、追って伊達駅周辺の連絡線も完成させた。それに伴い第一号型は試運転に向け先行納入5両、翌1926年6両、1927年2両、計13両が新造された。

飯坂温泉へ直行線が加わる

福島飯坂電車軌道は福島電気鉄道に先行して国鉄福島駅を起点に飯坂温泉へ、1924年4月開業した。これが現在の飯坂西線で、軌間1067粍、2軸4輪車を5両購入した。1927年5月福島電鉄に併合された。軌道線型2軸車はヨーロッパの香りがするもので、ロシアの都市の注文流れ品だったと伝えられている。合併するや国鉄駅の北方に連絡線を作り、車両の相互乗り入れを実現している。編入車の車両番号は21~25となった。

1917年12月、西線は経路変更や線路規格向上が成り高速運転可能となったが、戦時体制下では車両の新製は認められず、東線の1号型3両(1~3号)を日本車両で高床用に改造すると共に、2軸車2両(21、22号)も高床用に改造して運用に対応した。東線では1938年9月の長岡車庫火災でボギー車1号型3両、2軸車2両を焼失しているが、これらはどのように復旧されたのか委細不明。

戦後の混乱期を潜り抜ける

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東線の戦後はどうだったのか、1947年に新1~3号を日本車両で製造、東線に配置しているが、これは戦時中に1号型3両を西線に送り出した見返り品として配属されたものらしい。残念ながら訪問した時は3両共に1101形に改造された後で、ピク誌147号の写真では木造車のように見える。

ついで1949年5月新造車14号を日本車両で製造している。入線に当り規格型だと言われているが、ホンマかいな?と今でも思っている。写真の1114号(入線時14号)は前面が丸く、終戦直後の混乱期にこんな電車が、と思われるスタイルで代価150万円となっていた。そして1950年10月に新車15、16号車を1両250万円で迎えている。当時のインフレが偲ばれる。この3両に共通するのは定員50(座28)、寸法:長11,606、巾1,676、高3,836粍、自重10.25頓で定格速度40km/hとなっていた。

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1117~1119号の3両は書類では1952年認可の新造車扱いとなっているが、実態は転入車23~25号車の台枠などを再用、その他機材を掻き集め半鋼製ボギー車に日本車輌で仕立て上げたもので、竣工は1952年3月(17~19号)、代価1両250万円、車体長は10,236粍になっていた。続く1120、1121号の2両は正真正銘の新車で1952年3月、日車製、代価は1両465万円、車体長11,440粍。車体巾1,676粍で車体巾は狭いままである。

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日本の戦後経済は朝鮮動乱、神武景気、岩戸景気に煽られ上昇の道を辿った。鉄道界も新技術導入と共に戦前制作車両の更新に着手している。それに追い討ちを掛けたのが桜木町事故で、車両の不燃化が叫ばれ、木造車を大量に抱えている福島電鉄はその対応に追われることになった。大正末期設計の木造車1~13号車は全車残存しており鋼体化改造されることになった。火災復旧車、西線用改造代替車などを含め13両は順序順で日本車両が車体新造、主要機器の更新工事を受け新番号で登場した。最初は1101、1104号が1955年11月160万円で、次いで1102、1103、1105、1107、1109、1111~1113号の8両が1956年12月に竣工している。長11,606粍、巾1,676粍、高3,836粍、自重10.25頓、定員50(28)人。残る3両:1106、1108、1110号は1958年竣工となったが、車体幅は1,900粍に拡大されているが定員は先の10両と同一である。

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以上が57年前に長岡車庫での聞き取り調査をまとめたもので、間違いあればお許し下さい。

車庫入口に木造貨車の達磨さんが安置されていた。飯阪電車4輪車の成れの果てであろう。車庫の話では祭りの花電車用に自社で改造したもので、用済み後は社用運搬車として使っていた、とのこと。

1964年正月、先にデジ青【72406】で紹介された日本硫黄の貨車で振るえ上がる前に東線を単独訪問しているが、その時に新車が走っているのに気付いた。写真代わりに70年の歩み掲載の図を転載する。ニモ1の図についても出処は同じである。

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飯坂東線は先ず聖光学院前-湯野町間が1967年9月16日廃止、残る軌道線は1971年4月12日全廃となった。

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撮影:1114号吉川文夫氏:1116、1120、1113、1110号カラー野崎昭三氏:その他沖中

 

 

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