車輛の戦災は軽微、復興は迅速だった仙台市電

老人の年輩ともなると訪問先の鉄道で戦争中はどうでした?との質問をしたものだ。仙台も佐藤さんへの質問は先ず戦災からであった。【電線路はかなり被害があったが、車両は2両がちょっと外板を焦がしただけで、奇跡的に1両も焼けず、戦災地区の真ん中にあった変電所も防空建築で無事であった。車両は深夜になると毎晩、八幡線や北仙台線に手数を掛けて避難していたのと、車庫(北2番町)も際どいところで戦災を遁れる事が出来た。先の2両も工員輸送の深夜便で営業線にあって空襲に遭遇したのだが、大事に至らず大変幸運だった。新車の補充など思いもよらない時期に、可動状態のものは貴重品であった当時のこと、他都市からえらく羨ましがられた。】と佐藤さんは語ってくれた。以下【 】は佐藤さんの記述。

戦時中に東京市電名義車60形9両が導入されたが、中古車であるため一早くお払い箱となり、その代替ともいえる東京都電の中古車70形10両が入線したのは1948年11月であった。これより先、ボギー車80形5両が入線していた。【ボギー車については1942年に5両の新造計画があり木南車両に発注されたが、着手が遅れ中途半端の状態となっていた。それが戦後竣工し名古屋市電1070形となったことから「仙台市電の注文流れ」と言われているが、戦災都市で車両事情が悪い名古屋市に国が振り向けたもので、いくら財政状況が逼迫していたとはいえ、注文したものをキャンセルするようなことはしていない】と、きつく言われた。

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戦後の新造車のスタートは80形と名付けられ1948年7月に先ず5両登場した。それまでモハ1型川崎造船所、モハ30形日本車両、モハ43形梅鉢車両と製造所は変遷したが、【戦後の新造車第1弾は新潟鉄工所となり、80形80~84の5両が製造された。翌49年に85~89、1年置いて51年90~94、52年95~103の計24両が製造されたがいずれも半鋼製であった。ビュ-ゲル化は1949年にテストを開始、翌年採用となり取替は1951年5月完了した。更にボギー車であることから車号を100番台にすることになり、1954年に101~124に変更された。】

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続いて200形だが、この形式は【戦後何でもかんでもアメリカ製は良いとされ、もてはやされ、路面電車はPCCカーを参考にして東京都電が試作した。それを参考にして200形は関西のナニワ工機が1954年5両製造した。1956年に追加3両、1957年は日本車両東京支店で製造した3両の計11両で打ち切りとなった。】集電器は最初ビューゲル、続く3両はパンタグラフ、最後の3両はゼットパンタと使い分けていた。また運転台の窓だがナニワ工機製は跳ね上げだったのに比べ日車製は2段となっており上段固定、下段押上となっていた。

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そして怪物300型である。奥野師匠は何処からか図面を入手されており、それを旅立の前に見せてもらっていた。工事は東洋工機(東洋電機の子会社)で、2単位改造されている事も知らされていた。仙台到着の日、北2番町車庫にお伺いして2編成の夜間留置先をお尋ねしたら、長町車庫だと教えられ、そこで翌朝ラッシュアワー明けとなるころに車庫前で待ち構えた。それが掲載した2景である。京都で見せて頂いた図面の扉位置とは異なったものであった。【予算費目の関係で改造車の形態となったが、モーターと制御器を除いて全くの新車と言って良かった。ゴム入り弾性車輪、一体鋳鋼、各軸単独ブレーキなど当時の最新の技術を集約した路面電車となった。】と、佐藤さんはこのように結論付けられている。

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仙台で最終新造形式となった400型は、都電8000型に近いスタイルで4両が4月ナニワ工機で新製(昭和34年4月付)され営業に入っていた。【他社でも採用されていた高張抗鋼板とし車体重量低減に努め、さらに台車の軽量化や自動車部品の採用などを進めた結果、軽量化は200型に比べ11%軽減することが出来た。そして200型最終新造となった3両(209~211号)より新造費を24%低減することができた。発注済の増備車(昭和35年度竣工)は更に新しい技術を取り入れ設計を進め、中でも最小の出力で高牽引力が発揮できるマキシマムトラクションの採用はその一例であり、その成果が披露できる日が近いので楽しみだ】と、語って下さった。

車庫で佐藤さんに出会うことが出来て開業以来の仙台市電の歩みを拝聴できたが、市電事業は昭和39年あたりが頂点であった様で、400型の増備もその年で打ち切られた。老人は昭和36年4月に社会人となり富山県に配置された。38年9月に大阪へ転勤となり各地の情報を耳にする機会が増えた。39年正月の年賀状の中で香川県人の一文が気になっていた。「9月廃線の琴参電車が仙台に売却が決定。」とある。5月18日に高知への出張があり、当日15時に旅館集合となった。「しめた!上司は飛行機で行くと言っているが、夜行で四国入りなら善通寺途中下車で15時までに高知入り可能だ。仙台に旅立つ前に「さよなら」をする事にした。

車庫には7時ごろ到着。車庫はがらんとしている。柵もなければ番人もいない。勝手知ったる他人の庭である。車庫に留置されている電車一両ごとにメモを取った。1960年4月のメモ帳より3両少ない。1両は木造車だから解体済として2両は81、83号車だ。そこへ元車庫の番人が自転車でやって来た。「車両調査をやっている」と言ったら、81、83は昨年暮れに金沢に行った。残る80形6両は仙台行に決定、塗装替えに入ったところだ、とのことであった。

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その後、吉川文夫さんにこの時の話をしたら、元琴参電車の1枚が送られてきた。仙台市電181号、昭和43年5月1日撮影。返礼で送ったのは琴参電車88号、昭和34年4月3日撮影。

仙台に送られた琴参電車は床高がレール面上1020粍あり2段ステップであったので、ワンマンカー仕様に改造を受けることなく昭和45年に廃車解体された。

 

 

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