阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑤

(2) 中津付近

天神橋筋六丁目を出た北大阪線の電車は、中津方面へ向かいます。すぐに「本庄中通」の停留場で、戦災を受けなかった古い街並みが続き、並びには老舗のツバメ屋模型店があったことも思い出です。つぎの「南浜」では、東海道本線をくぐり、名称は、むかし西成郡南浜村だったことに由来、つぎの「北野」も、かつての西成郡北野村に由来、ここに北野中学があり、戦前に十三駅西に移転し、戦後、北野高校となっています(以下、昭和50(1975)年5月)。そして、阪急の複々線をくぐり、北大阪線唯一の専用軌道を行くと、阪急と国道176号に挟 まれて、梅田貨物駅・梅田貨物線を越す、乗り越し橋脇の「中津」に到着する。

 

 

「本庄中通」付近を行く。古い二階建ての街並みが続いていたが、向こうでは、高いビルの建設も始まっていた。「北野」付近を行く。後ろが、阪急の高架橋、1926年に完成、それまでの箕面有馬電軌時代は地上線で、この付近で、北大阪線と平面交差していた(後述)。

中津から勾配を降りて阪急線をくぐって天六へ向かう。今もある横断陸橋から眺められる。この数百メートルが北大阪線で唯一の専用軌道となる。

梅田貨物駅・梅田貨物線を越すトラス橋に掛かる。並行する阪急線、国道176号ともにトラス橋で、微妙に意匠が異なり、橋梁学的に見ても、興味深いところだった。橋を渡り終えると「中津」、隣は阪急神戸線、阪急電車の本数は多かったが、両者の並びは意外に少なかった。

最終日のひとコマ、阪急から来たのか、中津から多くの名残客が乗車、手前ではオッさんが熱心に絵筆を握っていた。

赤信号でクルマを止めて悠々と横断して行く北大阪線を、国道176号のトラス橋から見る。幾何学模様を描く中津陸橋は、北大阪線の廃止後、廃線跡も含めて一体化し、新しい陸橋に架け替えられた。 がんこ寿司のお馴染みの看板が中津の真ん前のビルにあった。「十三名物」とは、十三が創業の地だったから。顔は、創業者の小島淳司氏で、氏は同志社の出身で、校友会の要職も務めていた。いま経営から退いているが、顔だけは変わっていない。

電車の向こうは阪急梅田駅で、その周辺では高層ビルも立ち始めた。右側、上部は鉄骨のまま建設中はマルビルで、それがいま解体されるのは、時代の隔たりを感じる。

古地図で見る中津付近

中津付近の北大阪線は、昭和初期にできた梅田貨物駅によってルートが変更されている。古地図3点で変遷を見てみる。

北大阪線開業時 北大阪線開業後で、廃止前のルートではなく、右上の「南浜」からまっすぐに「北野」「中学校前」「下三番」と直線で伸びていた。阪急(当時・有馬箕面電軌)は地上を走り、「北野」で北大阪線とは斜めに平面交差していたことが地図からも読み取れる。阪急高架後 高架化によって地上線は消えるが、梅田~北野は北野線として戦後間もなくまで存続していた。地図でも下方の梅田から伸びて来た阪急線が2本描かれ、1本は北野で終わっているのが分かる。梅田貨物駅設置 大阪駅は客貨分離され、新しく梅田貨物駅が造られる。北大阪線は梅田貨物駅・梅田貨物線を越えるため、昭和3(1928)年、国道176号線の中津陸橋に並行して乗越橋を新設し、廃止前に見られる阪急中津駅近くのルートに変更した。開業時の線路跡は、梅田貨物駅(現・廃止)で分断されているが、済生会中津病院の北側に沿う細い道路はその一部に当たっている。

(現況はストリートビューから、古地図は日文研データベースから転載)

 

 

 

 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑤」への7件のフィードバック

  1. 久しぶりにGordon Davisさんのスライドから投稿します。2枚あるので、連投しますが、1枚は以前にお目に掛けたかもしれません。北大阪線関連なので、御許し下さい。ご当地に疎い小生が、何故に北大阪線と判るかと云えば、サボが天六ー野田だからです。しかし、場所が判らなかったのだが、解説を頂いた地図を見ると、どうやら中津の様ですので、ここへ投稿した次第です。これは位置関係から、野田行の5号と思います。

  2. では、2枚目。これは天六行きの21号かと、ちょうど中津の電停に着く前に信号待ちをしているところでしょうか。

    • 宮崎繁幹様
      カラーはいいですね。この色始めて見ました。後方の阪急電車も気になるところですが、色は確かにマルーンです。

    • 準特急様のおっしゃる通り、私も初めて見る色で薄茶色と濃紺のように見えます。
      梅田貨物駅の写真を、前に宮崎様から見せていただきましが、昭和31年か、32年の撮影でしょうか?
      JTBの「発掘カラー写真」シリーズに、ヒギンズ氏が撮影された阪神国道線の13号他が載っています。車体色は晩年の国防色と海老茶の見慣れたものでした。撮影日は昭和34年7月とされ、この間に変更があったようですね。
      ヘッドライトの周りを囲むように取り付けられたパイプは、ポール時代の名残でしょうか。宮崎様に見せていただいた阪堺電気鉄道にあったのを思い出しました。

  3. 阪急宝塚線の岡町で生まれ育った者にとっては、親に連れられて大阪方面に出かける際に車内から見かけた懐かしい光景です。当方が中学校に入学して間もない時期の画像ですが、まだ自分のカメラを保有していなかったので、北大阪線は写したことがありません。
    梅田行きの宝塚線普通が十三を発車すると、「次は中津、中津 次は中津でございます 野田・天六方面のりかえ」と車掌さんがアナウンスしていました。これに対し、池田・宝塚方面行きはのりかえ案内は省いていました。並走する神戸線も同様だったのか否かは知りません。阪急が他社線の乗り換えを案内するのは、当時は中津のみだったのではないでしょうか? なお、北大阪線が廃止されてからは、のりかえ案内は取りやめとなり、今日に至っています。

    • ゴハチ信者様
      岡町でお生まれなら宝塚線は毎日の足だったことでしょう。このアナウンスは間違いないと思いますがマルーンさんに確認出来たらお願いしたいと思います。因みに私が乗っていました今津線の阪神国道駅のアナウンスは上下共に「次は阪神国道、阪神国道でございます。国道電車はお乗り換え願います」だったと思います。

      • 準特急様
        阪神国道駅も乗り換え案内をしていたのですね。言われてみればごもっともなことですが、この駅のことは全く思い浮かびませんでした。西宮北口ー今津を初めて乗車したのは国道線が廃止された後でしたので、上記のようなアナウンスを聞いたことは当然ありません。ご教示いただき、ありがとうございました。

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