阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑫

ほかの線区でも走った“金魚鉢”

阪神軌道線の3線〈国道線、北大阪線、甲子園線〉の紹介は以上ですが、実は“金魚鉢”こと71形が走っていたのは、この3線だけではなく、ほかの支線でも走っていた時期がありました。それが尼崎海岸線(出屋敷~高洲、昭和37年廃止)、いまもある武庫川線(武庫川~洲先(当時))なのです。 尼崎海岸線 大正時代、阪神は今津から海岸線に出て、出屋敷まで「コ」の字に結ぶ今津出屋敷線を出願した、第一期工事として、昭和4年に出屋敷~東浜を開業するが、以降は未成線のままとなった(途中の浜甲子園~中津浜のみ甲子園線の延長として開業)。昭和26年に沿線の地盤沈下のため高洲~東浜を休止・廃止。結局、出屋敷~高洲の一駅のみ1.7km、乗車時間2分の支線として残り、“金魚鉢”が細々と走っていた。架線柱、軌道敷は複線分が確保され、当初の構想の大きさを感じさせた(昭和37年9月、篠原丞さん撮影(以下同じ))。

出屋敷で待機する金魚鉢、2両は連結されているのか定かではないが、実際ラッシュ時は付近の工場従業員への大量輸送で連結運転もあったようだ。Yゲルとパンタの両方を装備していて、本線を回送で走ることがあり、架線との離電を回避するため、大阪寄りはパンタ装備となった(昭和37年9月)。 武庫川線 武庫川河口にある軍需工場へ物資・工員輸送のため敷設された。昭和18年に武庫川~洲先、翌年には武庫大橋まで開通し国道線と接続。さらに国鉄からの物資輸送のため、甲子園口への連絡線を延長、3線化されて貨物も乗り入れた。戦後は休止ののち、武庫川~洲先の旅客営業を再開した。一時期、本線の高床車の不足を補うために“金魚鉢”が入線した。写真の武庫川駅の配線状況は、今も変わらない(昭和35年1月)。のどかな武庫川沿いの3線区間を行く。車両は本線の尼崎車庫の配置で、回送時は本線を走り、いまもある連絡線から武庫川線に入った。“金魚鉢”のうち、73~76の4両が尼崎海岸線、武庫川線用としてYゲルを2基に増設、標識灯も2基にして、のちにパンタに換装された(昭和35年1月)。

なお写真をご提供いただいた篠原丞さんは、昨年11月にお亡くなりになりました。阪急電車に限らず、貴重な国私鉄の記録を続けられて来ました。完璧なまでのデジタル化を促進され、編集業務でデータをお願いすると、30分もしないうちにメールで画像データが届いたこともありました。私の行なった写真展にも、毎回欠かさず来ていただき熱心にご覧いただき、激励していただきました。ご冥福をお祈りする次第です。

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