クローバー会第10回鉄道写真展「鉄路輝く」も幕を下ろしました。ご来場者のなかには「デジ青読者です」と言って来場される初対面の方、なかには首都圏からの方もおられ、デジ青が広報媒体になっていることを改めて感じました。ネット総数から見ればわずかかも知れませんが、全国のデジ青読者に向けて、微力ながら投稿を続けたいと改めて思ったものです。積み残しのテーマも数多くあって、まずは、来年2025年に廃止50年を迎える阪神国道電車。3線のうち甲子園線、北大阪線は紹介しましたが、「国道電車」の母体ともなった国道線が紹介できていませんでした。まずはそこから紹介しましょう。▲高架の阪神野田駅の下にあった国道線のりば。左の階段を上がった高床ホームから発着した。右は北大阪線の乗り場で、電車も北大阪線の天六行き。
▲▲低床の北大阪線、高床の国道線(右)が並ぶ。
▲野田を出ると、高架を行く阪神本線の電車と並走し、国道線はすぐ右へ折れる。
▲淀川大橋で淀川を渡る。向こうは阪神本線の鉄橋。2号線を歩いてここまでは来たものの、以西は、工場ばかりの殺風景な沿線で、絵にはなりにくく、電車に乗って、尼崎の中心、難波、浜田、大島付近へワープした。
国道線の歴史
大正初期まで。大阪と神戸を結ぶ道路は、西国街道などの旧街道しかなく、馬車交通や、増加する自動車に対応できなくなっていた。大正8年、国鉄東海道本線と阪神本線の間に、幅28mもある新しい阪神国道(国道2号)の建設が決定した。この新国道に、阪神電鉄は路面電車を走らせることにした。建設は、別会社である阪神国道電軌を設立して行うことになり、軌道と道路を同時期に完工させるため、昼夜兼行の突貫工事の末に、昭和2年に、野田(当時、西野田)~東神戸(当時、神戸東口)26.0kmが一挙に開業した。野田では阪神本線、阪神北大阪線、大阪市電と接続、東神戸では神戸市電と接続した。国道線は、国鉄や阪神本線を乗り継いで大阪・神戸に行く培養線の役割で、国鉄、阪神本線の駅の近くにも停留所が設けられ、乗り継ぎの便をはかった。開業後の昭和3年に阪神国道電軌は阪神電鉄に合併された。
▲国道線の工事が進められる上甲子園付近。西灘付近の工事、背後は阪神本線との交差。新設された国道を行く国道線の電車(左から、いずれも阪神電鉄社史より転載)1960年代に入ると自動車交通量が増加し、国道2号線は慢性的な渋滞となった。電車の定時運転も難しくなり、電車遅延、乗客減、本数減という負のスパイラルに陥った。末期は、平日ラッシュ時こそ、7~9分ヘッドで運転されたものの、昼間は48分ヘッドで、頻発運転という路面電車の機能はすっかり失われてしまった。特に神戸市内で混雑の著しい西灘~東神戸が昭和44年12月に廃止、続いて乗客減少の著しい上甲子園~西灘が昭和49年3月に廃止された。残る野田~上甲子園が、北大阪線、甲子園線とともに、昭和50(1975)年5月に廃止され、阪神電鉄の併用軌道線、全線の歴史を閉じた。
総本家青信号特派員様
廃線50周年は別の路線を考えておりました。阪神国道線も来年で廃線から50年を迎えるのですね。
昭和50年3月、特に興味もなかったのですが、一度だけ「金魚鉢」を見ておこうと出かけました。上甲子園から野田を目指して歩き始めましたが、あまりにも少ない本数に嫌気がさし、歌島橋で投げ出してしまいました。よりによって最も運転本数の少ない国道線を選ばなくてもよいのに、「国道線」の名前にこだわったのがいけなかったと反省してます。
総本家様の「国道線」、楽しみにしてます。
まったく関係のない話題ですが、今日の私は西院へ行ったついでに、踏切警報機の懐かしい音色を聞いてきました。
紫の1863様
廃止50年と言えば京都市電烏丸線もそうですね。京都市電も載せなければと思うのですが、まだ廃止52年経つ、大宮・千本線も出来ていません。
たしかに国道線は昼間45分ヘッドぐらいでした。天下の国道2号の真ん中を走る国道線、クルマに被られること必至です。となるとまた45分待ち、考えただけで気が遠くなります。私もよく行ったものだと思います。ただ最終日近くは、かなり増発していましたから、だいぶ助かりました。
西院の嵐電踏切、遮断棒は設置されますが、電鐘はのこるのですね。
はい、遮断棒は設置済みで、使用されていました。赤い服を見た男性の上のほう、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、ドングリを逆さにしたような茶色いものが電鍾です。以前と変わらず、懐かしい音色を響かせていました。