韓国の蒸機と言えば両数が多かったミカ3が思い出される。保存機もあることから私は韓国のD51と思っているが、アメリカンスタイルである。
1971.4.22 慶州駅のミカ3 120で跨線橋がなく小学生が構内踏切を渡って乗車した後に出発していった。▼
ミカ3は朝鮮戦争で分断された北にも残っていたはずで何両かは見ている。
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韓国の蒸機と言えば両数が多かったミカ3が思い出される。保存機もあることから私は韓国のD51と思っているが、アメリカンスタイルである。
1971.4.22 慶州駅のミカ3 120で跨線橋がなく小学生が構内踏切を渡って乗車した後に出発していった。▼
ミカ3は朝鮮戦争で分断された北にも残っていたはずで何両かは見ている。
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復刻カラーの私鉄電車撮影を楽しんでいたが趣味だからそれはそれでいいとして手元にある古い台湾や韓国の写真を取り出して思うことは日本はこれからどうなるかということである。ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮のミサイル連続発射に対して国連や日本は何もできない。気が付けば国産ジェット旅客機の撤退やH3ロケット打ち上げの失敗があり、経済的にも世界順位を落とし続けておりこの先どうなるか心配である。あまり政治的な話はこの会の趣旨に合わないのでコメント等は不要だが一人行く末を案じている昨今である。
1968.3.19 台湾の台北駅。国共内戦に敗れ台湾に逃れた蒋介石国民党は大陸反抗、実行三民主義のスローガンを掲げ、駅頭、車内、乗車券などにもそれが見られた。本省人(戦前から台湾に住む人)は今でもそうであるが、日本人に対して親切であったが、大陸からの外省人(主に国共内戦後に台湾に来た人)は日本語を喋らず全体に冷たい印象を持った。台湾鉄路などでは要職は外省人が占めていた印象である。下の写真の台北駅の左側屋上には光復大陸の文字が見られる。▼
台湾のディーゼル特急光華号はヘッドマークに中華民国の国旗と中国大陸の地図を掲げていた。1968.3.23台中の光華号▼
一方、客車特急の観光号全面のヘッドマークには少し見づらいが台湾の地図が掲載されていた。1968.3.23台中の南寄り1km付近のR63牽引の観光号▼
次に1971.4.26のソウル駅である。日本に比べて10年以上遅れた感じであった。朝鮮戦争を戦ったこともあり反共が強く反日意識も強かったと思う。台湾人程ではないが、親切な人も多く街には軍人も多く見られた。この頃はまだ夜間は外出禁止であった。▼
看板列車特急「セマウル号」に乗車したが、ディーゼル機関車牽引で客車の屋根には日本の151系こだまと同じようなクーラーを付けていた。ソウルから南へ直ぐの水原で撮ったPRボードで鉄道の将来計画のようであった。▼
その横には日本のブルートレインと貨物を牽くEF65500番台の写真があった。韓国語はわからないので内容は理解できないが、当時先を行っていた日本の鉄道のことを取り上げたのではないかと思われる。▼
丁度この時は韓国の大統領選挙が行われていた。ポスターは白黒で右端は朴槿恵のお父さんである朴正熙で、その隣が後に大統領となった若き日の金大中と思われる。最近日本の賃金があがらず停滞したままで韓国に抜かれたと聞いてショックを受けているが、このほか、造船、鉄鋼、IT関連、半導体などよくわからないが負けている分野も多いのではないか。ところが大統領が代われば政策がゴロっと変わるので徴用工や中国、北朝鮮問題など信用していいのか疑問である。▼
日本の総理の主義主張がはっきりせずフラフラした感じでも何とかなっているのはだらしない野党のせいでもある。いま、個人的には台湾有事が一番気がかりである。台湾が中華人民共和国台湾省にならないことを祈るばかりである。
散歩がてら西武を撮影中にいつもの黄色でなく茶系の電車を見た。車内の広告を見ると同社の創立110周年記念トレインとのことで前身の武蔵野鉄道デハ5560の復元カラーを2000系(2069-2070)に施したものである。この色は近鉄がこれも同社の前身大阪電気軌道のデボ1形の復元カラーに変更した5802Fと似た色である。個人的には阪神電車の旧型車の濃い茶色に近い感じがした。
2023.2.22 小手指-西所沢間を行く2070を先頭とする急行池袋行き ▼
次に2022.7.21 石切駅のトンネルに吸い込まれる準急西大寺行き近鉄5802F▼
南海電鉄でも復刻カラーがあった。同社創立130周年と7000系の引退を記念とした10004Fの旧グリーン塗装の復元で2015.6-2016.3と短いものであった。この写真は2015.11.9粉浜で撮影したもので住ノ江から難波に向う回送であるが、既に行先は和歌山市行きとなってる。「なーんなーん南海電車」の時代の色ではなかろうか▼
西武とともに復刻カラーのお好きな東武であるが最近伊勢崎線の特急200系(205F,209F)が1800系急行「りょうもう」に使われた復刻カラーに変更された。これは200系のデビュー30周年記念のリバイバルカラーで2021年8月から運行されている。2022.11.27福居-県間を行く特急「りょうもう24号」205-1赤城発浅草行き ▼
同じく東武動物公園-姫宮間の特急「りょうもう22号」赤城発浅草行き205-1▼
急行「りょうもう」の1800系時代に一度太田から乗車したことがある。日光、鬼怒川方面よりも伊勢崎、赤城方面の方が特急利用客は多いようである。東武の100系スペーシアには金色の徳川色の車両(103F、106F)に加えて1720系デラックスロマンスカー時代のリバイバルカラー(101F)が走り出したがまだお目にかかっていない。何れにしてもイベント的なものであるが、広告電車よりはましなので走っているとノコノコ出かけることが多くなった。本題の西武2000系や近鉄5802F復刻カラーは正に古い時代の色で濃い緑と共にあの時代はどこもあのような色であったのだろうと思う。
先日弘前城を紹介した際に奈良の駅名研究家さんから、最近用事で和歌山に出かけることが多いこととかつて和歌山市電が存在したことを知ったとのコメントが寄せられた。お城と電車シリーズでは現在12ある残存天守の半数とその近くの電車を紹介してきた。和歌山城は残存天守ではないので今回番外編として発表させていただく。
和歌山城は天守曲輪(くるわ)を中心に一二三段式に曲輪と櫓を配備したさまが姫路城にも負けない堂々とした形をしていると言われている。五層でなく三層であることなどいろいろ事情があったようである。この城は豊臣系の築城から関ケ原で功のあった浅野幸長(よしなが)を経て家康の十男頼宜(よりのぶ)が紀州五十五万五千石の城主となって以来御三家のひとつとなった。また、童謡「鞠と殿様」で有名である。たまたま2009年9月26日に訪問する機会があったのでその時の雄姿を発表させていただく。
和歌山城は1945(昭和20)年の空襲で天守、小天守群を焼失し、1958(昭和33)年にコンクリ―ト造りで再建された。▼
東北唯一の現存天守は見事なさくらで有名な弘前城である。前回宇和島城では現地まで遠いとのご意見もいただいたが、弘前は東京からは日帰りが十分可能である。弘前城は天守自体は小さくて櫓のようなものであるが、他にも二の丸追手(大手)門を始め五つの城門が残っており何れも重要文化財に指定されている。弘前公園自体も広くて散策の価値が十分にある。弘前城は津軽藩代々の居城で初代藩主為信が計画したがほどなく亡くなり二代藩主信枚が後を継いで慶長16(1611)年に完成させた。天守は寛永4(1627)年の落雷により焼失し現在の天守は文化7(1810)年に本丸辰巳櫓を改造したものと言われている。弘前城で特筆されることは天守の移設である。これは本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」が見られ、天守真下の石垣を修理することになり、高さ14.4m、重量400tの天守の移動させることになった。2014年春から3か月かけて移動したが、元に曳戻すのは早くて2026年から2028年頃と随分先のことになる。
遅咲きで有名な桜であるが訪問時は雪の天守でこれはこれで味わいのあるものであった。2013.1.29▼
城の立地するところは高台にあったりして天然の要塞のような場所が多く、敵から攻撃されにくい。現在各地にある城も築城以前にはそのような砦跡のようなものがあった事例は多い。宇和島城も、戦国時代に既にあった小規模な城塞を豊後の大友氏に攻められている。その後城づくりの名人藤堂高虎により本格的に着手された。元和元(1615)年仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が入城し、寛文2(1662)年2代目藩主宗利により大改築された。以降、伊達氏歴代の居城となった。幕末の藩主宗城(むねなり)は松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに幕末の四賢侯のひとりといわれ維新後も政府の要職に就いた。
1998.5.2 宇和島城残存天守 駅から少し高い所を登ったので平山城である。▼
1998.5.2 伊予市から途中伊予大洲城に立ち寄り昼前に宇和島駅到着。メモにはキハ326に乗車とあるが、宇和島駅の記録は1枚しかない。▼
宇和島は今でも遠いと思う。
一月も終わりですね。毎年同じことですが、昼間の時間は徐々に長くなってきました。皆さんお元気のことと思います。迷図作家の関先生の高槻の中学、高校時代の同級生が私の先輩で今日軽い食事をしてちょっとした鉄道話をしました。愛称線の話を持ち出しましたところ東武鉄道のアーバンパークラインとスカイツリーラインの話をされました。お互いに古い人間であるからかもしれませんが、アーバンパークラインは野田線であり、JR琵琶湖線のような間違いは起こさないと思いますが、しっくりこないとのことです。パークラインは公園なので多分清水公園のこと指していると思います。沿線には大宮公園もあり、正解は分かりません。スカイツリーラインは伊勢崎線とありますが、ピンときません。そもそも東京スカイツリー駅(元は業平橋という伝統のある駅名でした)の近くの北千住駅まであたりだけのことと思っていましたら、伊勢崎線全部になるようです。ところで私個人は最近まで東武=日光というイメージから浅草-日光間を日光線と思っていましたが、東武動物公園-日光間が日光線だそうです。話は飛んで最近の市町村の合併の話が出て栃木県にさくら市というのがあるそうです。氏家町と喜連川が2005年3月28日に新設合併してできたそうで桜が売り物だそうです。当会にも千葉県の城下町佐倉にお住まいの方がおられますが、佐倉の方はどう思っておられるのでしょうか。また、群馬県には2006年3月27日に新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の2町1村の合併でみどり市という市ができたそうです。この様な例は日本全国まだまだあるでしょう。さらに旧駅名の話も出てDRFCの方なら都道府県をまたぐ駅で与瀬-浅川はご存知と思いますが有名なので今の駅名は指し控えましょう。もう奈良の駅名研究家さんから出たかもしれません。ここでアーバンパークラインの写真を貼り付けます。スカイツリーの写ったスカイツリーラインはどなたか撮られていれば貼り付けてください。
2013.9.19 大宮公園-大和田 柏行き61602 烏に邪魔された!
2013.11.20 釣り人も見られる古利根川 春日部-藤の牛島間の柏行き8410
2020.8.8 新柏-増尾 船橋行き8464の車体には東武アーバンパークラインの文字が入っている。私鉄一形式で最大両数を誇った経済車8000形も支線を除くと少なくなってきた。
日経新聞1月25日の夕刊を見ると「最強寒波で近畿 列車数時間立ち往生」という記事が出ていた。JR京都線とJR琵琶湖線で24日夜、大雪のためポイントが複数箇所で切り替えられなくなり、JR西日本は同日午後8時ごろから運転を見合わせた。高槻駅と山科駅間で計15本の電車が乗客を乗せたまま、線路上数時間、立ち往生した。この様な内容で地図も掲載されていた。長時間の立ちっぱなしは私のような高齢者なら耐えられなく体調が悪化すると思う。
ところで、関西のJR愛称線は出来てもう時間が経って定着してきたものと思うが私など古い古い人間は神戸線、宝塚線、京都線と言うと阪急のことと思ってしまう。因みにJR神戸線は大阪-姫路間、JR宝塚線は大阪-篠山口間、JR京都線は大阪-京都間でここまでは間違えなかったが、JR琵琶湖線は京都-米原間と思っていたが、長浜までである。JR嵯峨野線は京都-亀岡間でなく園部までである。JR大和路線はJR難波-加茂間である。JR東日本でも宇都宮線は東京-宇都宮と思っていたが黒磯までである。一般の人には正確に区間が分からなくても愛称に慣れてもらい利用し易いことが重要なのだろう。ローカル線では誘客のため無理につけたと思われる愛称線名もある。万葉まほろば線、愛ある伊予灘線、宇野みなと線、阿波室戸シーサイドライン、よしの川ブルーライン、しまんとグリーンライン、阿蘇高原線、ゆふ高原線、あまくさみすみ線、若松線、福北ゆたか線、原田線、空港線、えびの高原線、うみねこレール八戸市内線、はまなすベイライン大湊線、奥久慈清流ライン、森と水とロマンの鉄道、ゆうゆうあぶくまライン、ドラゴンレール大船渡線、銀河ドリームライン釜石線、奥の細道湯けむりライン、奥の細道最上川ライン、山形線、フルーツライン左沢線、男鹿なまはげライン、学園都市線、花咲線等々まだまだあるのかもしれない。さて、地図に戻って琵琶湖線であるが、湖西線の方が琵琶湖はよく見える。琵琶湖線は湖東線の方がいいような感じがするが、そこは東海道本線。愛称には日本一の琵琶湖を入れたかったのだろう。それに湖西線は愛称ではなく正式な線名である。
西村雅幸さんが宮島口、阿品東、地御前神社、荒手車庫、広島駅前等々広電を取り巻く近況を詳細にレポートされた。どこもそうであるが広電は全体には撮影しづらくなった印象である。奈良の駅名研究家さんは駅伝のこともコメントされており昨日23日(日曜日)の大会をテレビ観戦した。都道府県対抗の男子駅伝で長野県が優勝した。個人的には兵庫県を応援していたが8位であった。箱根駅伝では箱根湯本あたりで小田急がチラッと見えることがあるが、広島駅伝は広電の宮島線がかなり並行しており、箱根の比ではない。昨日は結構長い間選手と電車の併走が見られた。「お前何を見とんのや」と言われればもちろん電車である。
さて、広島地方は最近とんと行ったことがないが、今回は過去に記録した個人写真を投稿するとともにいつも広島だよりといろんなコメントをされている西村さんに敬意を表したい。
最初は高校生の修学旅行時に写した宮島口の駅と蒸機列車である。この写真は以前発表したことがあると思う。日時は1962年10月24日6時35分で列車は前夜21時32分に大阪を出発した233列車八代行きで八代到着は20時13分である。機関車は下関区のC5953でこの頃の山陽本線は戦前型C59は少なかったので貴重に思った。▼
次に荒手車庫で1977年11月8日に撮影した1076で元は阪急の500形である。私にとっては今津線で小、中学の通学で毎日利用していた懐かしい車両である。ご覧のようにマルーンからオレンジとアイボリーのような色に変わり、さらに扉の位置が変更されているが、正面の顔は昔の面影が残っている。▼
同じく懐かしい車両で元阪急の210形の1082である。学生時代嵐山線に行くと大体これか200形なまずが居た。神宝線610形と同じようなスタイルであるが、1編成しかなかった。これも塗装と扉位置の変更はあったものの顔はそのままであった。▼
海がよく見える阿品東のあたりを行く宮島口行き3907を撮影。 2008年9月7日▼
広島市民球場が最後を迎えるというので対阪神戦を見に行った。907は元大阪市電2601形で広島に来て冷房化された。2008年9月7日▼
最後に毛利氏の広島城で同じ9月7日の撮影。▼
北陸唯一の現存天守が丸岡城である。城主は信長の家臣で秀吉のライバルでひげもじゃが特徴の柴田勝家の甥の柴田勝豊により1576(天正14)年に築城された。勝家の正室は信長の妹で美貌のお市の方である。お市は浅井長政に嫁ぎ小谷城で信長に攻められたが3人の有名な娘共々逃れることができた。その後柴田勝家に嫁いだ。丸岡城の石垣は荒々しい野面積みである。丸岡城が有名なのはショートセンテンスの元祖「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という手紙文である。一筆啓上は家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻にあてたものでお仙は後の丸岡城主本多成重の幼名仙千代である。丸岡城は桜が有名で霞ケ城とも言われているが訪問したのは1991年2月22日の雪の日であった。駅から離れていてタクシーを利用した。福井地震でかなりやられたが修理して重要文化財となり現在に至っている。建物内部には急な階段があり今なら上るのも厳しい。尚、浅井長政の小谷山城跡は崩れた石垣などが残っており当時の戦いを偲ぶことができる。また、秀吉、勝家の古戦場賤ケ岳や織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の姉川の合戦場も近くにあり戦国ファンには見逃せない地域である。▼
城見学の後は倶利伽羅に行っている。途中、小松駅で撮った写真が残っている。青森行き特急「白鳥」クハ481-36とクモハ475-53普通電車。▼
お市の方は最後は柴田勝家と福井城で自害したと言われている。丸岡城訪問の朝、福井城(越前北庄城)の石垣を撮影した。▼
今までお城をバックにした電車を発表してきたが、うまく城郭と電車が入る所は限られているのでこれからは城郭訪問前後に利用した電車も発表とさせていただきたい。その代わりと言っては何であるが12(今まで松山城を発表したので残り11)の現存天守のある城を当面の発表対象として続けることとする。
最初は宍道湖を眺める国宝松江城である。関ヶ原合戦西軍の毛利氏が支配していた出雲は合戦後東軍徳川方の堀尾吉晴が遠州浜松から入封し月山富田城を経由して松江に築城、城は1611(慶長16)年に完成した。別名千鳥城と呼ばれる。その言われは千鳥が羽を広げた格好に見える三角屋根を「千鳥破風」と言うなど諸説がある。従って木次線を走った快速「ちどり」は松江城のことである。佐竹保雄先輩撮影のC56のヘッドマーク付きの姿が「想い出の木次線(同志社大学鉄道同好会)」に掲載されている。
2002.8.17 松江城 ▼
武家屋敷、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記念館などの観光をし、城見学の後は一畑電鉄松江しんじ湖温泉ターミナルをに向い、宍道湖をバックに一畑電車の撮影に向った。3扉→2扉化改造の京王の2104で担当は京王重機であるが、この頃松江の観光用バスには京王重機の子会社東京特殊車体が改造したレトロバスも走っていた。2002.8.17津ノ森-高ノ宮 2104電鉄出雲市行き▼
車輛は京王、南海の独壇場であった。上の写真の2104の京王時代の写真を探した。1970.2.27高尾山口-高尾間単線区間を行く急行新宿行き5718である。▼
12月17日(土)ダイヤ改正で阪急電鉄に準特急が新設された。準特急は2001(平成13)年から今年3月まで21年間京王電鉄で使用されていた列車種別である。京王では当初、特急と準特急の違いは分倍河原、北野の停車であったが、その後その2駅に特急も停車するようになり、千歳烏山、笹塚の停車が違いとなっていたが、3月からはその違いもなくなり特急に一本化された。座席指定の京王ライナーの存在があったものと思われる。一方、阪急電鉄では京都線で快速急行→準特急へと変更があり午後を中心に土日祝、平日ともにかなりの準特急ができた。これに対し神戸線の準特急は極めて本数が少ない。ダイヤを検索されたし。
それでは12月17日土曜日改正初日からの撮影を順を追ってみる。この日は門真市のホテルを出て大阪モノレールで阪急京都線南茨木に向い、茨木市で目的の準特急京都河原町行きに乗り換えた。久しぶりに見慣れたネーミングの列車をみたがこの日は曇天で雨が降りそうな天気であった。8時2分準特急列車は9404を先頭に到着。▼
甲斐の国と言えば武田信玄であり、その城は甲府城ではなくもう少し北にある躑躅ケ崎館である。甲府城は武田氏滅亡後将軍家に最も近い親藩の城となった。築城は1583(天正11)年とも1585(天正15)年とも言われ家康が建てたとの説が有力である。三橋美智也の武田節には「人は石垣、人は城」とあるがこの石垣はどこのものなのだろうか。関東には石垣があるのは江戸城、小田原城、甲府城、沼田城(山梨県は、天気予報やニュースなど関東、甲信越と一括りになっている)くらいだと聞いたことがある。幕末の戊辰戦争の末期には幕府から新選組組長近藤勇に甲陽鎮撫を命ぜられたが、目指す甲府城に行きつかず板垣退助に敗れ敗走し最後は板橋で処刑されている。明治の廃城の後に現在のJR中央本線が開通しており城は分断されている。
写真の左部分にも再建の城建物があるが下手な撮影で右の櫓のみ 2018.4.8 17:25身延線ホームより撮影 ▼
前回京都鉄道博物館でC621の横に並んでいたのが同じくトップナンバーC551。昭和10(1935)年川崎車輛の製造で小樽築港、旭川、室蘭、旭川とずっと北海道内で活躍した。C55はC51→C54→C55と続くライトパシフィックの位置づけでスポーク動輪が最大の特徴であった。それまで二つあったコブも一つにまとめられそのスタイルはボックス動輪化されたC57に引き継がれていった。C57は完成された亜幹線用の旅客用機関車で貴婦人と呼ばれるようになったが同じライトパシフィック機ではC55の方が貴婦人だという人もいた。名古屋区の関西線や福知山、豊岡区の山陰線、福知山線、播但線等関西地区でも見られたが、転属、廃車で北海道、九州に集約されていった。蒸機ブームの始まるころにはC55、C57の姿を求めて若者は遠隔地を旅行したが、今はお爺さんになって同じような昔話に花を咲かせている。
京都鉄道博物館に静態保存中のC551 2011.4.23 ▼
1966.9.4 東室蘭のC551 この写真はプロ野球大洋、巨人で駿足好打の選手として活躍した屋敷要さんの「遥かなる鐡路」に掲載されたもの ▼
1966.9.4 東室蘭 同機のナンバープレート他 ▼
関連写真として台湾彰化で見た入れ替え作業中のC55形CT252 1968.3.23の撮影で台湾は国共内戦で台湾に逃れた蒋介石総統の時代で大陸は毛沢東であった。▼
熊本城は慶長12(1607)年築城の名手と言われた加藤清正により建てられ、その後加藤氏改易後小倉から細川忠利が入城し細川家が幕末まで続いた。城は明治10(1877)年、日本の最後の内戦西南戦争の戦地となり、原因不明であるが焼失している。その後昭和35(1960)年に大小天守が復元された。平成28(2016)年の熊本地震により損傷を受けて現在は修理中である。熊本城は別名銀杏城と言われている。城内には宇土櫓という遺構が残存し小西行長の宇土城の移築と言われたが真相は不明である。有名な櫓であるが写真が見つからず割愛させていただいた。また、熊本城の石垣の勾配は見事で武者返しと言われているがこれも写真紛失で割愛した。どなたか特徴ある姿を撮っておられ追加していただければ幸いである。熊本城は江戸城は別格として大坂城、名古屋城とともに三名城と言われていることは前に述べたが、もう一つ規模的なことを考慮して三大名城というのがあるが、これは大坂、名古屋、姫路城であるがいろいろな説があり三名城自身も三大名城とも言われはっきりしない。
1988.5.1 昭和35(1960)年再建の大小天守 ▼
城内には西南戦争で西郷隆盛と戦った官軍熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき / たにかんじょう)の銅像があったが、現在は他の公園に移されている。▼
熊本市交通局の電車は皆さん何回かデジ青で発表されている。私は市電にあまり熱心ではなく、ついでに撮った数枚のみである。何れも1988.5.1熊本城前付近である。1032▼
1093②健軍町行きと読める ▼
同じく9703 ▼
昔の乗り物絵本には大抵C62の「つばめ」や「はと」が出ていた。それを写真に実現した山科の鉄道写真界の人間国宝佐竹先輩には毎度のことながら羨ましき限りである。もっとも今の若い方には撮れただけでもええやないかと言われそうであるが今回はそのC62のトップナンバーである。私の撮影時(1963-1964年)の山陽本線は架線が張り巡らされていたが走るホテルと言われた20系ブルートレインは何れもC62牽引で、撮影可能な下り1列車「さくら」、7列車「みずほ」が広島運転所(旧広島第二区)、3列車「あさかぜ」、5列車「はやぶさ」は下関区の担当であった。また、その他の急行列車もC62若しくはC59が牽引し、正しく夢のような時代であった。この様な中でトップナンバーC621は一度も優等列車牽引に巡り合わなかったのは残念である。しかし、トップナンバー故なのか広島で保存の後に梅小路の京都鉄道博物館に静態で保存されている。訪問した日は何れも雨だった。
C621略歴:1948(昭和23)年 1月 日立製作所笠戸工場にて落成 製造番号1921
新製後広島第二区に配属、1950(昭和25)年8月から1957(昭和32)年9月のおよそ7年間は宮原区で特急「つばめ」、「はと」など主力列車を牽引したが、再び広島に配属され1967(昭和42)年7月に同区で廃車となった。
1963(昭和38)年3月27日 下関 221列車柳井発門司行きを牽引後機関区へ向かう▼
1964(昭和39)年7月23日 横川-己斐(現西広島)229列車大阪発門司行き ▼
1968(昭和38)年3月27日 下関 C621ナンバープレート▼
2011年4月23日 小雨煙る中、屋外展示中のC621 ▼
2022年11月13 日 ホームカミングデイ総会の直前に撮影 北海道にいたC551と庫に並んで展示中 ▼
江戸城と言えば太田道灌が築城(1457年長禄元年)したと習った記憶がある。その後、徳川の本城として家康、秀忠、家光三代が改修、各地の諸大名を総動員(こきつかった)して広大な城郭をつくりあげた。天守は1607年慶長7年)につくられたが明暦の大火等で現存していない。過去にNHKブラタモリでも江戸城が放映されたが敷地は日本一でどこまで続いていたのかのかよくわからない。
2003.5.1 西の丸のシンボル伏見二重櫓と続き多聞櫓 ▼
過去のデジ青等で触れられていたら申し訳ありません。駅名にも疎い私ですが、道内完乗を目指して湧別迄行った昭和57(1982)年5月2日に途中に中湧別-湧別間に四号線という駅がありました。このような駅名は珍しいのですが、開拓時代の道路が近くの線路を跨いでいてつけたのではないかと勝手に推察しています。他には似たような駅名で宗谷本線も和寒-剣淵間にも東六線という駅があったようです。また、北海道のバス停に〇〇宅とか言うのがありました。これらは人口希薄と開拓が関連しているのかもしれませんが、わかりましたら教えてください。簡易停留場なのでしょう。駅名辞典のようなものがあったと思いますが、駅開設日や駅名の由来などが出ていたのではないでしょうか。
また、湧別ー中湧別間は何線だったのでしょうか。交通公社時刻表では湧網線に読めますが、弘済会の道内時刻表では名寄本線に読めます。何れにしましても今はなき路線で中湧別-四号線-湧別の4.9kmの盲腸線です。
四号線駅板 ▼
寂しい行先板と湧別駅のキハ22321 ▼
2020年11月23日にC5744を投稿して以来およそ2年ぶりの同一テーマでの投稿である。掲載できる写真が枯渇してきているが動態保存機も含めできる限り発表していきたい。
久しぶりの今回は東京JR新橋駅前に鉄道発足100周年を記念して昭和47(1972)年より鎮座しているC11292である。SL広場として知られており待ち合わせなどに利用されているが、街の景観はどうあれこれ以上の目印はない。
この機関車は多少機関車趣味に覚えのある人には戦時設計の粗悪車と感じるはずである。角張った砂箱、蒸機溜がそれを物語っているし、除煙板も改造をうかがわせる。
生まれは昭和20(1945)年2月と私と同じ年である。日本車両名古屋の製造で廃車されるまで姫路(私の記憶では姫路1区)から出たことがないという。播但線や姫新線を嫌というほど走り回ったことであろう。兵庫県に縁のある私も播但線はC55、C57を撮りに行ったことはあるが、姫路近郊の通勤列車牽引のC11はほとんど撮ったことがなく姫新線に至っては乗ったことがない。ところが関東のクモハ73106東ウラさんがこの機関車を撮っておられたので発表させていただく。
1970.3.24 播但線溝口 ▼
1970.3.24 姫路区 ▼
2022.10.26 新橋駅前のC11292で今年塗り替えが行われた 戦時設計スタイルの角張った二つのコブが特徴 ▼
2022.10.26 同機説明板 ▼
快速「つくばね」様
いつも有難うございます。「高原列車は行く」ですが、歌詞の中に「山越え谷越えはるばると」とか「明るい青空白樺林」が度々出てくるのでこれはてっきり小海線とばかり思いこんでいましたが友人から違うと言われたことを思い出しました。そう言えば2番には「君らの泊りも温泉(いでゆ)の宿か」とか3番には「五色のみずうみ」が出てちょっと小海線とは違うようです。高原列車の名に惑わされていたかもしれません。私は今はありませんが、磐梯国際スキー場の仕事をしていまして磐越西線猪苗代には何回か出張しております。民宿の方には沼尻鉄道の運転をした人もいました。あのあたりも磐梯高原ですね。沼尻鉄道は学生時代に川桁で1966.3.21に泊まり放置されていた客車を撮っています。私どもの先輩には沼尻鉄道の素晴らしい写真を撮った人が大勢います。▼