お城と電車(8)福知山城

福知山は山陰、福知山線のジャンクションで昔は北丹鉄道も出ていた。大阪、京都から長い旅(少なくともC57やDF50が牽引するオハ61系客車の頃はそのように感じた)を終えて福知山に到着する寸前に右手の丘に見えてくる。織田軍の丹波・丹後の基地として明智光秀が築城した戦国期の城で天守は1961(昭和36)年に復興された。ここも石垣に石塔や墓石が使用された粗野な野面積みである。3年間在城した。光秀は3年間在城し、善政で福知山の人々に慕われたという。尚、近くの商店街のような所にC5856が保存されていたがまだあるのかその後確認はしていない。

2013.8.30 福知山に到着する新大阪発城崎改め城崎温泉行特急「こうのとり15号」クロ181-14。左側に微かに復興天守が見える。▼

 

 

 

 

お城と電車(7)小田原城

北条氏の小田原城である。ここは城の敷地が大きかったが、どこまであったはかはよくわからない。城は上杉謙信や武田信玄の猛攻に耐えたが付近の石垣山一夜城をつくった豊臣秀吉の大軍に攻められて開城。以降徳川譜代大名の居城として明治を迎えた。現在の城は1960(昭和35年)に建てられた復興天守である。

小田原はこれまで度々地震に襲われ現在の天守は4代目であるが北条氏の時代のものとは異なっている。小田原市は小田原城の他に箱根の関所や芦ノ湖、東海道小田原の宿場町、名物蒲鉾のみやげなど観光都市になっている。▼

以前は箱根登山鉄道の電車が小田原駅まで入っていたが、今は小田急の1000形4連である。登山鉄道の車庫が入生田にあるのでそこまでは三線式レールで登山電車が入出庫している。▼

お城と電車(6)大和郡山城

wakuhiroさんからご紹介のあった大和郡山城。近鉄橿原線に乗る度に気にしていた城である。近鉄郡山駅から九条駅に向かって5分も歩くと左手に石垣が現れる。天正8(1580)年筒井順慶が築城。豊臣秀長が街づくりを行いその後譜代大名が城主を務め明治を迎える。郡山は大坂、京都に近い重要拠点で大和国の政治、経済、文化の中心として繁栄した。城の敷地は相当なものであったと推察され、訪問した7月はひとまわ りするのに大汗をかいた。

石垣の間を走る京都行き特急。22600系▼

石垣は樹木が繁茂して少し分かり難い。電車は近鉄京都行き急行8619。▼

天守台で石垣は野面積みです。▼

お城と電車(5)大坂城

日本の三名城をご存知だろうか。バカにするなと言われそうだが大坂、名古屋、熊本が三名城である。江戸城や姫路城は該当しない。では大坂城は誰がつくったか? 現在見る大坂城天守は昭和6年に大林組がつくったものである。石山本願寺攻めの信長が本能寺の変で亡くなった後に、秀吉がつくったのが最初の大坂城と言われている。その秀吉の城も大坂夏・冬の陣で埋められてしまった。なお、秀吉の野面積み(石をあまり細工せずにつくった城郭初期のころに見られる粗野な石の積み方)の城は現天守とは少し離れた場所から発掘され確認されている。今日見ることのできる大坂城の立派な遺構は家光の時代のものである。

さて、大坂城はwakuhiroさんに紹介していただいたが、私が撮ったのは京阪電車の旧片町駅~天満橋駅間の辺りで大阪市電の京阪東口路線の最後の頃1968.4.30である。京阪電車はスーパーカーと思うが大阪市電は3001形か2601形か車両型式はよくわからない。何れにしても今は撮れない風景と思う。

大阪環状線には大阪城公園という駅があるからには、高いビルでも登れば大坂城を俯瞰できる場所があるのかもしれない。どなたかご存知のスポットがあれば教えていただきたい。

 

お城と電車(4)

有名な城であっても線路に近くないと本題にそぐわない。その点、山形城はそれほど有名ではないが、とにかく駅から15分も歩けば城郭の雰囲気を味わうことができ線路に近い。山形城は最上氏の居城で現在の城址は最上義光が拡張、整備したもの。その後、鳥居、保科氏ら譜代大名が城主として入れかわり明治に及んでいる。

山形-北山形間は山形新幹線、奥羽本線、仙山線、左沢線の車両が通過して行く。日本の多くの城は公園になっており桜の名所でもあるが山形城も霞城公園として例外ではない。桜関連は後日貼り付け予定。古い時代のC51、C57、DF50の時代はとても手が回らなかったが、現在は首都圏から日帰り圏になったので時々訪問している。


仙山線の快速山形行きE721系 2018.1.19 ▲

左沢線(フルーツライン)左沢行き後部キハ101-12 通常2両だがラッシュアワーに入り4両となる。2018.1.19▲

 

 

 

お城と電車(3)伏見桃山城

伏見城と伏見桃山城は違うらしい。伏見城は秀吉、家康の時代のもので焼失したり幾多の変遷があったが、今見ることができるのは伏見桃山城で全くの模擬天守である。伏見城は最初のものは指月山伏見城で、その後近くに再築されたものが木幡山伏見城と呼んで区別されている。木幡山伏見城もほどなく廃城となり、部材が二条城、淀城、そして前回の福山城に移築されている。城跡の主要部分は明治天皇の伏見桃山御陵となっており、模擬天守のある遊園地は近鉄グループが運営していた。

走る電車は近鉄京都線竹田-上鳥羽口間の京都行き急行で652+509+649の小型車3連である。撮影は1966.10.4でこの頃ここでは吊り掛け特急も見られた。▼

この界隈は京阪伏見桃山、桃山南口、近鉄桃山御陵前、JR桃山と桃山が多過ぎて不慣れな人間には迷いやすいのではないかと思うが、寄り道先の御香宮神社の近くには戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いか)の傷跡の残る建物も見られる。

お城と電車(2)福山城

福山駅の直ぐの所に徳川譜代大名の水野氏の五層の天守が建っている。築城は1622年で今年が400年記念になる。福山駅は明治24(1891)年山陽鉄道開通時に内堀を埋めて福山城の三の丸に建設されたもので天守が近いのも当然である。天守は昭和20(1945)年の空襲で焼失し昭和41(1966)年に再建されているが、戦災を免れた遺構として伏見城の移築伏見櫓、筋鉄御門が残っている。

福山駅へは昭和55(1980)年11月8日EF651114牽引の「あさかぜ」オハネ25198でまだ明けやらぬ早朝に到着。福塩線のクハ76を入れて撮影した。全金属の300番台である。▼

福塩線、瀬野八、呉線で撮影後の翌日9日にも同じ場所に行ってみた。その後この辺りは新幹線で通過したのみであるが、城のある風景は今でも同じ様に見ることができるのだろうか。▼

お城と電車(1)高松城

電車がお好きであった沖中忠順先輩の四十九日が行われたとの報に接しました。生前に親交のあった趣味仲間の方々も多数参列されましたが、私にとっても沖中さんは思い出の人となりました。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

さて、デジ青についていつも総本家青信号特派員さん、ぶんしゅう旅日記さん、米手作市さんなど長老の皆様ばかりに頼っていては申し訳ないのでこのあたりで投稿のほぼ最長老者になった私も下手な自主公演を始めたい。今回は「お城と電車」と題してこれ迄撮影した時にチラッと城や石垣が写っているもの等を発表していきたいと思う。過去にもデジ青でこのテーマが話題になったことはあるが、皆さんもコメントや参考写真などがあれば横槍を突いていただきたい。

第1回目は琴電高松築港駅~片原町間で見られる高松城である。ここはお城の石垣と堀がよく写り、琴電自身も動く鉄道博物館と言われて各地で活躍した兵(つわもの)が多く見られたので何度も訪問された方も多いと思う。高松城は玉藻城とも言われ藩主松平氏の時代が明治維新まで続いた。城跡は玉藻公園となっており天守跡も残っている。

ことでんこと高松琴平電鉄のターミナル高松築港駅は石垣が迫りくる迫力でこのような風景は他所ではなかなか見られない。停車中の電車は1255長尾行きと1209琴電琴平行きでどちらも元京急の2代目700形で18m級4扉車である。2017.7.25▼

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芦花恒春園

京王電鉄京王線に芦花公園という駅があるが、最近この近くにマルーンさんの娘さんご家族が来られたとお聞きした。芦花公園は京王電気軌道時代は上高井戸と称していたが付近に都立芦花恒春園ができたこともあり芦花公園と改称して現在に至っている。マルーンさんには一度案内したく、私自身も行ったことがなかったので恒春園を訪問してみた。ここは作家徳富蘆花の旧宅やお墓が残されており、一帯は武蔵野の面影を残す立派な公園である。徳富蘆花と言えば兄徳富蘇峰とともに同志社の歴史には必ずと言っていいほど出てくる人物で旧宅前の碑にも京都・同志社で学ぶとある。九州・水俣の出身の小説家で「不如帰」で有名であるが読んだことはない。現地へは結構距離があり、短足老人の私なら20分はかかる。恒春園の環状八号線(通称環八)を挟んで反対側には明大ラグビー部八幡山グラウンドがある。同志社のラグビー部は明大、慶大、立大(立命館ではなく立教大)と定期戦を行っており、弱くなった最近は行ったことがない。

井原実さんが阪急京都線の高架事業を紹介されていたが、京王線では現在東京都主体の笹塚-仙川間の連続立体化事業が進行中であり芦花公園駅もその対象である。今は春の陽気で空がかすんでいるが寒くて空気が乾燥する2月頃は富士山が眺められる。

芦花公園駅はカーブしており、通過列車がやたらに多いがホームからも富士山が見られる。

うまくいかずまた失敗しました。恒春園は1月18日、駅は3月7日です。

こいしの萌黄色の電車

世の中暗いニュースばかりで疲れ切っています。そういう時にどですかでんさんのスライドショー的表現に興味を持ちまして真似てみましたが失敗したので従来の方法で用意しました。

2009.9.27 河内堅上-三郷 クハ200-64 奈良行き▼

2013.5.8 河内堅上-三郷 クハ103-197 快速王寺行き▼

2016.8.12  宇治-黄檗 103系京都行き▼

2019.4.18  棚倉-玉水 クハ103-225  京都行き

 

 

関東小ネタ続編

小田急VSEの引退は皆さん思いのほか興味を持っておられて大ネタだったかもしれないが、今年最後は正真正銘の小ネタです。関東でも行く人が少なく名前も相模鉄道と間違われやすいJR相模線。茅ケ崎-橋本間を1時間かけて走る全線単線の鉄道で3月の改正で205系500番台がいよいよ退役となる。そして朝夕3本あった横浜線八王子乗り入れも廃止される。個人的には青春18で東海道方面に出かける時はいつも利用していた線である。12月27日に見たところ6割くらいがE131系500番台に置き換わっていた。わざわざ撮りに行く人もいないと思うが、過去の拙作を参考に貼り付けさせていただく。

2018.4.3原当麻-下溝 菜の花を見て走るち茅ケ崎行きクハ205-511▼

2021.10.29上溝-番田 相模線100周年記念マーク付き茅ケ崎行き クハ205-501▼

2021.12.27入谷-海老名 新型クハE130-503茅ケ崎行き▼

 

関東小ネタ

スマホのニュースを見ていると2022年3月のダイヤ改正が連日報じられている。内容はいろいろあるがコロナの影響で全体には楽しくない方向に向かっているような気がする。鉄道会社も努力はしているがある面で現実を見て行かざるを得ないのだろう。

そのような中で小田急のVSE50000形の廃車には正直驚いた。先日LSE7000形の廃車があったばかりなのにという気がする。VSEは2005年製造でまだ18年である。美人薄命とはこの事かと思う。白っぽいボディに細い赤帯でスカートも白という粋な出で立ちで颯爽とした姿はその後製造された70000よりも格好よく見えるというのは私だけではないと思う。2022年3月11日で営業を終え、その後イベント等で使用し、検査切れになる2023年には正式に引退するようだ。車体構造や部品調達などいろいろあるようだが現在のところ2編成共に運用に就いている。今ならまだ撮れそうである。小ネタであるが衝撃の大きい廃車と思い過去に撮った50000形を貼り付けてみた。

2020.10.2 富水 ▼

2015.12.18 愛甲石田-伊勢原 ▼

2010.7.17 渋沢-新松田 緑の中を行く ▼

2014.4.2 座間-相武台前 桜花爛漫の新宿行き ▼

2021.1.1 渋沢-秦野 富士山が写るが同業者の混雑でうまく撮れない ▼

 

 

 

 

大和川続き

大和川は笠置山地から流れ出て大阪湾に注ぐ68kmの一級河川である。と人並みに説明を始めてみたが地図を見ると意外と多くの鉄道がこの川を渡っていることを改めて知った。残念ながら上流にはほとんど行っていないのが実情である。下流の南海、阪和線あたりであまりにも鉄道が近接し上流を楽観視した結果で反省している。宇都家さんからも期待していると言われ、できるならやってみろと言われているような気がした。撮られた方がおられたらお助け願いたいというのが正直な気持ちである。

さて、阪和線から上流に向かうとまず、大阪メトロの御堂筋線のあびこから北花田に向かう鉄道が川底下を通っているがこれは無理である。それにしてもこの下流のあたりは「我孫子」とか「浅香」のつく駅名が実に多く地理に不案内な人は間違いやすい。

次にいよいよ近鉄電車が出てくるが、最初は南大阪線の矢田-河内天美間である。河内天美の車庫は行ったことがあるが、鉄橋は未訪問である。続いて恥ずかしながら道明寺線の柏原南口-道明寺間も行ったかことがない。

やっと出てきたのが大阪線の安堂-河内国分間でここは超有名な撮影地であり2200系の頃にも一度行っている。写真は2009.9.27撮影の急行青山町行き8912。この車両は1981年からの製造の奈良線向け8810系列で大阪、奈良、京都、名古屋、山田各線で見られる。▼

 

次にJR関西本線(大和路線)高井田-河内堅上間で川の蛇行もあり2回渡っているが、ここも行ったことはない。

河内堅上は大阪からワンコインで行ける静寂の地である。同じ関西の保津峡や武田尾は新線に置き換わって昔の面影は失われたが、ここはまだローカル色が残っている。河内堅上から次の三郷にかけて大阪府と奈良県の県境がある。ここの鉄橋は蒸機列車やキハ35時代の写真を趣味誌でよく見かけた。鉄橋がカーブしていたような記憶がある。このあたりは亀の瀬渓谷と言われ風景が素晴らしいが撮影好適地が時々水害に見舞われるのは全国同じである。写真は2013.5.8 王寺方面に向う201系である。▼

 

奈良県に入りトンネルを抜けて左にカーブするとどですかでんさんの動画にある鉄橋があり、右にカーブすると三郷駅である。上と同じ日の撮影でその鉄橋を渡る103系の王寺行きでお昼近くになると太陽が真上に近くこのように車両がつぶれるがこの日はこれを目当てに行っていた。▼

 

三郷を出ると次は交通のジャンクション王寺である。大和川は王寺の街を懐を抱くように流れている。まず、JR関西本線がそして北側には近鉄生駒線が渡っている。関西本線は見ていないが、近鉄生駒線王寺-信貴山下は私の好きな単線片ポールの好撮影地で道路から見下ろしたり光線の具合に応じて好き勝手に撮れるところである。これも上と同じ日の撮影で1024先頭の生駒行き。1987年から使用のモ1021系で王寺を出た生駒行きである。▼

 

このあとは申し訳ないが全て未訪問である。一部でも撮っておられる方は発表をお願いしたい。参考までにその未訪問の橋梁は①近鉄南大阪線矢田-河内天美間、②近鉄道明寺線柏原南口-道明寺間、③JR関西本線高井田-河内堅上間2カ所④JR関西本線王寺-法隆寺間、⑤近鉄橿原線ファミリー公園前-結崎間、⑥JR桜井線三輪-桜井間、⑦近鉄大阪線大和朝倉-長谷寺間近接して2カ所、以上9カ所もある。

 

 

 

 

 

 

 

大和川橋梁

山科の大写真展を拝見した後は紅葉の叡電や久しぶりの大和川散策を試みた。以前、レイル誌で武庫川、多摩川をめぐる鉄道を掲載させていただいたが、鉄道密度の濃い大和川周辺も興味は尽きない。11月15日朝、まずJR阪和線から海の方に向かった。最近はどこも家やマンション等が立ち並び防護柵等もあって撮り難く、その点、鉄橋は無難である。但し、編成中心の単調な写真になることは否めない。

 

JR阪和線杉本町-浅香

JR阪和線の大和川橋梁は浅香駅ホーム先端が格好の撮影場所であったが私鉄時代のホームなのか狭くて危ない。それに昨今の評判の悪い撮り鉄に見られないように即河原に出た。10年くらい前は103系や205系も見られたが、今はステンレスばかりで味気ない。

狭いホームから撮った2012.12.27の天王寺行き103系の後追い。▼

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D52追加!

米手作市さん !  戦時設計もう1枚。1964(昭和39)年4月1日、小雨降る小郡付近を行く上り貨物列車牽引の給水温め器付きD52456[小郡]です。▼

1964(昭和39)年4月3日、糸崎駅を出発するD52348[広島]牽引の下り貨物列車。改造された姿であるがシールドビームの前照灯がD52の巨体に似合わない。三原在住の西村さんやその後糸崎を訪問された方の情報では現在の糸崎駅界隈は機関区があった頃の雰囲気はないという。▼

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D52戦時設計

山科のC6242集煙装置付きから話題が徘徊していますが米手作市さんが戦時設計スタイルのD52417を発表されました。本来はコメントで反応すべきですがまだまだ渋滞しているようですので、私の撮りました「Ⅾ52戦時設計」を新たに項目を起こして掲載しました。文章でぐたぐた説明よりも写真の方が早いと思ったからです。

 

かつてデジ青に投稿したことがありますが、横から見た走行中のD52460です。所属は柳井区です。この機関車は給水温め器は付いています。1963(昭和38)年3月27日下関駅での上り方向の貨物牽引です。

 

同じ横からですが、小郡区所属のD52126です。こちらは給水温め器がありません。1964(昭和39)年4月1日小郡区での撮影です。 続きを読む

急行「大和」

米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。

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懐かしの野球選手の思い出(老人のたわごと)

オリンピックも野球は苦戦しながらも日本が金メダルをとったことはまずはめでたし。野球と言えば西武電車にライオンズの懐かしい選手、それも西鉄ライオンズ時代の選手がラッピング塗装車に出ているのに驚いた。ネットで調べてみると2020年3月9日から池袋線で運用されている「ライオンズ命名70周年号」でL-train3代目の20104編成である。過去の有名選手と現役選手が描かれており過去の有名選手は①号車東尾、②号車秋山、③号車石毛、④号車中西、⑤号車デストラーデ、⑥号車田淵、⑦号車郭、⑧号車渡辺、⑨号車辻、松井、⑩号車鹿取、稲尾である。

私が最初に観戦したプロ野球は西宮球場での阪急-西鉄戦のナイトゲームで、贔屓にしていた阪急は西鉄に負けたのか暗い夜道を父親とトボトボ帰ったような記憶がある。黄金時代の西鉄は南海とともに大変強く、黄金期は監督は三原修で次のような打順であったと思う。一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。

特に印象に残ったのは中西太で豆タンクのような体つきで独特のフォームでバットをぐるぐる回し、見ていて楽しい選手であった。ホームランバッターであったが、三塁の守備も体に似合わず華麗であった。この頃は結構進学校出身の選手が多く、中西も名門高松一校出身である。高松一校と言えば同じ下宿にいて一時DRFCにも所属した琴電志度在住のTさんや今でも付き合いのある同じゼミで琴電羽床在住のNさんも同校の出身であるので高松一校に何となく親近感を持っていた。

あれからどれくらい経ったのであろうか。プロ野球の世界も産業構造の変化によるのか、その経営は電鉄、新聞社、映画会社等からIT産業等に変ってきたが、若しも阪神電車が西武電車のような企画をし、藤村、別当、土井垣や村山、小山あたりが出てくればそれを撮ってみたいと密かに思っている。もっとも古過ぎて宣伝誘客効果はないだろう。 お邪魔しました!

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京阪、阪急規格型電車の写真

先日はコロナ禍にもかかわらず総本家青信号特派員さんが池袋の「路草」で開催された鉄道アートサロン写真展のために日帰りで上京された。関西の大物の方も絵画も含めて多数参加されていた。総本家さんとは新宿でお会いしたが、DRFC-OB会の運営に努力され、特にデジ青では自らオリジナルの投稿を続けておられ、頭が下がる思いだ。私も少しはお役に立つように考えているが、徐々に老朽化が進行しているので少しばかりの冷やかしコメントでお許し願いたい。

関先生お膝元の阪急(大阪急)、京阪の戦後の規格型電車三題であるが、私の撮影は学生時代の何れも晩年に近い姿だ。

 

京阪電鉄の1300形は幕板が広く鈍重なスタイルであるが、やはり懐かしいものを感じる。カラーが退色劣化して見苦しい写真であるが、お馴染み七条駅の宇治行き。撮影日は不明。▼

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ひっそり消えていく小田急30000形特急車旧塗装

11月2日に同じような題で東武200型を紹介したが今回は 小田急30000形Excellent Express  略してEXE(エクセ)の旧塗装である。30000形は1996(平成8)年それまでの3100型(NSE)の置き換えで登場した。10編成70両あり4両、6両に分割できる。観光特急に加えて通勤客輸送も考慮したもので展望席がなく茶系の色が人気をなくしているのか地味な存在である。2017(平成29)年からリニューアルが行われ、外装もシルバーとグレイメタリックに変更しEXEαとして登場している。EXE30000型旧塗装編成はまだ見る機会はあるが、ひっそりと消え去ろうとしている。そこで新旧の外観を見ていただくこととする。併せて、西の特急王国近鉄にあって間もなく消え去ろうとしている近鉄特急旧塗装も掲載した。

 

それでは旧塗装から始める。

2015.2.19 鶴巻温泉-伊勢原間 はこね4号30556 ▼

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