米手作市さん ! 戦時設計もう1枚。1964(昭和39)年4月1日、小雨降る小郡付近を行く上り貨物列車牽引の給水温め器付きD52456[小郡]です。▼
1964(昭和39)年4月3日、糸崎駅を出発するD52348[広島]牽引の下り貨物列車。改造された姿であるがシールドビームの前照灯がD52の巨体に似合わない。三原在住の西村さんやその後糸崎を訪問された方の情報では現在の糸崎駅界隈は機関区があった頃の雰囲気はないという。▼
米手作市さん ! 戦時設計もう1枚。1964(昭和39)年4月1日、小雨降る小郡付近を行く上り貨物列車牽引の給水温め器付きD52456[小郡]です。▼
1964(昭和39)年4月3日、糸崎駅を出発するD52348[広島]牽引の下り貨物列車。改造された姿であるがシールドビームの前照灯がD52の巨体に似合わない。三原在住の西村さんやその後糸崎を訪問された方の情報では現在の糸崎駅界隈は機関区があった頃の雰囲気はないという。▼
山科のC6242集煙装置付きから話題が徘徊していますが米手作市さんが戦時設計スタイルのD52417を発表されました。本来はコメントで反応すべきですがまだまだ渋滞しているようですので、私の撮りました「Ⅾ52戦時設計」を新たに項目を起こして掲載しました。文章でぐたぐた説明よりも写真の方が早いと思ったからです。
かつてデジ青に投稿したことがありますが、横から見た走行中のD52460です。所属は柳井区です。この機関車は給水温め器は付いています。1963(昭和38)年3月27日下関駅での上り方向の貨物牽引です。
同じ横からですが、小郡区所属のD52126です。こちらは給水温め器がありません。1964(昭和39)年4月1日小郡区での撮影です。 続きを読む
米手作市さんの素晴らしい企画「私の好きな食堂車」は高齢者を中心に凄い盛り上がりとなりました。私も久しぶりに古いネガを探しましたが、そのような中でおやっと思う客車がありました。急行「大和」湊町行き2等客車です。「大和」と言えばTsurukameさん、大阪通信員さん等当会の諸先輩が「加太会」なる圧力団体を結成され指定旅館村田屋を拠点に、早朝のC57牽引の「大和」を記録されております。特に大阪通信員さんはDRFC例会で深夜の名古屋からの動画を発表され今でもその熱意と気力には敬意を表しております。さて、その「大和」ですが1949年(昭和24)年の東京ー名古屋間の準急あたりがルーツで翌1950(昭和25)年急行列車化されています。ネガで目に留まったのは1966(昭和41)年11月2日品川客車区で撮った「大和」のオハフ331527です。写真をよく見ると⑭号車で湊町行きの行先板と入口に座席指定の表示があることがわかります。私は定期急行列車なのにこんな車両に指定されたら全く損をした気分になります。因みに1966(昭和41)年の7月の時刻表を見ますと「大和」は金沢行き「能登」との併結で東京を22時35分に出発となっています。①~⑧号車が米原経由金沢行き901列車「能登」で、⑩~⑭号車が湊町行き2901列車「大和」です。⑨号車は和歌山市行きです。⑨号車和歌山市行きについてはよく話題になりましたが当時北海道、四国を除き東京から直通列車がなかった府県は和歌山だけであったのでその配慮と思われます。王寺からは529普通列車に連結されて和歌山市に到着するのは何と11時34分です。和歌山まで乗りっぱなしの客がいたのだろうかと思ってしまいます。当時でも新幹線を使った方がよっぽど早く和歌山に着けたはずです。その後「大和」の名前は1968(昭和43)年10月の改正で「紀伊」に統合され、紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きとなりました。伝統の湊町行きは勿論、和歌山市行きもなくなり、さらに奈良―王寺間は普通221列車となってしまいました。王寺と言えばどですかでんさんの縄張りですので、このあたりの事情はお詳しいと思います。また、湊町と言えば現在のJR難波ですが、先日皆さんが船旅を含む大旅行をされた都会のターミナルの南海汐見橋もこの近くだと思います。記念写真を拝見しましたが汐見橋がようわからんと騒いでおられた方も無事写っておられます。さて、さらにその後急行「紀伊」も1975(昭和50)年3月に特急に格上げされ米子行き「いなば」や出雲市行き「出雲」と併結されました。雑誌等で海辺行くDF50の姿も見ましたが、1984(昭和59)年に廃止されたようです。私の撮った「大和」関連の写真をご覧下さい。
オリンピックも野球は苦戦しながらも日本が金メダルをとったことはまずはめでたし。野球と言えば西武電車にライオンズの懐かしい選手、それも西鉄ライオンズ時代の選手がラッピング塗装車に出ているのに驚いた。ネットで調べてみると2020年3月9日から池袋線で運用されている「ライオンズ命名70周年号」でL-train3代目の20104編成である。過去の有名選手と現役選手が描かれており過去の有名選手は①号車東尾、②号車秋山、③号車石毛、④号車中西、⑤号車デストラーデ、⑥号車田淵、⑦号車郭、⑧号車渡辺、⑨号車辻、松井、⑩号車鹿取、稲尾である。
私が最初に観戦したプロ野球は西宮球場での阪急-西鉄戦のナイトゲームで、贔屓にしていた阪急は西鉄に負けたのか暗い夜道を父親とトボトボ帰ったような記憶がある。黄金時代の西鉄は南海とともに大変強く、黄金期は監督は三原修で次のような打順であったと思う。一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ライト玉造、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。
特に印象に残ったのは中西太で豆タンクのような体つきで独特のフォームでバットをぐるぐる回し、見ていて楽しい選手であった。ホームランバッターであったが、三塁の守備も体に似合わず華麗であった。この頃は結構進学校出身の選手が多く、中西も名門高松一校出身である。高松一校と言えば同じ下宿にいて一時DRFCにも所属した琴電志度在住のTさんや今でも付き合いのある同じゼミで琴電羽床在住のNさんも同校の出身であるので高松一校に何となく親近感を持っていた。
あれからどれくらい経ったのであろうか。プロ野球の世界も産業構造の変化によるのか、その経営は電鉄、新聞社、映画会社等からIT産業等に変ってきたが、若しも阪神電車が西武電車のような企画をし、藤村、別当、土井垣や村山、小山あたりが出てくればそれを撮ってみたいと密かに思っている。もっとも古過ぎて宣伝誘客効果はないだろう。 お邪魔しました!
先日はコロナ禍にもかかわらず総本家青信号特派員さんが池袋の「路草」で開催された鉄道アートサロン写真展のために日帰りで上京された。関西の大物の方も絵画も含めて多数参加されていた。総本家さんとは新宿でお会いしたが、DRFC-OB会の運営に努力され、特にデジ青では自らオリジナルの投稿を続けておられ、頭が下がる思いだ。私も少しはお役に立つように考えているが、徐々に老朽化が進行しているので少しばかりの冷やかしコメントでお許し願いたい。
関先生お膝元の阪急(大阪急)、京阪の戦後の規格型電車三題であるが、私の撮影は学生時代の何れも晩年に近い姿だ。
京阪電鉄の1300形は幕板が広く鈍重なスタイルであるが、やはり懐かしいものを感じる。カラーが退色劣化して見苦しい写真であるが、お馴染み七条駅の宇治行き。撮影日は不明。▼
11月2日に同じような題で東武200型を紹介したが今回は 小田急30000形Excellent Express 略してEXE(エクセ)の旧塗装である。30000形は1996(平成8)年それまでの3100型(NSE)の置き換えで登場した。10編成70両あり4両、6両に分割できる。観光特急に加えて通勤客輸送も考慮したもので展望席がなく茶系の色が人気をなくしているのか地味な存在である。2017(平成29)年からリニューアルが行われ、外装もシルバーとグレイメタリックに変更しEXEαとして登場している。EXE30000型旧塗装編成はまだ見る機会はあるが、ひっそりと消え去ろうとしている。そこで新旧の外観を見ていただくこととする。併せて、西の特急王国近鉄にあって間もなく消え去ろうとしている近鉄特急旧塗装も掲載した。
それでは旧塗装から始める。
2015.2.19 鶴巻温泉-伊勢原間 はこね4号30556 ▼
縁のない場所に保存されていると言えば四国の伊予西条のC5744がある。この機関車ははるばる北海道から来たものであるが、そもそもC57は四国では活躍したことはないのではないか。伊予西条は元国鉄総裁の十河信二氏の出身地であるが、誘致関係者が廃車後すぐに西条市市民公園に誘致し、2014年7月に現在の四国鉄道文化会館南館に移設された。
C5744は1938(昭和13年)3月に三菱重工神戸造船所で製番228で製造された。新製後は高崎に配属され、以降43年9月尾久、47年12月仙台、58年5月に渡道して小樽築港、66年3月室蘭、69年10月岩見沢第一と配属を変え1976年3月に廃車されている。現在風に言えば前半部はJR東日本、後半部はJR北海道で活躍していたと言える。
2017年7月26日 四国鉄道文化会館南館に保存中のC5744 ▼
信州と言えば山国で勾配区間に挑むD51の姿がイメージされる。小海線、飯山線、大糸線などローカル線はC56の活躍が有名であったが、中央本線、篠ノ井線、信越本線等主要幹線はスイッチバックで苦闘するD51の重連が思い出されC57等軽快な旅客用パシフッィク機の出る幕はなかった。D51が多く活躍した信州の路線では中央西線が電化が遅かった関係もあり、最後まで残ったカマが保存されている例が多くD51209もそのような一つであった。保存場所はD51の活躍した路線ではなく、旧型国電で人気があった飯田線の伊那市下車徒歩15分くらいにある伊奈公園という見晴らしのいい緑に囲まれた高台にある。屋根がない分保存状態はよくない。
D51209は1939(昭和14)年、鉄道省浜松工場の製造で新製後は浜松に配属、以降1945(昭和20)年11月多治見、1955(昭和30)年稲沢第一で活躍、1973(昭和48)年7月中津川で廃車されるまで一貫して中部圏で活躍した。
2018.07.08 伊奈公園保存のD51209 赤ナンバープレートで集煙装置を外しての保存で煙突が短い ▼
冒頭D51は山岳区間で奮闘と書いたがこれは雪の中を下る姿でいただけない 1973(昭和48)年1月15日贄川付近下り貨物牽引D51209[中津川]▼
保存蒸機といっても駅前、公園、学校等に保存されている静態保存機に対し、イベントなどに使用される動態保存機もある。今回から動態保存機も発表に加えさせていただく。
まず、JR東日本の高崎で上越線水上、信越本線横川を中心に時々関東各地等にも出向いているD51498を見てみる。
D51498は1940(昭和15)年11月24日当時の鉄道省鷹取工場で製造された。新製配置は岡山で、その後1951(昭和26)年12月に平、1963(昭和38)年10月に長岡第一、1966(昭和41)年3月に新津、1972(昭和47)年3月に坂町に配属され同年12月に廃車されている。廃車される前の1972(昭和47)年10月には鉄道100周年記念のイベントとして八高線で最後の走行をし、同年12月に上越線後閑駅前に保存された。その後、JR内で蒸気機関車を復活させる気運が盛り上がりⅮ51498が抜擢された。1988(昭和63)年後閑を出発して大宮工場で復活の整備が進められ今日につながるイベント運行が行われている。
2015.8.15 真夏の炎天下上越線津久田駅付近を行く水上行きD51498▼
蒸機と殆んど縁のないような所に保存されている戦時型D511119。場所は小田急線愛甲石田駅からバスで20分の厚木市森の里若宮公園であるが、車で行ったのでそのアプローチはあまりよく覚えいない。
D511119は1944(昭和19)年8月名古屋の日本車両で製造。製造番号は1308。最初の配属は平で戦後1949年8月新鶴見、1954年7月大宮、その後高山を経て1962(昭和37)年6月に渡道する。鷲別、追分両区に所属して室蘭本線を中心に活躍。1976年3月の蒸機末期に廃車された。厚木というD51に縁のない場所に保存されたが、屋根もあり保存状態は良好であった。ただ、防護網で足回りが写らないのは残念であった。特徴は戦時設計の角形ドームや船底テンダ-で、ギーズルエゼクターの細長い煙突に加えて旋回窓、予備灯、切り詰めデフ等はその後施工された。
2014.07.08 厚木市に保存中のⅮ511119 ▼
現役時代の写真はクモハ73106東ウラさんから提供頂いた。デフレクター(除煙板)の切り詰めが行われていない1970年3月3日岩見沢での撮影である。
東武鉄道は伊勢崎線の特急「りょうもう号」専用車両200型を11月9日から一部「リバティりょうもう号」に置きかえると発表。徐々に置きかえられていくものと思われる。ひっそりというのは小田急の7000形ロマンスカーほど派手なスタイルではなく地味な特急車両であり話題性に乏しいからである。東京メトロでお別れ運転した時にファンがルール無視などして会社がうんざりしたことがあったそうでお別れイベントはやっても地味ではないかと思い、かってにひっそりと消えていくと書いたまでである。200型はその生い立ちも完全新造車ではなく1700型、1720型(DRC)の台車、主電動機を使用し、流線形ながら特に印象的な車両ではない。運行も観光地日光、鬼怒川方面に使用されず、ビジネス利用の多い伊勢崎線方面専用で何となく静かに消えていきそうな感じである。東急車両、アルナ工機が担当で1990年11月から98年1月にかけて6両9本計54両が製造された。最近新造車に置きかわり一部富山地鉄に譲渡された西武10000系ニューレッドアローにも同じようなひっそり消滅感を感じる。さて、「りょうもう号」車両には200型とほとんど同じスタイルの250型もあり併せて紹介するがこちらは全くの新造車で抵抗制御の200型に対してVVVFインバーター制御である。前者が75kw×4のオール電動車であるのに対して後者は190kw×4の3M3Tである。
それでは200型、250型の走行写真であるが、撮影地は何れも2020年10月25日伊勢崎線県-福居間である。
「りょうもう21号」赤城行き先頭203-6 パンタは下枠交差式、台車はミンデンタイプ▼
コロナ、コロナで疲れ気味の昨今、とうとう関西行きを決行した。毎度の私鉄撮影で10月12日は夕刻阪神電車の福ー伝法間の淀川橋梁に向かった。ここは何回か行ったことがあるが、橋梁の工事を行うので撮影は今の内と聞いていたからである。工事はすでに始まっていて広角レンズで邪魔なものを避けて撮影した。10月半ばになると関西でも陽の落ちるのが早くなり、遅くまで無難に撮れるのはこのような場所に限られる。最近は車体に宣伝PRが盛んでカラフルな電車が行ったり来たりする。そのような中でそろそろ引き上げようかなと思っていた時マルーン色の電車がやってきて思わず阪急電車が来たと勘違いした。よく考えてみるとデボ1形復刻塗装の5802Fで前にも撮ったことがあるがこの時は一瞬驚いた。阪急や近鉄の2200系等の色は文字通り栗色や赤みがかった茶であったが、この5802F東花園行きはマルーンというよりも焦げ茶色の印象で昔の阪神の旧型車に近い感じがした。総本家さんの「夕景を求めてチョイ撮り」のようにはいかないが、よく20m車6連の横撮りができたものと思う。この時に携帯にマルーンさんから電話があり撮影を切り上げた。▼
「保存蒸機とその現役時代(43)」はⅮ51777であったがついでに京王の7777を掲載したところ、総本家青信号特派員さんから京阪の5555もそろそろ引退しそうだとのコメントがあった。探したらつまらない写真が1枚出てきたのでⅮ511111と併せて掲載する。皆さんも3桁でも結構なのでこんなんあるでと載せてくださると有難い。私鉄4桁では阪急7777、3333、阪神1111、小田急1111、京急1111、東急8888、5555などがあるが何れも編成の中間に入っている。
ラッシュの運行を終えたのか萱島駅到着後回送の5555。2017年5月8日▼
続いて亀山区で給水中の稲沢第一区のⅮ51111。1963年5月3日▼
しかし、こういうのばかりを追いかけているといい写真は望めない。
保存蒸機D51777は保存機の中では良好な状態であり光線具合もまあまあであったがそれだけではだめで残念賞であった。同じ刈谷市の公園内の名古屋市電に話題が移ってしまった感がある。これはたまたまその保存市電名古屋市1600型と同型の下之一色線の姿を載せたところ京都市の伏見線と対比されたりして興味を持たれたこともあるようだ。私などは伏見線など沿線の歴史に興味ある路線も京阪の中書島に急カーブして出入りする姿を見ただけでその後総本家さんの秀作を見て「しもた!撮っといたらよかった」と悔やんでいる次第である。
紫の1863さんに教えていただいた津島軽便堂写真館というのを拝見したが、その当時高校生であった方が何とカラーで沿線を紹介されておられる。私も訪問した下之一色車庫あたりを改めて白黒で発表してみた。いずれも1968年11月8日の撮影である。同線は下之一色電車軌道として1912(大正元)年に設立され翌年尾頭橋ー下之一色間を開業。1937(昭和12)年名古屋市に買収された。廃止は1966(昭和44)年2月である。場所は名古屋市中川区にある。
全線6.5Kmの単線であり、途中この様に列車交換を行っている。▼
愛知県刈谷市の交通児童公園(駅から徒歩10分)に保存されているD51777。1944(昭和19)年9月大阪の汽車製造会社製造で製造番号は2260。履歴の概要は多治見→米原→多治見→名古屋→中津川とあり名古屋鉄道管理局管内で一生を終えた様である。廃車は1972年9月である。
屋根付きで綺麗に保存されていた。ナンバープレートは青の中津川色である。名古屋は赤ナンバーが有名であるが私の好みは緑である。撮影は2012年12月26日▼
続いてその現役末期の頃で1971年9月24日上松駅出発の下り貨物列車の姿である。この日はDRFCの諸氏と寝覚ノ床が見える旅館で1泊した覚えがある。▼
蒸機の保存地にはよく市電などが近くに保存されている。これは名古屋市交通局1603号で1951(昭和26)年11月日本車両製造であるが、詳しいことはわからない。▼
あんなに暑かった夏も終わり、早、10月となりました。皆さん如何お過ごしでしょうか。私は熱中症やコロナで悩まされた後期高齢者、基礎疾患持ちですが、今度はインフルエンザの準備も必要です。さらに腰椎滑り症で1日8000歩歩けと言われ、それならと近場の線路際まで散歩しています。先日9月28日は富士山の初冠雪でしたが、その日に撮った京王ライナー2代目5000系です。後ろにかすかに見えるのが富士山です。
今回は何れも後ろ姿である。保存機は地元で保存会を結成したり定期的に清掃やメンテを行っているものもあるが、その多くはいたずらや部品の盗難にあっているようである。このⅮ51245は正面と炭水車後部照明が盗難にあってなくなっている。よく見ると給水温め器のカバーもない。そのため後ろ側から撮った結果、炭水車がバカでかくなってしまった。場所は元の信越本線、現在のしなの鉄道の坂城とテクノ坂城の中間で坂城町文化センターの武道館裏のわんぱく広場である。撮影は2018年7月22日の暑い日であった。しかし、ここは坂を下りていくと近くを走るしなの鉄道を併せて撮影することができる。それにしてもわんぱく広場という名前は保存地にふさわしくない。なお、坂城駅横に169系電車が保存されているのでそれも追加添付した。169系は国鉄急行電車165系の派生型で横軽対策された信越線ゆかりの車両であるがこの保存車輛はしなの鉄道にも譲渡されて活躍していた。
D51245は1939(昭和14)年9月、国鉄浜松工場で製造され製造番号は36。新製後、浜松、金沢、敦賀、福井等北陸本線沿いで活躍、1962年に上諏訪に転属、その後稲沢を経て1966年に中津川所属となり中央本線で活躍した。1973年7月に廃車されている。▼
日本100名山には勿論入っていないが、関西100名山(そんなのない?)に入れてもよいと思うのが兵庫県西宮市の甲山で阪神間のシンボル的な山である。お椀をかぶせた様な独特の山容で、前にも書いたがトロイデ式の古い死火山で標高は309mである。山陽新幹線、東海道線(JR神戸線)、阪神電車、阪急神戸線、福知山線(JR宝塚線)、阪急宝塚線何れからも眺めることができる。さぞ高い山と思われる方もおられるかもしれないが、309mなので地球のニキビのようなものだ。鉄道では阪急今津線の仁川あたりが一番近いと思っていたが、甲山をバックに写せるような場所は同線にはほとんどない。これに対して阪急神戸線夙川からの支線甲陽園線はよく眺めることができたようだ。ようだというのは昭和30年代の同線の1形、310形の写った写真を見ると甲山がよくとらえられている。今では住宅が並び撮り難いものと思う。そこで私の撮った昭和40年代の写真を暇つぶしにのせてみた。
1966年5月6日 甲陽園-苦楽園口間の夙川を渡る558。桜の頃の有名撮影地であるが甲山がかろうじて入った感じ。 なお、550形は生涯のほとんどを宝塚線で過ごした小型車で運輸省私鉄規格型で阪急タイプではない2段上昇窓が特徴で肘を外に出せる解放感が好きだった。逆に阪急タイプの下降窓は好みではなかった。▼
1969年3月4日 夙川 到着する664 雪の日でバックは甲山 ▼
横綱休場で大関の弱い大相撲や在阪球団のみっともない試合は見てられないのでコロナの巣ごもりにあって唯一の楽しみはデジ青である。最近は投稿やコメントが少ないので久しぶりに拙写、拙文を復活する。
保存蒸機は改めてその内容を見ると比較的早く消えて行ったC59~C62、D52など大型機や大正の古典機C51やD50などがあまり保存されていない。最後まで残っていた形式が選ばれたのはある面で仕方がないものと思われるがそのような中でC57は保存機でもわざわざ見に行ってみたい形式の一つである。
今回は新津鉄道資料館で保存されているC5719である。同機は1938(昭和13)年1月川崎車輛で製造(製造番号1873)され、小郡、下関、門司港等西日本、九州で活躍した。その後1956(昭和31)年11月に秋田へ転属、以降酒田、新津等へ配属されて主に羽越線沿いで活躍し、1972年9月に廃車されている。
保存車輛は駅近くに保存されていることが多いが、新津鉄道資料館は少し離れていたので孫を連れていたこともありタクシーを飛ばして行ってみた。
2018.06.30 新幹線200系と並んで展示中のC5719▼
C6120牽引の臨時急行「ひめかみ」号に乗ったことがあるとコメントしたところ、総本家さんから懐かしい響きだと言われた。そこで2002年11月3日に撮影した姫神山をバックにした485系の盛岡発函館行き特急「はつかり13号」の写真を掲載させていただく。調べてみると姫神山は1000mちょっとなので六甲山より少し高い程度であるが、山容が綺麗である。付近の岩手富士や青森の岩木山、八甲田山ほど有名ではないが二百名山の一つだそうである。東北と言えば今の時期は盆休みで大勢の人が帰省したことを思いだすが、私のような高齢者には帰省できない人や故郷で待っている人に同情したくなる。余命いくばくもなくなると特にそう思う。▼