小田急初代3000形SE車保存車と5連時代の姿

毎年行われている海老名でのフェスティバルで最新鋭の70000形と並んだ保存車。撮影は2019(令和元)年5月26日で罵声こそ飛ばなかったが撮影場所に行きつくのに難儀した。超高齢者には危険である。▼

連接部分の台車を見てみるとかつてどこかで見たことがあるバネの多いスタイル。▼

 

晩年は5連で「えのしま」号、御殿場線乗り入れの「あさぎり」号のほか5+5の10連特急などにも使われていた。この車両は大井川にも譲渡されたがどこかで「同志社」号のヘッドマークを付けたことがあると思うがどなたか写真があれば紹介していただきたい。下の写真は1969(昭和44)年頃渋沢の新松田よりで左手の富士山に雲がかかってしまった。御殿場線からの新宿行き「あさぎり」号である。▼

車内

先日まほろばの鉄趣味住人さんから子供の頃によく宝塚ファミリーランドに行かれた話が出ました。当時阪急電車の広告は阪急グループのみと聞いたことがあります。写真は雪の日(1969年3月4日)に夙川から次の西宮北口に向かう934号の車内を撮ったものです。いつも厳しい米手作市さんが最近は寛大で優しく、多少きずがあったりボケていても投稿することが大事だとかいわれたことにつられてほん僅かの投稿をします。多分車内でフイルムを入れ替えて1枚目がご覧のとおりとなった傷物です。宝塚ファミリーランドを始め西宮球場のオープン戦や宝塚大劇場、阪急交通社など確かに阪急グループだけです。車内ではお客さんは新聞を広げています。今ならマスクにスマホでしょう。高校生の帽子は私のもそうですが白い2本線が入っていました。私の高校は男子は全員坊主頭でした。私鉄経営の遊園地もほとんど消えていきましたが、西武の豊島園も今夏で終了です。▼

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私が撮った阪急今津線の車両(6)

井原 実さんから思わぬ2300系のコメント投稿を頂き感謝感激しております。

6000系は2200系の車体に5100系の機器を装備して130両製造され、2200系から編入の10両を加えると140両となる。1976(昭和51)年から製造され出力は140kw×4で2200系からのT形ワンハンドルマスコンを採用している。アルミ試作車が2両ある。

今津線での6000系の当初の姿は白黒のこの写真しかない。1992年4月1日 仁川-小林間の宝塚行き6114で右側の樹木の方向に熊野神社がある。▼

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私が撮った阪急今津線の車両(5)

オートカー(人工頭脳電車)と言われた当時の神戸線2000、宝塚線2100、京都線2300(2800)系は当時のエース的車両であったが、今津線ではいずれの車両も撮ったことがない。また、これらの車両は今日に至る新鋭車両まで基本的に同じようなスタイルが継承されおりそれだけ完成された車両であると思うが、画一的で面白みに欠ける。ファンというのは勝手なもので変化を好み多種多様な車両を好む傾向がある。そういう意味で2000系あたりからの車両は興味が薄れる。

さて、2000、2100を撮っていないとなると次は3000系である。最近まで現役であったことはかなり長生きした車両と思う。昇圧即応車として1964年から114両製造された。電動車の出力は170Kw×4。

 

2010.03.27 仁川駅は駅の横が川である。表示幕と尾灯、標識灯改造前で当時、行先板を付けた車両が残っていて話題になった頃である。仁川始発の西宮北口行き3058▼

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私が撮った阪急今津線の車両(4)

前回の1000形の発展型量産タイプで1956(昭和31)年より神戸線1010系35両、宝塚線1100系51両が製造された。両型式とも今津線での撮影が少なく1984.04.01小林駅の1112くらいしか記録がない。2扉車や3扉車が混在したが最終的には前照灯が2灯化され、全車3扉に統一され、1010系と1100系の違いはほとんど同じで見分けがつかなかった。▼

 

 

京都線の1600系と同じ考え方で神宝線の1010・1100形式と同じ車体に旧型車の台車、部品を流用。最終的には台車は900・920形、電気品は600形を流用したとあるが、この時代の阪急のタライまわしは難しくて理解しがたい。1200系は1956(昭和31年)から20両製造されたがその一生はほとんど宝塚線で過ごしたと言っても過言ではない。1978年3月18日門戸厄神-西宮北口間の撮影で行先板には仁川-西宮北口とあり、これも競馬開催時の臨時電車と思われる。▼

 

私が撮った阪急今津線の車両(3)

京都線710形と神宝線810形は異なる両線の車両を統一規格にしたことで有名である。再度ややこしい話をすると京都線710形のトップナンバーは711号で710号は700形である。神宝線のトップナンバーは0から始まるので810形のトップナンバーは当然810である。ナンバーを神宝線にあわせたのは5300系からである。阪急統一規格のそれ以降の車長は19mで810形はその先陣を切って今日まで続いている。製造は昭和25(1950)年で710形共々新性能電車への過度期の車両でいろいろ試行錯誤している点で興味深い。前照灯が大きく窓も900・920形、800形に比べて縦長で大きくなり私の最も好きなスタイルであった。最初の810~813(Mc)、861~863(Tc)の8両はクロスシートであり複電圧車であったが、どういう訳か運用の都合で今津線にまぎれこんできたことがある。深々としたシートにランドセル姿で乗ったことがある。当然2連であった。残念なのは台車がKS33イコライザーであったことである。814以降も細部等変更があったが台車がゲルリッツ式FS103になり乗り心地がよさそうで全体のスタイルはこちらの方が上と考えた。しかし、ロングシート車である。晩年には3扉化し前照灯のシールドビーム2個ライト化で男前を落としたのは残念である。出力は140kw×4、170Kw×4ともありよくわからないがいずれにしても大出力のMT編成であった。

 

1969.03.04 仁川 雪の日の宝塚行き後部810 ロングシート化されて年月が経つが均整の取れたスタイルはそのままである。▼

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私が撮った阪急今津線の車両(2)

前回は車長15m級の小型車を発表したが、宝塚線用に戦後新造した運輸省規格型の半鋼製550形16両は今津線では見たことがないので割愛した。今回は車長17m級の600形、900・920形である。なお、800形(当初700形)14両も今津線での写真はないので同じく割愛した。

まず600形は1926(大正15年)川崎造船製の3扉全鋼製車で各地にこのスタイルが採用された。当初神戸線でMcが600形、Tcが800形で18両あり、一部クロスシート化されたりその後機器の変更など複雑な変遷をたどっているが、私が自覚したのは宝塚線での姿で今津線は晩年の活躍である。さらに伊丹線では大きさもスタイルも全く異なる610形と組んだ姿には驚いたものだ。

1968.11.19小林-仁川間 今津行き600▼

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私が撮った阪急今津線の車両(1)

小学校1年の時から阪急今津線を通学利用していたので私なりに車両や若干の風景を発表したい。神戸線に比べて今津線は車両が小さくスピードがなく面白みに欠けていて趣味的に記録することはなかった。もっともカメラも持っていなかった。今津線は神戸線(梅田-神戸上筒井間)開通の翌1921(大正10)年9月に西宮北口ー宝塚間が西宝線として開通、有名なダイヤモンドクロシングは1926(大正15)年12月にでき、線名も今津線と改称されている。1型、40型、51型などが様々な姿で走っていたであろうが私が確実に覚えているのは500+300+500の3連あたりからである。その後、車両編成増に伴い今津寄りに320や380を連結した4~5連の時代が長く続いたように思う。

384を今津寄りにつけた宝塚行きの後部。380は320に続いて作られた両運車で丁度神戸線の900を小型にしたような感じで320にはリベットがあったが380は溶接技術の進歩によりリベットも少なくややすっきり見えた。385はアメリカ博塗装になったことがあるのは最近のデジ青で宮崎さんが発表されたとおりである。連合軍専用車になった車両もあるが私には知るすべもない。阪急最晩年は今津寄りに連結されていた。

1965.03.19 仁川-小林間 宝塚行き最後部384▼

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D51499

保存蒸機とその現役時代(36)D51499についてどですかでんさんが好みの機関車であるとコメントされたところ米手作市さんより早速同機の写真が発表されました。この豪快な機関車につきましては三重県庁近くで保存機を撮りデジ青2016年10月19日付け「保存蒸機とその現役時代(36)」に発表しましたが別の角度から撮ったものを再投稿します。

 

現役時代は1972年9月10日柘植駅 ▼

マシ292

温かい大阪通信員さんのコメントをいただきマシ292を探してみました。冬の陽で影が映ったりしてあまりいい写真ではありませんが、当時は夢中で撮ったものです。

「玄海」! いい響きですね。向日町付近で撮って京都まで国電で追っかけたものです。1967年12月の撮影です。▼

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最後のころの旧型客車

旧型客車は10系までのことのようですが、熱烈な客車ファンの中には43系までが伝統的な旧型客車だと言われる方もおられます。43系はかつての国鉄型客車を集大成したもので外観を含め魅力的であることに全く異論はありません。10系はスイススタイルとも言われ外観などが43系とは大きく異なっています。しかし、私は10系と43系が混在した所謂急行客車列車が好きでした。特に夜行となると寝台車や食堂車を連ねてそのデコボコした編成に急行らしいものを感じたものです。これに対して昼行急行列車は編成がそろえば綺麗ですが、へそ曲がりの私は3軸の食堂車やオシ16、オシ17、リベット付きのスハネ30、スハネ16、スロ54等ごちゃごちゃした編成が案外よかったと思っています。写真2枚を用意しました。

昼行急行の立山(撮影地田村1964年3月19日ED301牽引富山行き)と津軽(撮影地白岡ー蓮田1966年12月30日EF578牽引上野行き)

近場撮影

えらいことになってきましたが、お元気なWAKUHIROさん、KAWANAKAさん、どですかでんさんが家の近くでごそごそやっているようなので私も徒歩15分の所にある京王相模原線京王堀之内-南大沢間での撮影を発表します。家に閉じこもってばかりでは歩けなくなるので散歩がてらの撮影です。

 

3月25日 準特急橋本行き8763 ▼

3月29日 準特急橋本行き7754 この日は昼まで雪でした▼

 

4月14日 区間急行元八幡行き9734 この日は富士山が見えました ▼

 

4月19日 区間急行橋本行き9781 手前の木は桜ではありません▼

阪急900型

私のような者でもよければ出します。但し、白黒です。コメントでもいいのですが、2枚の載せる方法がわからないので別項としました。赤い特急マーク付きのこの電車は神戸や大阪に行く時はいつも速いなと思っていました。残念ながら私の撮影時の900型は普通列車の運用ばかりでした。そして最晩年は20両全車が920,800型6~7連の中間車になっていました。ファーストナンバー900は中間電動車で残っていました。現在は116とともに正雀に保存されておりイベント運転で見た方もおられると思います。

 

1966年12月2日今津線仁川進入の今津行き900です。▼

 

1968年10月21日 六甲。中間電動車となった900。▼

 

 

 

 

ちょっと思うこと

最近、スマホで東京メトロの03系(日比谷線の18m車)がなくなり地方私鉄(北陸鉄道、長野電鉄、熊本電鉄)に譲渡される(た)という内容を見たが、その中で同社は03系のお別れ運転イベントを取りやめたということが出ていた。何でも千代田線6000系の時にえらい大変だったらしくもう懲りたということのようだ。開業やお別れはそれはそれで意味のある事とは思うが、今や需要(鉄道ファンが多くなり過ぎた)と供給(場所や列車の限定)の関係で危険な状態にあると判断されたようだ。どこもかしこもこの状態ならイベントはやめた方がよいと思う。1回か2回しか乗ったこともないような列車にありがとうとか泣きわめくなどちょっと考えられない場面をテレビ等でよく見る。罵声が飛び交い、マナーを守れず、注意すると反対に文句を言う輩もいる。人それぞれであるから何とも言えないが、そうガツガツしないで普通の日に普通の列車を撮ればゆっくり撮れるのにと思う。なくなりそうになると情報が漏れてくるものである。どうせいつかは人間と同じように消えていくはずだ。そういう私も1回だけ阪急の北千里延長関西初の自動出改札駅開業の時見に行ったことはある。今日はダイヤ改正の日なので澁谷の病院のついでに話題の高輪ゲートウェイ駅を見てきた。雨のしょぼ降る中、側線に役目を終えたのかクハ185-1が止まっていたのが印象的だった。今回の久しぶりの投稿はその消えたメトロ車両である。これも老人鉄が撮った普通の日の普通の車両である。普段着の姿でよいのではないか。

2015.08.23 東武線内 竹ノ塚-西新井 中目黒行き03ー102 ▼

 

2015.08.23 東武線内西新井-竹ノ塚 南栗橋行き 03-811▼

 

2014.08.20 小田急線内 黒川ー栗平 多摩急行我孫子行き 6018▼

東急3450系の窓の大きさ他

表題の件について米手作市様より関先生とお前の写真の窓の大きさが違うようだとご指摘があり、お詳しい方に助けを求めたところ、早速回答を頂きましたので原文のまま掲載をさせていただきます。なお、この方は、ぶんしゅう旅日記さんが名付け親の「不銹鋼」さんで時々デジ青の台湾編などで出てこられる方です。内容は以下の通りです。

準特急様の撮影されたデハ3456号は1963年10月の更新後で窓高さを850mmから950mmに変更されています。

ちなみにこの車両は旧モハ517號で1981年11月に廃車後、宮崎台にある電車とバスの博物館にカットモデルとして保存されています。

この運転台部はそのまま更新後の姿、旧連結部はモハ517號にもどし、窓高さを850mmに、片隅式運転台を復活させています。

この改造工事は小職が1982年に担当させていただきました。

お時間がございましたら、ご案内させていただきます。

暫くはコロナの影響で不要不急の外出は憚られますね。

以上ですが、えらい方にご回答をいただいたもので宮崎台に行ってきたいと思います。そのころの紺と黄色、およびその後の青ガエル等緑色の復刻色の写真もご紹介させていただきます。

2018.08.22 多摩川線沼部1317▼

2020.01.30 多摩川線沼部1312▼

2018.10.02 東横線多摩川5822▼

行先板ひっかけ続行

Sさんより続行の話があり追加させていただきます。Sさんは昨年のホームカミングデイでのJR東海社長(旧制同志社中学入学)現鉄道友の会会長須田寛様講演にも参加されております。

例によって原文そのままです。私はよくわかっていません。

阪急板に関する件、青信号でもご紹介くださり恐縮です。
この話にしても、レイルロードのT・Tさん(面識なし)とかであればもっと具体的に
ご存知かと思うのですが、せっかく「実物部品」がありましたので、ご連絡しました。u後、レイルロードの新刊「阪急3300 Vol.1」なども読み返してみたところ、

いくつか追加の発見・自分なりの新たな仮説が出て来ました。

幸い、いずれもデジ青に転載いただいた内容をひっくり返すものではありません。

以下、実車写真は同書より転載。

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行先板ひっかけ

昨年暮れ「阪急京都線急行のちょっとした思い出」を投稿し、その文末に東京在住の大京阪ファンの方からは行先板のひっかけ金具が阪急京都線と京阪は同じ型だと興味ある話を聞いたことがあり、それならこれも一度ご説明していただければと締めくくったところ、早速その内容について送信いただき原文のまま掲載させていただいた。

1970年代前半まで、京都線は京阪と同じく「車体が雄、板が雌」でした(その後、神宝線タイプに変更)。
一方、神宝線は現在の「ヘッドマーク掛け@貫通扉」(1985年頃設置)に至るまで、一貫して「車体が雌、板が雄」です。

興味深いのは京都線が神宝線と同じ仕様に変更されつつあった時期のあれこれで、

1)雌雄両タイプの板に対応出来るように、京都線車両のサボ掛けには汎用タイプがありました。
2)この汎用タイプに「雄サボ」を掛けると、妙に位置が高くなったようです(サボ上端が、前面窓下端より高くなる)。

以下、添付写真の説明です。

4274・4275番:上が京都線車両の汎用(雌雄具有)金具、下が神宝線標準の雌金具(Sコレクション)。

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阪急京都線急行のちょっとした思い出

JRの特急車両は趣味誌によく取り上げられる。個性ある私鉄の特急も同様でかつては速度比較もよく見られた。それに比べて私鉄の急行は沿線住民にとっては重要な位置づけにありながら趣味上は地味な存在であまり話題にならなかった。そこで学生時代に乗車した阪急京都線の急行を取り上げてみた。その理由はとにかく速かった記憶があり、私鉄の急行では一番表定速度が高かったのではないかと思っているからである。他社のちょっとした特急よりも速かったのではないかとも思う。速いといえば近鉄大阪線急行も速かった。両者を比較してみると私の手元にある時刻表で京都線の急行の速度がわかる最も古いのは1976年7月号で河原町を22時40分発が梅田23時24分着で47.7kmを44分で走り、表定速度は65.1km/hである。梅田23時40分発河原町行きも45分で表定63.6km/hある。早朝の河原町6時発は48分かかり表定速度59.6km/hである。昼間時もこれに近い速度で走ったのではないかと推察する。また、1980年10月5日発行の保育社「日本の私鉄阪急」では標準所要時間47分で表定速度は60.9km/hとある。一方、近鉄大阪線は1968年11月の時刻表を見ると上本町6時10分発宇治山田8時21分着で137.3kmを2時間11分で走破し、宇治山田20時22発も上本町22時33分着で同じ2時間11分で表定速度は62.9km/hある。近鉄大阪線は青山越え等連続するアップダウンと単線区間の存在がありハンデがあったが、鶴橋~大和八木間ノンストップなど今では考えられないほど停車駅が少なかった。阪急の場合は新京阪鉄道が高速運転に向くような車両や線路を用意し山間部の勾配区間もないので停車駅がそこそこ(停車駅は十三、淡路、茨木市、高槻市、桂、西院、大宮、烏丸でラッシュ時長岡天神にも停車した)あるにもかかわらず表定速度が高かったものと思われる。

それでは阪急京都線の思い出の急行運用の車両を順に見ていく。

まず1300系。神宝線1010、1100系の京都線バージョンである。この日1300系急行4連を2本撮影しているが、これが私が撮った最初で最後の急行運用の姿で、この後の1300系の撮影は4連の本線や千里線の普通列車ばかりである。吊り掛け式モーターの710型に続くカルダン車として登場しクロスシート車もあったが優等列車に使われた時代は短かった。既にあの有名な2800系の計画があったからかもしれない。1300系は晩年は宝塚線1200系に組み込まれたものもあったという。一度その姿は見たかった。

1965.09.30 大山崎~長岡天神間 河原町行き急行後部1305▼

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P-6のちょっとした思い出

趣味誌の中では私は鉄道ピクトリアルを懐メロ的に捉えておりこの歳になっても購読を続けている。要するに自分と関係のある時代の古い写真が好きなのである。同誌の2019年10月号は「阪急電鉄京都線特急」の特集であり、掲載写真をみるとDRFC-OBからも5人の方、そして会友である河昭一郎さんのお名前も見られる。その中で圧巻は40~41頁桂川橋梁上の132の超特急である。

さて、本題のP-6であるが、同誌10月号本文の最初に掲載された鉄道友の会会員であり京都大学鉄道研究会OBの山口益生さんの「”P-6”にまつわる話」という記事に非常に興味を持った。改めてその部分を取り出してみて一部をそのまま引用させていただき私の久しぶりの投稿とした。

まず、我々はP-6、P-5(P-4)はよく知っているが、P-1は新京阪が買収した北大阪の車両ということで私はよく知らない。さらにP-2は電動車60両、P-3は付随車16両計76両の3扉16m級クロスシート木造車とのことであるが、いろいろと事情があって幻となったようである。このあたりは古い資料をよく発表されたと思うが見たことがない人間にはピンと来ない。

P-6の最大の特徴である幌は画竜点睛と称されている。これがないとP-6の顏でないと思っている人は私を含め多いと思う。この幌も雨天時に油を含んだ汚水が乗務員の制服を汚すということを聞いたことがあるが、幌が出っ張り過ぎて夜間作業員の姿が見え難く人身事故を起こしてしまい廃止されたということは始めて知った。

▼私は幌付きのP-6を見たことがなく、車庫で着脱式のそれを見たことがあり高橋先輩から「珍しいよ」と言われて撮るには撮ったが納得できるものではなかった。1968.05.30 桂

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