マシ292

温かい大阪通信員さんのコメントをいただきマシ292を探してみました。冬の陽で影が映ったりしてあまりいい写真ではありませんが、当時は夢中で撮ったものです。

「玄海」! いい響きですね。向日町付近で撮って京都まで国電で追っかけたものです。1967年12月の撮影です。▼


こういう連結が急行らしくて好きなんです。京都駅▼

 

もう一つのマシ29109です。1967年11月7日京都駅 ▼

 

マシ292の室内です。1966年10月向日町 ▼

マシ292」への31件のフィードバック

  1. 準特急様
     良いですね!! 食堂車は寝台車と二等車の間に挟まれて、これも特別感が感じられますね。
     国電、久しぶり!懐かしい響きですね!
     食堂車の内部の撮影が可能になったのは、どうして?

  2. 私はまだ生まれる2年近く前の写真ですが、凄く興味をそそられます。
    オハネ17からスハネ16への改造過渡期なので、スハネ30も混じっているのが素晴らしいですね。

    • ほへほへ様
      お若くて羨ましいですね。この時期は夜行急行には様々な車両が入っており、戦前の3軸の寝台車や食堂車、中にはダブルルーフの車両、リベットだらけのスハネ30にヨーロッパスタイルのスハネ16等々見ていても楽しく列車自体に貫禄が感じられました。編成美の20系客車よりも面白くてどなたかがやられていた当日の列車をメモしたことが思い出です。

  3. マシ291の車内、こたえられんな!
    乗りたかった。
    ほとんどの車内には潜り込んだけど、マシ291だけは通路扉に施錠されていて入れなかった。慚愧に堪えん。

      • 米手作市様
        雲仙号で一番安いオムライス食べた時の食堂車はマシ29ではなかったかと思います。米手さんとは尾久客車区にご一緒させていただきましたが、その時には十和田号のスシ48を撮ったような記憶があります。

        • 雲仙の食堂車はオシ17だったのでは。
          雲仙で調理していた方が「食堂車乗務員物語」という新書を書いておられます。

          • もう古い話で恐縮です。時刻表を調べていないのではっきりしないのですが、昭和35年頃ですが名古屋から大阪まで準急「比叡」をやめて「雲仙」にしました。午後3時か4時か5時くらいだったと思います。オシ17のような全金製の綺麗な客車ではなく古い食堂車であったことは確かだと思います。

  4.  玄海の走行写真は上り列車ですね。その頃は終着京都が9時57分で、下りは始発京都19時30分で夜でしたから。長崎着は12時9分で、朝食もゆっくりと三軸の走行音を聞きながら楽しめたことでしょう。夢のような設定です。
     連結面の写真はこれぞ旧型客車のだいご味が詰まっています。古い冷房化改造された二重屋根で三軸台車のマシ29と新製軽量車体に重いTR47台車を履くオハネ17。眺めていると飽きません。
     室内写真も披露いただき濃厚な投稿、ご馳走さまでした。
     復習を込めて山科の人間国宝さんの聖書「日本の客車」を久しぶりに読んで旧型客車を読んでみました。

    • 大阪通信員様
      京都行き上り列車です。下りは長崎本線内はC60牽引でした。山科の人間国宝さんの本は私も持っておりますがいつも写真だけの投稿でよく調べることなくお茶を濁しております。先日は古関裕而特集で「高原列車は行く」を聞いていました。いい歌ですね。「月がとっても青いからは」出てきませんでした。小畑実の「しばし別れの夜汽車の」とか言う歌は好きでした。そういう時代の旧型客車ですね。

  5. 客車を愛する皆様
    マシ29110を1968年6月2日 向日町で撮っていました。やはり「玄海」の一員です。この頃は、向日町駅から向日町運転所を縦断し神足まで歩いたものです。客車特急には乗ったことがありませんが、寝台車や食堂車をつないだ客車急行には何度か乗った記憶があり、「食堂車のご用意ができました」という車内放送があったように思います。厨房の横の窓際の通路を通るのが、何とも言えない独特の雰囲気でした。

    • 西村雅幸様
      有難うございます。向日町は広いので神足まで歩くのは大変でしたでしょう。海外では食堂車のある列車は多くありますが、日本ではイベント列車くらいで時代が変わったのですね。当時から3軸の食堂車や寝台車に乗る機会がほとんどなかった貧乏人ですのでマハ29のような格下げと思われる客車で音だけは楽しんだことがあります。

      • 準特急様
        3軸客車の確かな記憶は、DRFCで走らせたマイテのツアーです。東海道線をEF58に牽かれて快走する「タタタタン」、DD51に牽かれて加太をゆっくりと進む「タツ、タツ、タツ、タン」が忘れられません。3軸客車は北海道の雄別や大夕張などにいたと思いますが、乗った記憶がありません。

        • 西村雅幸様
          私も北海道の3軸車は乗った記憶はありませんが撮影記録はあります。トラス棒がついていたと思います。DRFC号のマイテは楽しかった思い出のみです。あと井原実さんのジャンルと思いますが荷物車か戦災復旧車かその類でも3軸があったと思います。客車は皆さんお好きだと思いますが、多種に及びますので例えば寝台車とか3軸車とか私鉄客車とかに分けてみるのもいいですね。

  6. 準特急様
    急行「玄海」の写真素晴らしいですね。懐かしいです。当時いろいろな編成をメモ帳に記録していました。長崎発京都行急行「玄海」の編成記録がありましたので紹介したいと思います。EF5818 スハフ42 63 オハフ46 11 ナハ11 43 ナハ11 39 ナハ11 40 スハネ16 402 スハネ30 54 スハネ16 165 マシ29 2 スロ54 24 スロ54 23 オロネ10 29 スハフ42 323
    (当時の配置表を見ますと客車はすべて向町運転所 機関車は広島運転所となっているようです)
    1967年12月13日京都駅到着時の記録です。
    さて準特急様の写真と比べますとスロ スロ マシ29 2 スハネ16 スハネ30 と続くあたりこの記録の編成とほぼ同じではないかと思われます。いかがでしょうか?

    •  1967年7月の時刻表をもとに補足させてください。
      機関車次位のスハフ42は博多・京都間の連結。スロ54二両のうちオロネ寄りは指定席。最後部スハフ42も指定席でした。時刻表ではさらに後部に門司・京都と広島・京都の荷物車とあり15輌で京都駅のホームに到着してたのでしょう。5号車食堂車には「専務車掌のいる車両」との時刻表記号凡例が付いていました。

  7. INUBUSE様
    お待ち申し上げておりました。編成メモと言えばINUBUSEさんが第一人者ですが、実は私も細々とやっていました。大阪駅とか上野駅などでやっていましたが一編成で300m近く歩くのですね。300m歩いてもやりがいがあったのが夜行急行でした。20系や新型国電等編成美を誇る車両は面白みがなかったです。ところでスハネ16もスハネ30も寝台料金は当然同じでしょうね。スハネ30に当たったことがありますが、損をしたような感じでした。

    • 準特急様
      コメントありがとうございます。編成は昔からよく記録していました。名古屋駅、大阪駅、京都駅 それに旅行の時に見かけた物珍しい編成など興味が尽きません。客車の編成特に夜行急行、様々な形式が混ざった気動車の編成、旧国の編成など楽しめました。最後に記録していたのは24系「あけぼの」で、固定編成のはずですが毎日見ていると中間車が入れ替わっていき面白かったです。いろいろな編成記録がありますのでまた紹介させていただければと思っています。

  8. 準特急さま
    ご無沙汰しております。昨今のウイルス騒ぎで撮影などの外出がままならず、さりとてデジ青の閲覧でもと思わないでもありませんでしたが、PC環境に疎い小生には、このデジ青を通して京都は七条大宮界隈の某写真屋さんを発生源とする、今流行りのウイルスに感染するのではとの恐怖心から、なかなか覗くことが出来ませんでした。その旨を恐る恐る上記発生源と思われる方に確かめましたところ、「ワシがウイルスの総元締めじゃ、お前には感染させるなと指令済じゃによって安心してコメントせい」とのお墨付きを賜りましたのでコメントさせて頂きます。
    お尋ねの寝台料金は車種によって異なるということは無かったですね。寝台料金はあくまで設備料金ですから、後年3段寝台が2段寝台になった時は少し高くなりましたが、スハネ30と10系寝台等とは同一料金でした。
    「スハネ30では損した気分」というお気持ちはよくわかります。小生も同じ経験があるからです。それは昭和45年の3月、写真の大家K中さんと電車の神様I伏さんとの3人で、九州のSL撮影行脚に出かけた折でした。北九州から肥薩線経由で南九州を回り、日豊線の夜行522レで北九州へ戻る際に急遽寝台でということになり、3日前くらいにみどりの窓口で訊ねたところ「2席しかない」と言われ、とりあえず購入して残り1席はキャンセルを待つことになりました。その後当夜までに目出度くキャンセルが出て寝台をゲットしましたが、入手した寝台券には「増?号車」(?は忘れた)との気になる表記がありました。そしていよいよ乗車という時に「じゃんけんで組合せを決めよう」ということになりましたが、不幸にも小生がその増号車に当たったのです。実車を見ると先に購入の2席は所定編成のオハネフ12でしたが、増号車は案の定門モコの予備車スハネ30でした。本来なら滅多に乗れない寝台車だと気分は高まるところですが、仲間外れになった上にスハネ30で、かなり沈んだ気分で暗い寝台に潜り込んだものでした。500円位安くてもと恨めしく思いましたね。

    • 1900生様
       お久しぶりのご登場、お待ち申し上げておりました。
       これを機会に、ウィルス禍で会の活動が閉塞している現状をこのデジ青をわいわいガヤガヤ、世代を超えたBOXにしていきましょう!
       1900生さんならではの前口上、よう分からん内容がむっちゃ懐かしかった!!?これで締まりました。

  9. マシ29の写真の数々は懐かしいですね。そのあと、総本家青信号特派員さん「マシ29の輪に入れてください」も加わり、あわせて楽しく拝見しているうちに、気が付いた点があります。
    1~3枚目のマシ29 2と4枚目のマシ29 109の向きが逆(4号車の1等車も逆)です。また、総本家青信号特派員さんの「マシ29の輪に入れてください」のマシ29 2とも逆のようです。
    列車編成上、車種による客車の順序とその方向については規則があり(客車の定位といいます)、規則上はマシ29 109と総本家青信号特派員さんのマシ29 2が正なのですが、向日町には神足寄りにターンテーブルがあるのですから、回すのは簡単だと思いますが、何か事情があったのでしょうか。変ですね。
    また、総本家青信号特派員さんの増号車のマシ29 201も規則上は逆向きです。なお、私が見たマシ29は4両とも逆向きでした。

    • 1900生様
      上段(冗談)4行目のあたりがよくわかりませんが、損をした、得をしたのは車両の新しさとか古さとかではなくあくまで台車です。オハネ17とスハネ16は結果がおわかりでしょうがTR47をつけた方です。スロ54では冷房の関係か後年TR23をはいたのが現れましたがこれもグリーン券を値引きすべきと思います。スハネ30ではよく寝られないですね。じゃんけんでお決めになったのは自由平等のDRFCらしくよかったと思います。

      • 準特急さま
        小生にはTR47とTR23のそこまでの差を体感したことが余りありませんので、勘違いをしたようです。確かに相対的にTR47の方が良かったと思いますが、旧客末期によく乗った山陰線では、そこまでの差異を意識したことはありませんでした。今でもTR23もそれなりに良かったと思っています。ただ、座った状態の座席車と、横になる寝台車では感じ方が異なっていた可能性はあると思います。
        小生は山陽筋の九州夜行でいろんな寝台車に乗りましたが、夜間の停車・発車時の衝撃の有無の方が気になりました。ガッツンと停められたり、衝撃と共にガ~ンと牽き出された時には「ヘタクソめ」と思い、スーッと着発した時には「ウマイ」と思ったものでした。あと客車はたいてい大なり小なりタイヤフラットをおこしていたので、こちらの音と振動も結構気になっていましたね。
        撮影旅行では随分お世話になった寝台車ですが、数年前の「はまなす」末期に乗った時には「よくこんなもんに乗っていたなあ。もう時代遅れの乗物か」と思ったものでした。楽しかった寝台車の想い出が、逆に色あせてしまって、なんとも後味の悪い寝台最後の想いになってしまいました。

        • 1900生様
          台車については第一人者の1900生さんにはあまりでかいことはいえませんが、スハネ16のTR47の上下振動が心地よく感じて好みでした。台車はウイングバネ式空気バネが何となく乗り心地がよさそうでしたが、シュリーレンもこの類ですかね。乗り心地は路盤等線路状況とか密閉式等車両構造などにより何とも言えない部分もあるようです。INUBUSEさんはオハ61のTR11台車が意外といいと言われて一瞬驚いたことがあります。衝撃の有無は一般のお客さんでもわかることで同感です。

          • 準特急様
            昭和42年ごろ大阪から京都への通学時いつもは快速電車80系や国電(クモハ51など)に乗っていましたが少し遅く登校するときは 朝のラッシュの少し後に大阪から北陸線直通の客車列車がありEF58の次位についたオハフ61に時々乗っていました。いつもの電車の乗り心地に比べてはるかに良かった記憶があります。特に外線はロングレ-ルで保線状態も良かったためもあったのかと思われます。いずれにしても国電と客車の乗り心地の差、線路状況による差、台車形式での差、乗車率などいろいろな要素があると思っています。

    • 井原 実様
      コメントの順番がゴチャゴチャして申し訳ありません。客車のことになると一風変わったお好みをお持ちの井原さんの出場をお待ちしておりました。以前、客車の1位側とか2位側とかお聞きしたことがありますが、よくわかりません。逆位置になると何か不都合なことが起こるのでしょうか。

      • 客車で、好き勝手に順番や向きを変えると生じるわかりやすい不都合は、展望車を編成中間に入れるとか、編成端に逆向きに連結した場合ですね(こんなことは云われなくてもしないでしょうが)。スハフ42などを編成端に逆向きに連結した場合も折角の後方監視窓が活かせません。
        食堂車の場合、片側に喫煙室がありました。ここは混雑時の待合室でもありました。ですから、昔の一等、二等などの優等車側に連結することになっていました。予約以外の時間帯で混んでいる時、、たとえば一等寝台の客を喫煙室で待たせるのに、料理室側廊下から食堂内を通らせるということは望ましくなかったのでしょう。また、乗客専務はたいてい食堂車の喫煙室向かいの乗務員室にいましたから、特に優等車に用事がある場合、いちいち帽子を脱いで食堂を通らなくてよかったのも都合が良かったと思います。

        • 井原 実様
          早速ありがとうございました。あまりそういうことは考えずに乗車していましたが、あまりいい例ではないでしょうが例えば荷物車が真ん中に入っている例もみましたが、これなど無神経に見えました。

  10. 1900生様
    当時のことを思い出しました。今思えば若輩者の私がスハネ30に乗れば良かったと反省したいます。
    昭和45年3月25日 宮崎から門司港行きに乗車の122レのことですね。当日の編成記録がありました。
    DF50 562 ⑥オハフ33 610  ⑤オハ35 1129  ④オハ35 806  増②スハネ30 32  ②オハネ12 38  ①オハフ33 1555   スユニ61 301  スハニ32 43 オハフ33 346
    (スハネ30のみ門モシ そのほかは門モコの表記)
    (⑥号車からスユニ61までの7両は門司港←西鹿児島 後部2両スハニ32とオハフ33は門司港←宮崎)
    当日のメモで寝台券1100円と書かれていました。
    3月21日から29日までの楽しい九州の旅ありがとうございました。

  11. INUBUSEさま
    いやいや公明正大・平等なる方法で分けたのですから、先輩も後輩も全く関係ありませんので、お気遣い無用です。ただただスハネ30に当たったということだけが癪にタネだったのですから。当時はオハネ12(フではなかったですね。記憶違いが随所にあります。申し訳ありません)に乗りたかっただけでした。今にして思えば、この九州旅行に先立つ1年前に、札幌→尺別間で乗った根室本線423レ(後の「からまつ」)の寝台利用と併せ、スハネ30という名車に2度乗れたわけですから満足すべきと思っています。
    筑豊本線でキハ35に撥ねられそうになったり、エンジンカットでトレーラーになったキハ26に乗りあわせたりというハプニングもありましたが、残り少なくなったSLを堪能できたいい旅でしたね。懐かしい青春の一頁です。

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