私が撮った阪急今津線の車両(5)

オートカー(人工頭脳電車)と言われた当時の神戸線2000、宝塚線2100、京都線2300(2800)系は当時のエース的車両であったが、今津線ではいずれの車両も撮ったことがない。また、これらの車両は今日に至る新鋭車両まで基本的に同じようなスタイルが継承されおりそれだけ完成された車両であると思うが、画一的で面白みに欠ける。ファンというのは勝手なもので変化を好み多種多様な車両を好む傾向がある。そういう意味で2000系あたりからの車両は興味が薄れる。

さて、2000、2100を撮っていないとなると次は3000系である。最近まで現役であったことはかなり長生きした車両と思う。昇圧即応車として1964年から114両製造された。電動車の出力は170Kw×4。

 

2010.03.27 仁川駅は駅の横が川である。表示幕と尾灯、標識灯改造前で当時、行先板を付けた車両が残っていて話題になった頃である。仁川始発の西宮北口行き3058▼

2016.01.01 逆瀬川-小林間を下って行く西宮北口行き3056▼

 

3000系の宝塚線版3100系は1964年より40両製造された。電動車の出力は120kw×4。

2011年8月31日小林駅新入の3103先頭の宝塚行き。右手山側にキリスト教の小林聖心女学院の高校、中学、小学校があり、同じ駅で乗降する女学生は革靴で言葉遣いも上品ではなたれ小僧の我々とは雲泥の差を感じたものだ。▼

 

2015年1月1日 甲東園 宝塚行後部車両3152 甲東園駅は関西学院やラグビー、野球等スポーツの強い報徳学園そして私の高校の下車駅でもあった。一つとなりの門戸厄神駅は神戸女学院下車駅でこの辺りは正に文教地区の感じがした。▼

 

5000系は昇圧後の1968(昭和43)年より47両製造された。電動車出力は170kw×4。台車も京都線3300系と同じFS369空気バネ台車となる。今津線ではリニューアル後のかなり顔が変わった車両しか撮っていない。

2017.09.01 小林進入の宝塚行き5061 ▼

 

5100系は1971(昭和46)年より量産冷房車として90両製造された。電動車出力は140kw×4で神宝線、京都線共用の考えで設計され実際京都線でも使われた。現在は多くが宝塚線に配属されている。2011年8月31日 小林駅進入の西宮北口行き5102 ▼

 

阪急初の冷房付き新造車ということで1970(昭和45)年から25両製造された。冷房装置のダクトを付けたため屋根が高くやや他の車両とは趣が異なる。出力は170kw×4で台車はやはりS形ミンデンである。具合が悪かったのか少数で原形に近いまま2000(平成12)年までには廃車されている。

1995(平成5)年11月23日 宝塚-宝塚南口の宝塚大劇場をバックに武庫川を渡る西宮北口行き5230 この大劇場のもうひとつ前の旧大劇場時代に宝塚の小中学校の卒業生を送る会で校旗を持って壇上に上がったことがある。▼

 

 

 

私が撮った阪急今津線の車両(5)」への5件のフィードバック

  1. 横から割り込み失礼いたします。
    一時、2300が今津線に割り込んできて走っていました。1968~69年頃にも2300(2318でしたか)が神戸線を走っていたのを見て、藤本さんに報告したら「もう撮ったで」といわれたことがあり、この時も藤本さんから「また道に迷った2300が今津線をウロウロしてるで」と聞いて、すぐ行ったものです。この編成は私の記憶では腰掛の奥行きがとても浅く、尻がすぐ滑り落ちるので嫌いでしたから、「京都線に帰ってこなくてよろしい」と思いましたがそのうちにまた帰ってきました。
    1971年9月8日撮影 小林(おばやし)-仁川

  2. 井原 実様
    「こんなんあるで!」 DRFCの地で行くような珍しい写真と添え書き有難うございます。1969年から71年にかけて2300系30両が神戸線に移り須磨浦公園まで走ったとの記録があり、私も神戸線で撮影したことがありますが、今津線の4連は貴重だと思います。今津線のお客さんもさぞ喜んだと思いきや井原さんは腰掛の奥行が浅くて尻が滑り落ちるとのことです。2300系は座席はロングシートながら座り心地の良いものと思っていましたが、失礼ながら長い足を投げ出し過ぎていたのか、お尻に人に言えない病をお持ちだったのかもしれませんね。

    • 30両も出稼ぎに行っていたのですか。京都線は万博で3300が増え、1971年には5100も登場して、オールドタイマーも残っていましたからできたのでしょうね。
      腰掛は、尻の疾病とかではなく、乗客が短い足を投げ出してだらしなく座るのを防止する目的で、一時期わざと浅く作ったのではないでしょうか。3000にも浅い腰掛の車両があったと思います。

      • 井原さん、山口益生著「阪急電車」126頁には、2325の6連が今はなき旧三宮駅から須磨浦特急として、梅田に向かう写真が載っています。準特急さん仰るように、1969年1月から71年11月にかけて最盛期には6×5 30両が神戸線に移ったとあります。
        理由は阪急の標準車体であったこと、神戸線の昇圧が完了していたこと、3300系の大量投入で京都線の運用に余裕が出来たことだそうです。
        2300の座面が狭かった印象は薄いのですが、確かに3000系では狭かった車両がありましたね!

  3. 準特急様
     ほぼ原型に近い仁川での3000系から始まりましたね。
     顔が変わった3000系。逆瀬川、小林そして甲東園。
     甲東園駅が橋上駅に変わったのは、阪神大震災後。山陽新幹線が崩落し今津線は不通でした。三宮、西宮北口~夙川、伊丹等々無残でした。1月の被災、必死の復旧工事、6月の復旧は嬉しく、あの時ほど鉄道の有り難さを感じたことはありませんでした。
     最近の小林入駅の5016の6連とすれ違った梅田行き準急の写真を見ると平穏の有り難さを感じます。
     5100系、まだ宝塚線で急行運用に入っていますが、さすがに古さを感じますね。能勢電に4両5編成と2両2編成が1500の代替として移籍し主力車両として走っていますがリニューアルするとまだまだ行けるなと思ってしまいますね。改造は尼崎の阪神車両メンテナンスでしたから、阪急が阪神を走ったと一時話題になりましたね。
     宝塚大劇場をバックに武庫川を渡る5230の6連、絵になる場所ですね。この5230は冷房車として、1970年に新造された一次車両で2000年退役したようですね。この辺も手塚治虫記念館がリニューアルオープン、市立文化芸術センターのオープン、そして宝塚ホテルの新築移転と変わっていっています。
     このように、いろんな事を思い出させて頂きました。有り難うございます。

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