やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

朝の第一球磨川橋梁 834レはC57重連で球磨川を渡って行く。本日はC579C57186 鎌瀬~瀬戸石 昭和45年9月868レを牽くC57 9 レッキとした貨物だが、オハユニ61を連結している。回送のようにも見えるが、拡大してみると、人が乗っているのが分かる。瀬戸石~海路 昭和46年12月川線で貨物列車6866レを牽くC57 37 鹿児島、早岐区を経て昭和43年に人吉に来た。大坂間~一勝地 昭和45年9月朝の球磨川沿い 834レを牽くC57 48 段~坂本 昭和46年12月 黒煙を上げて交換待ちをする129レ C57 48は、熊本、宮崎、大分と九州内を巡って人吉に来た 一勝地 昭和45年9月夜行鈍行1121レは5時13分、八代に到着、8月とは言え、九州ではまだ薄暗い。電機に代わって、先頭に立ったのは待望のC57 100だった。お召列車も牽き、長崎、早岐区では特急も牽いた、キリ番の名機だった。八代 昭和45年8月 C57 100のキャブ周り、なお同機は長崎市内の公園に保存されていたが、最近、解体されたと聞く。

 

 

 

小雨の渓谷を行く834レ C57 130C57 186の重連で牽く 段~坂本 昭和46年12月瀬戸石駅に到着のC57 130の牽く838レ 同機は新潟に配置されていた時代があり、この時に長野式の切取りデフを取付けていた。  昭和46年12月貨物869レ C57 130は昭和49年はるばる旭川区へ転属し、半年間だけ宗谷本線で最後の列車を牽いた。 瀬戸石~海路 昭和46年12月球磨川の対岸から129レをとらえる。特徴ある長野式の切取りデフからC57 130とわかる。鎌瀬~瀬戸石 昭和46年12月 

 

球磨川に沿う瀬戸石を通過する871レ C57 176 昭和46年12月  球磨川第一橋梁を渡るC57 176の牽く貨物6886レ いまも撮影地としてよく知られている。 昭和46年12月

 

 

 

 

 

 

C57 176 6866レを牽く 同機は昭和46年に人吉へ、1年間だけ働いて休廃車となった。瀬戸石~海路 昭和46年12月

瀬戸石駅を通過する869レ 直立不動の助役が待つなか、C57 186からタブレットが投下される。 昭和46年12月

 

 

 

C57 186の牽く838レが球磨川に注ぐ小さな川を渡る。大坂間~一勝地 昭和46年12月 夜の人吉区で休むC57 186 昭和46年12月

 

 

 

 

 

 

 C57 186 ランボードが直線でなく弛んでいるように見える。同機はこのあと宮崎区に転属し、C57130と同じく旭川区へ転属して宗谷本線で短期間活躍した。八代 昭和45年8月129レを牽くC57 186  瀬戸石~海路 昭和46年12月人吉にもC57四次型がいた。C57 195+C57 169が牽く834レ 日豊線電化で昭和42年に大分区から転属したが、昭和44年には廃車され、四次型としては比較的早く姿を消した。 一勝地 昭和44年3月

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳」への7件のフィードバック

  1. 私の肥薩山線は、続く矢岳越えに気を奪われて、真面目に向き合わなかったのが悔やまれます。早岐時代長崎によく来ていた100番など、懐かしいです。
    ところで、朝の一勝地の夜行1121レとの交換列車、10年位前の86時代も重連でした。残念なことに1121レと併せて撮っていないのですが、その時代の1121の方は何が引いていたのでしょうね?まさか86では無いと思うのですが。

    • 村樫様
      コメントを頂戴し、ありがとうございます。今回も調べ物をするため「国鉄時代」を繰っていますと、村樫様の素晴らしいカラー写真と出会いました。喜々津付近のC60「さくら」、そして雄大な矢岳越えのD51など、調べものもほったらかしにして、見入っていました。
      さて1121レの牽引ですが、配置表で判断するしかないですが、手許の昭和34年版で見ますと、人吉区には8620とD51だけで、のちに配置されるC55はまだ未配置でした。やはり1121レも含めて、川線はすべて8620だったようです。

  2. 本日の肥薩線沿線水災害に心よりお見舞い申し上げます。
    せっかく今月末に豊肥本線が再開されるというのに、これを口実に廃線などにならねば良いのですが・・

    • 米手さま
      JR九州では久大本線が水害から復旧し、地震被害の豊肥本線が今月から復旧再開し、不通のままの日田彦山線にも方向性が付いたと思った、その矢先のことでした。もう言葉もありませんでした。

  3. 昨日晩遅くまで、約50年前の薄れた記憶を振り絞り、時刻表や残されたメモも使って、肥薩線の球磨川沿いの八代~人吉のことを何とか書き上げて、一夜明けると、何とまさにその球磨川で大雨被害が出ていて、ショックを受けました。ニュースを見ると、鎌瀬、坂本、一勝地と、昨日に挙げた駅名がつぎつぎ出てきます。人吉も街全体が冠水し、人吉駅も泥水に包まれていました。そして、いまのニュースで、本稿のトップに挙げた鎌瀬の第一球磨川橋梁が流失した衝撃的な画像が飛び込んできました。4連のうち3連が流されてしまっています。この橋梁は、明治41年、開業時に架けられた、アメリカ製の曲弦プラットトラスと言う橋梁史のなかでも貴重な遺産です。

    • 総本家青信号特派員様
       大雨で球磨川が氾濫というニュース、昼のヘリからの映像は人吉駅や市内がほぼ水没しているのに愕然としました。昨秋人吉を歩き、SL人吉の旅を楽しんだばかりなので・・・鉄橋が流失といっていましたが、このような歴史ある立派なものが・・・嗚呼
       言葉がありません。お見舞いを申し上げるばかりです。

      • マルーンさま
        たしか、わらくろやさんらと旅行されたこと、以前に聞かせてもらいました。私も一昨年ですが、「かわせみ・やませみ」に乗って川線区間を堪能しました。落橋した球磨川第一橋梁は、徐行しながら、アテンダントの解説があり、貴重な鉄道遺産として、地元でも誇りを持っていることが感じられました。明治41年の架橋で、百年以上持ちこたえてきた強固な橋梁が今回流失したのですから、今回の凄さが分かります。

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