早岐機関区 (1) 8620
九州の機関区巡りも、最後の機関区となりました。シリーズを始める際、「漢字一文字で表す区名板を見ると、蒸機に定められた“運命”を示しているような、何とも暗示的で‥‥」と書いて、「門」「若」「行」「鹿」「人」「吉」「宮」「志」など紹介してきました。最後に紹介する早岐機関区、「早」こそ、蒸機の区名板として、これほどピッタリの文字はありません。なかでも旅客機8620、C57のキャブに取り付けられた「早」は、軽快そのものと言った印象です。「はいき」の読みも、いかにも九州的な伸びやかさを感じさせます。
早岐は、佐世保線が大村線を分岐するところにある区で、初訪問の昭和42年時には、8620、9600、C11、C57、D51と多彩な蒸機が配置され、運用は、長崎本線、佐世保線、大村線、松浦線に及び、広範囲な活躍をしていました。県都の長崎に機関区はあるものの、配置は無く、長崎へは、早岐、鳥栖の蒸機が乗り入れていました。
▲佐世保から東京・大阪に向かう優等列車は、早岐で逆向となる。早岐までは10km程度なので、本来の牽引機は後部に連結し、先頭には早岐までの蒸機が立つことになる。次項で紹介するC11「さくら」がその代表だが、急行列車にも同様の運転が見られた。これは大阪行き「西海1号」で、短区間ながら早岐区の58648が先頭に立つ(佐世保 昭和44年3月)
▲早岐区の庫内の28627 このあと若松区、南延岡区に転属をした。左はDD11(昭和42年3月)。
▲8620の主な働き場所は松浦線の貨物の牽引だった。28629の牽く692レ 田平~平戸口 (昭和44年3月)。
▲K-7デフを付けた28629 その2年後、長崎国体で松浦線お召の本務機として華々しい活躍をすることになる。▲▲日本最西端の駅、平戸口で停車する28629(いずれも昭和42年3月)。
▲庫外で休車状態の38683 九州各地を転々としたが、この年に廃車となる(昭和42年3月)。
▲松浦線の中枢、佐々を出発する692レ 48647の牽引(昭和44年3月)。▲松浦線江迎付近の鉄橋を行く692レ 牽引の48647はそのあと人吉区へ転属し廃車となり、現在、高千穂町の酒造会社に保存展示されていると言う(昭和45年9月)。▲早岐を発車する佐世保行き1423レ 48676+C11192が先頭、後部にC57155が付き、3形式が牽く、この区間ならではのシーンが見られた(昭和44年3月)。▲48695の牽く691レを、発車後の車内から撮る。同機のK-7デフはC59124のものを流用したと言われ、ハチロクには不似合いな大きさだった。平戸口(昭和45年9月)▲早岐区の58648 K-7デフを付け、化粧煙突に継ぎ足しがあり、細身でスタイリッシュな印象(昭和44年3月)。▲松浦線の旅客は佐々区のC11牽引が多かったが、ラッシュ時などは、ハチロクの牽く列車もあった。58648の牽く627レ 手前は臼ノ浦線 佐々付近(昭和44年3月)▲佐世保に到着の527レ 58648+C11194が牽く。継ぎ足しの化粧煙突で、まさに「早」にふさわしい軽快感がある(昭和42年3月)。▲佐世保線の大塔を通過する「西海1号」、堂々58648が先頭に立つ。この時期、短区間とは言え、ハチロクが優等列車を牽くのは、この早岐~佐世保だけだった(昭和44年3月)。▲松浦線の肥前吉井を発車する58697の牽く691レ と言ってもヨ1両だけ、松浦線は石炭輸送もあって賑わっていたが、この頃はほとんど閉山し、貨物量も減っていた(昭和44年3月)。
またまた、コメントなしの、一人ぼやきで失礼します。早岐は、そのあと、何度か行っています。以前は、木造駅舎で多くの乗客で賑わっていましたが、それも橋上駅になり、急に寂しくなりました。橋上駅には、もともと客が滞留する設備もなく、機能一点張りで、味わいのない駅になりました。写真は2018年訪問時の早岐駅、駅前の一等地はコインパーキングになり、駅前も寂れました。