保存蒸機とその現役時代(42)

今回は何れも後ろ姿である。保存機は地元で保存会を結成したり定期的に清掃やメンテを行っているものもあるが、その多くはいたずらや部品の盗難にあっているようである。このⅮ51245は正面と炭水車後部照明が盗難にあってなくなっている。よく見ると給水温め器のカバーもない。そのため後ろ側から撮った結果、炭水車がバカでかくなってしまった。場所は元の信越本線、現在のしなの鉄道の坂城とテクノ坂城の中間で坂城町文化センターの武道館裏のわんぱく広場である。撮影は2018年7月22日の暑い日であった。しかし、ここは坂を下りていくと近くを走るしなの鉄道を併せて撮影することができる。それにしてもわんぱく広場という名前は保存地にふさわしくない。なお、坂城駅横に169系電車が保存されているのでそれも追加添付した。169系は国鉄急行電車165系の派生型で横軽対策された信越線ゆかりの車両であるがこの保存車輛はしなの鉄道にも譲渡されて活躍していた。

 

D51245は1939(昭和14)年9月、国鉄浜松工場で製造され製造番号は36。新製後、浜松、金沢、敦賀、福井等北陸本線沿いで活躍、1962年に上諏訪に転属、その後稲沢を経て1966年に中津川所属となり中央本線で活躍した。1973年7月に廃車されている。▼

 

上松付近で補機を務める姿であるが、勾配区間が終わったのかだらだらと迫力のない姿である。1971年9月25日 下り貨物D51245[中津川] ▼

 

坂城駅に保存中のクモハ169-1+モハ168-1+クハ169-29▼

 

 

20 thoughts on “保存蒸機とその現役時代(42)

  1. 米手作市様
    横軽対策という言葉は知っておりましたが、専門家ではないので詳しいことはよくわかりません。横川―軽井沢間を通過する車両には特別の処置をしてある程度のことと思っていました。調べてみますと国鉄信越本線の横川―軽井沢間の碓氷峠は急勾配で昔はED42等がギアをかみ合わせるアプト式で運行していましたが、それを廃止してEF63という補助機関車がこの区間に登場したことはご存じかと思います。この急勾配を越えるのに連結器や台車に大きな負担がかかるのでその部分を強化、改造した車両です。EF63に動力をまかせていた車両編成では8両が限界であったそうです。よく車体の横の形式‐番号表示の前に黒丸、あるいは白丸がついていたので覚えておられる方も多いと思います。もう少し長編成になるとEF63と協調運転ができる車両が使われ169、189、489系など末尾に9がついているのでこれも覚えておられると思います。峠の釜めしを買っている間に空気バネの空気を抜いたりして乗り心地が変わったような思い出もありますが、床下のブレーキ等機器がどうなっているのかはわかりません。「ピフ」という言葉もわかりません。

    • 恥を忍んで白状しますが、私は信越線の「横軽」間は乗ったことがないのです。高校時代、中村進一さんと行く予定でしたが、直前に私の事情で(風邪か?)行けず、新線に変わってからは行く気が失せました。そのため「横軽対策」は実感したことはありません。空気を抜いた乗り心地も体験するべきだったと後悔しております。

      • 米手作市様
        そうでしたか。横川と言えば峠の釜めしが有名でした。機関車の付け替えの間ホームでそれを買う人で賑わっていました。ここは客車急行「妙高」で逗子のTさんと夜行日帰りしたことがあります。帰りはあの「白山」でした。浅間山麓を走る信越本線は蒸機の似合う路線と聞いたことがあります。横軽の両サイドはD50が活躍していたようで写真で見たことがあります。安中は近くです。

  2. 「ピフ」に関して
    資料を探したのですが、思っていた「日本の客車」にも「国鉄車輌写真図鑑」にもなく、また西村さんや井原さんからボケ老人認定されるのを覚悟していましたが、山科の人間国宝さんに助けられました。
    「日本の客車」に編成に組み込まれた形での「ピフ」がありましたので掲載します。
    写真説明には『アプト区間を走る試運転列車』とあり、『電気機関車の次に連結されているのが歯車車(ピフ)で、撮影は大正10年代である』とあります。
    ED40型機関車の次位にあるのが「ピフ」歯車車で、詳しい説明がないので推察ですが床下に歯車があり、機関車の補助動力として活躍したのではないでしょうか?「ピフ」のピはピ二オンのピと思います。

    • 米手作市様
      『国鉄車両写真図鑑』をお持ちなのでしたら、142ページをご覧ください。ヌ6006(ヌ6000形式)がピフの後身の姿です(ピフの面影はほとんどありませんが)。ピフ147(ピフ146形)→ピ8→ヌ9056(3軸)→ヌ6006(2軸)→1947年廃車と、貨車のピフから客車の暖房車になったものです。元々は3軸貨車でしたが、客車の暖房車になり2軸になりました。

  3. 米手作市様
    ご質問の横軽対策はこの程度でよろしいでしょうか。主題は「保存蒸機とその現役時代」でしたが、ついでの話題に火がついてよく眠れませんでした。私も鉄道はあれもこれも広くやっていた関係でその分専門的分野は何もないことは米手さんもご存知と思います。さて、米手さんご説明の「ピフ」の「ピ」は「ピニオン」ということですが、英語のPINIONは小歯車と辞書にありましたので補助動力の類と思います。真ん中にギザギザ(凹凸)のあるラックレールに嚙合わせる歯車が機関車についていて勾配を上り下りする方式がアプト式ですが、これと同じような歯車が次位の客車にもついていて噛み合わせをより確実にしていたのではないかと推察します。
    このような写真を見るのは全く初めてです。これも客車の一種なのですね。

    • いま思いつきましたが「ピフ」は上り坂に威力を発揮するのではなく、下り坂対策ではなかったでしょうか?
      下り坂の方が上り坂より危険性が高いのですからブレーキが緩んだ時に歯車を噛ませて抵抗を増して緩急させるのでは?と思いました。それでなければ「ピフ」のフが説明出来ません。また、補助動力ならば動力源も必要ですが、この当時は蒸気機関で、この小さな二軸車に入りません。従いまして「ピフ」の目的は下り坂での緊急ブレーキ役と思います。

  4. 井原さん、
    これです!写真は別の本で見た記憶がありますが、何やらボイラーがむき出しで「歯車車」とは見えない姿だったのは暖房車に改造後だからですか。説明文を転記します。
    『碓氷峠開通後、アプト式区間の列車制御力の不足を補う為、制動車とも言うべき歯車車(ピフ)として製造せられたのが本車である。ラック軌条に噛み合う歯車を有し、この歯車を緊締する事により列車制動率を増す。昭和6年10月15日空気制動筒付車輌の増加により必要なきに至り廃止され「ヌ6000形」に改造された』とあり、歯車車の目的は、やはり下り坂の制御用だったことが判ります。

  5. ピクNo.148からピフの形式図を引用致します。もともとはピブだったようですが、ワブがワフになったように、ピブがピフに変ったのでしょう。ラックとピニオンをしっかりと嚙合わせて、浮き上がりを防ぐために7Tonの死重を積み、一端に制動手室がありました。歯車軸にはブレーキドラムがあって、帯制動機(バンドブレーキ)を制動手が操作していたのでしょう。古いタイプの自転車の後輪ブレーキと同じイメージです。当時の客車や貨車には直通ブレーキが完備されておらず、ブレーキ力は機関車と緩急車の手ブレーキに頼っていたため、下り坂の制動力を補うための苦肉の策だったのでしょう。

  6. 臼井茂信著「機関車の系譜図2」に碓氷峠で活躍していたアブト式蒸気機関車の解説の中に、バンドブレーキの略図がありましたので引用させて頂きました。ドイツ エスリンゲン製の3900形やイギリス ベイヤー・ピーコック製の3950形自身もバンドブレーキを装備していたようです。このメカを参考にピブを作ったのでしょう。

  7. 歯車車(ピフ→ピ)は、存在自体は割と知られているが、形式写真は殆ど目にしないように思います。貼付したのは、宮松コレクションにあったもので、最晩年の姿と思われます。検査標記では、次期検査が「7-4」とあり、昭和7年4月と考えられるが、ピ30号は、昭和7年には、廃車されたそうです。用途と云い、形態と云い、珍車番付の上位に来ることは、間違いのないところでしょう。撮影データはないのですが、現車表記より、場所は軽井沢、時期は昭和6~7年と思われます。

    • 宮崎様
      これはまた珍しい写真ですね。これほど鮮明な歯車車の画像は見たことがありません。恐らく明治初期の区分室型客車か、あるいは当時の有蓋貨車の改造でしょうか。

      空気ブレーキが普及する以前の真空ブレーキの頃までは、制動力がはるかに小さかったので、長編成の貨物列車には編成のところどころに制動手を載せた緩急車が連結されていました。アプト区間ではより強力な制動力が必要でしたので、西村様のコメントどおりの「歯車車」が存在したのでしょう。空気ブレーキの整備は、自動連結器への一斉取替えを挟んで数年間かかり、昭和初期には終わったとのことですので、この写真もお役御免となってからの姿と思われます。

      • 宮崎様
        貴重な写真のご披露ありがとうございます。形式がピ30となっていますから、ピブ1以外の形式があったようですね。貨物扉があるのでワフ改造でしょうか。それにしても窓の造りが凝っていますね。下降式の窓のために このような造りになったのでしょうか。屋根上にあるのは、ベンチレーターではなくランプ入れなのでしょう。制動手室から引き棒が3本降りてきています。両側が車輪用、中央がピニオンホイール用でしょうか。上記のエスリンゲン方式のようにも見えます。軽井澤駅常備の、横軽でしか見られなかった珍車を堪能させて頂きました。

        • 横軽間は、牽引定数が制限され、輸送力が不足する為、歯車車にも座席を設ける改造が為されました。客が居るのに、車内が暗いのは不味いので、このように窓を付けたのでしょう。外吊り戸にまで、窓がついているのは、この車くらいではないでしょうか。

          • 宮崎様
            何とそのための窓だったとは驚きです。外吊り戸を開けて乗客が乗り降りしたということですね。3軸車の乗り心地や、ブレーキ音はどうだったのかなど興味は尽きません。制動手室の上だけでなく、貨物室の上にもランプ入れがあるのが不思議だったのですが、これで納得です。4等室を設けたものが、ピ30形になったのかもしれませんね。

      • 「六輪貨物緩急車歯車付」は、四輪有蓋貨車を改造してできました。形式記号番号は何度か変化しましたが、多い時で3形式15両ありました。上のピブ1形・2形の図面では側面に窓が1個しか無く、屋根にランプもありません。ピフの形式図では窓が6個増加して、座席のようなものが描かれていますので、ピフに変更された頃に客室化されたのでしょうか。特に下り勾配ではさぞかし素晴らしい乗り心地だったのではないでしょうか。
        写真のピ30の経歴は次のとおりです。
        ピブ12(ピブ3形、明治42年度長野工改造)→ピフ151(ピフ151形)→ピ30(ピ30形)→昭和7年12月廃車
        ピ30形式は4両ありましたが、他のピと違って暖房車に改造されることもなく、昭和7年12月に全車廃車されました。

  8. 宮崎繁幹様
    これまた衝撃的な写真ですね。
    いままで世に出ていなかったのでしょうか?
    大変貴重な写真をありがとうございます。この投稿がなければ見られなかった写真です。宮崎さん、準特急さん、ありがとう!

  9. 米手作市様
    私は何もしていませんが、本題からはずれた横軽対策の話からえらい勉強させていただきました。まず、日本の客車43頁で横軽区間を行く「ピフ」の入った列車を確認させていただきました。そして、勾配を下る時の方がブレーキ操作等に工夫を凝らしていたことも何となくわかってきました。そもそも「ピフ」という形式など今回初めて知った次第です。西村さん、井原さん、まほろばさん、宮崎さん、そして米手さんの豊富な知識や旺盛な探求心にただただ驚くばかりです。今後も下手な投稿を続けますが、是非、私には質問をされないようにお願いします。

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