最後のころの旧型客車

旧型客車は10系までのことのようですが、熱烈な客車ファンの中には43系までが伝統的な旧型客車だと言われる方もおられます。43系はかつての国鉄型客車を集大成したもので外観を含め魅力的であることに全く異論はありません。10系はスイススタイルとも言われ外観などが43系とは大きく異なっています。しかし、私は10系と43系が混在した所謂急行客車列車が好きでした。特に夜行となると寝台車や食堂車を連ねてそのデコボコした編成に急行らしいものを感じたものです。これに対して昼行急行列車は編成がそろえば綺麗ですが、へそ曲がりの私は3軸の食堂車やオシ16、オシ17、リベット付きのスハネ30、スハネ16、スロ54等ごちゃごちゃした編成が案外よかったと思っています。写真2枚を用意しました。

昼行急行の立山(撮影地田村1964年3月19日ED301牽引富山行き)と津軽(撮影地白岡ー蓮田1966年12月30日EF578牽引上野行き)

最後のころの旧型客車」への24件のフィードバック

  1. さすがは準特急さん、
    編成美のツボを押さえておりますね。
    あわてて対抗できる写真を探しましたが見つかりませんでした。
    よく考えたら、当時から編成を撮る走行写真ではなく、機関車や客車の単体を撮っていました。改めて準特急さんの写真を見ると残念な気持ちで一杯です。
    旧客に10系が入るかどうかだけでなく、茶色と青の混在も気に入りません。特にカラーになると青の旧客は厚化粧で若作りした“年増女”に見えてダメです。反対に茶色の10系は、特にナロ10やナロネ10などが編成に入っていても違和感はありません。結局は勝手な思い入れの為せる技ではないでしょうか?
    10系の各停列車の写真を貼ります。

  2. 米手作市様
    客車はほとんどの人が好きなのではないでしょうか。
    青と茶色の混在は同感です。茶を知って育ったためその後の青との混在はカラーでは違和感が出てしまいます。客車に乗る時にスハ43系とナハ10系にどちらにするか迷ったこともあります。43系の台車のズシンズシンと10系台車の軽やかな音とどちらも好きでしたし、10系は何となく80系電車の300番台全金属性の車内に似た感じが好みでした。発表された写真の2枚目はわかりますが、1枚目の10系は北陸線ですか。米手さんお得意のクイズではないので撮影日、場所がわかると有難いですね。

    • 10系は80系の300番台とは言い得て妙です!オロナイン級の名言です。
      1枚目は1962年6月21日とあります。
      場所は杉津線のどこかの信号所です。列車は上野行きの各停です。どこでしょうか?

      • 米手作市様
        多分80系300番台は準急「比叡」で乗ったことがあると思います。よく覚えているのは80系300番台に神戸~三宮間の5分くらいの短い乗車でしたが車内の印象がナハ10系に似た感じを持ったのでしょう。同じ国鉄で製造年代が近かったのか車内設備に共通点を感じたのでしょう。

  3. 青色ばかりですが、福知山線の回送を淀川で撮ってました。昭和56年九月です。マヤ34も繋いでます。

    • ブギウギ様
      珍しい写真有難うございます。珍しいというのは私自身福知山線はDF50ばかりでDD51はついに撮れずじまいであったからです。余談ですが淀川と言えば東海道本線は2回渡るということは後年知った次第です。ついでに小学生の頃に大阪梅田を出た阪急電車が何故神戸行きと京都行きが同じ方向を向いて走るのか不思議に思っていました。もう一つ迷うのは関東ですが西武所沢駅では池袋行きと新宿行きが同じ東向きに出ていくものとばかり思っていましたがこれが逆なのですね。

      • 準特急様
        福知山線で、客車に初めて乗った時はDD54牽引でしたが、ほどなくDD 51に替わりました。所沢そうだったのですね。この年末にもラビューを撮りましたが、あまり意識してませんでした。

        • ブギウギ様
          C57撮りに行ってピューという音とともにDF50が現れるとがっかりしたものです。DD54は山陰線の馬堀付近と特急出雲で撮りました。性能が悪いのか故障が多かったと聞きますが今となってはDF50やDD54の方がDD51よりも魅力的であったと思います。所沢は同じホームで新宿行きと池袋行きがそれぞれ反対向きに走り始めるので最初は「およよ」と思いました。

    • ブギウギ様
       その昔、会社の事務所の3階で仕事をしていた事がありました。窓の向こうは国鉄線。環状線、東海道線、北陸線と列車が次々と走り、私にとってはとても良い環境でした。冬は雪まみれの列車が来ると故郷を思い出したものです。
       忘れてはならないのが福知山線。客車を間近に確認できました。茶色や青色・・そんなことを思い出しました。

      • マルーン様
        福知山線の旧型客車は、最新式の電車列車が行き交う大阪駅にあって、時が止まったような異次元の世界でした。懐かしいですね。

      • マルーン様
        仕事やってたんですか。もっとも小林一三は三井銀行では仕事せずに浮気ばかりしてたとか「青雲」に出てました。

  4. 準特急様
     急行「立山」の長編成、昭和39年の撮影ですか!青帯2両をはさみ堂々とした12両。見とれました。早春の雪が残った山が季節を写し出して・・・当時の北陸線の昼行急行は「立山」のみ、準急「ゆのくに」が補完していた時代ですね。 私たちの学生時代は451系に進化していました?
     オハ35や61の普通列車から見たら、スハ43系やナハ10は別格、特にナハ10や11に乗れたら、嬉しいものでした。
     スハ44は憧れでしたが、乗る機会には恵まれませんでした。

    • マルーン様
      個人意見ですからドンドン出します。オハ61は鋼体化の時期がスハ43に近いのかいいスタイルと思います。しかし、板張りの椅子がよくなかったですね。それにオハ61等旧型客車は白熱灯の数が少なく夜など新聞や本を読んでられないくらい暗かった印象があります。その点、蛍光灯の車両は明かるかったような気がします。オハ60は窓枠が木造車時代を踏襲したのか小さくて好きになれなかったです。スハ32も窓が小さいのが難点ですが、これがいいという人もいます。台車はスハ43のウイングバネ式TR47が最高でしたが重すぎるという欠点があったようです。オハ35等の軸バネ式のTR23に付け替えたスハ43→オハ47は敬遠していました。寝台でもスハネ16はTR47で上下の揺れが心地よかったですが、これがTR23になったオハネ17にあたるとうんざりでした。元特急用のスハ44は銀河で乗車しましたが、お見合い式ではなかったですが窮屈な感じがしました。

  5. 少しお若い投稿の皆さまへ
     津軽はパンタが車体からはみ出ているのでEF57が牽引してますね。私の子供のころの絵本の絵のような写真です。電気機関車といえばデッキ付でした。また旧型客車もWルーフのオハ31やスハ32も走ってました。仲間に入れてやってください。編成のなかにWルーフが混ざっているのもいいもんです。京都発の急行列車「玄海」には遅くまでWルーフのマシ29が働いていました。
     10系ばかりの普通列車、首都への列車の心意気でしょう。皆様の旧型客車への想いに激しく同感です。あぁ茶色の客車いいですね。
     

    • 大阪通信員様
      東京赤羽の鉄橋でEF57牽引の福島発上野行き普通列車を見た時、電機のデッキの中に悪ふざけで入り込んでいる人を見かけました。おおらかな時代だったんでしょうね。通信員さんのご幼少のころの絵本はC62の「つばめ」や「はと」が多かったことと思います。あるいは流線形のC53でしたでしょうか。電機もEF55であったかもしれません。「玄海」のマシ29ダブルルーフ食堂車の存在は通信員さんからご教示いただいたものと思います。今夜探してみてあれば改めて発表させていただきます。コメントありがとうございました。

  6. 準特急 様 皆様
    急行立山の客車時代は知りませんでした。
    帯の入った客車は私が大学に入学時にはスロ54くらいなものだったかと思います。大学時代に東北地方で撮影したときに長編成の旧客を見て感動したものでした。画像は1982年8月頃に松川-南福島の南福島の大カーブで撮影した夕方の通勤列車です。この頃はまだこんな編成を見ることができました。画像が眠たくて申訳ありません。

    • 893-2様
      有難うございます。この場所は私も行ったことがあります。結構旧型客車が残っていましたし、貨物の一部はED71が補機運用についていました。ここは別線で単線片ポールで撮影には好都合でした。最近見かけないですが今でもこの付近で同じように撮れるのでしょうか。

      • 準特急 様
        コメントありがとうございます。確かに最近はめっきりここの写真を見かけなくなりました。この画像から30年以上経過して丁度客車の5両目辺りのところに木が成長して短編成しか撮れなくなっているようです。

  7. 1984年の12月、何日かは忘れましたが、東北線は郡山から黒磯まで10系客車に乗りました。ED 75牽引で10両編成(?)の黒磯行きでした。オハ35、スハ43、極めつけは戦前生まれスハ32に混じってのナハ11でしたが、当時で一番車齢が若いにもかかわらず、軽量化に徹した車両だったためか至るところにがたが来ていて、トレードマークの大きな窓が災いしたのか、車内も寒くてがっかりした思い出があります。大きな窓に寄って暖を取っていると、車窓には凍った阿武隈川が見えていました。これなら車内は木造でも、断熱性のあるスハ32でも良かったのかなと思いました。中学2年の冬休みの思い出です。

  8. 1984年の12月、何日かは忘れましたが、東北線は郡山から黒磯まで10系客車に乗りました。ED 75牽引で10両編成(?)の黒磯行きでした。オハ35、スハ43、極めつけは戦前生まれスハ32に混じってのナハ11でしたが、当時で一番車齢が若いにもかかわらず、軽量化に徹した車両だったためか至るところにがたが来ていて、トレードマークの大きな窓が災いしたのか、車内も寒くてがっかりした思い出があります。大きな窓に寄って暖を取っていると、車窓には凍った阿武隈川が見えていました。これなら車内は木造でも、断熱性のあるスハ32で良かったのかなと思いました。中学2年の冬休みの思い出です。

  9. Nar様
    東北本線は長い間、ED75が牽引する旧型客車列車が残っていました。人によって好みはそれぞれでしたがスハ43系あたりが人気が高かったように思います。スハ32系は小窓が特徴で古いダブルルーフもありました。私は小窓が苦手で敬遠していました。10系は軽量故に腐食も早かったのかもしれません。何れも懐かしい時代の車両ですね。コメント有難うございました。

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