「お城と電車」と何気なく題を付けてきたが気動車が走る非電化区間も題としては電車である。今の若い方、特に女性は気動車であっても電車と表現する方も多いのでその辺は気にしないで進めることとする。気にするのは今デジ青上では総本家さんが自主公演「あの日あの頃ほぼ同月同日に還る~26~」で島原鉄道を取り上げられていることである。この点についてはつい先日総本家さんと東京渋谷で島原城ほかの話をさせていただいたのでここに発表させていただく。お城シリーズもそろそろ打ち止めであるが話が進むうちに思った以上に立派な島原城があったので今回の発表とした。
島原城は1618(元和4)年から松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた近世城郭で五層の天守閣と大小の櫓から成る壮麗な城であった。それ以来4氏19代の居城であったが、1876(明治9)年に石垣と堀を残して解体された。1964(昭和39)年に地元の方や関係者の熱望もあり天守閣が復元された。4万石とは思えない分不相応の立派な城である。
2007.10.28 朝撮影した島原城 ▼
同じく五層の天守閣 ▼
もう一つ島原城とは別に現在の南島原市に原城という悲劇の城があった。1496(明応5)年に有馬貴純によって有明海沿いに造られた城で、ここは1637(安永14)年に勃発した島原の乱(または島原・天草の乱)の舞台である。植民地化を恐れた家康の外交戦略とキリスト教弾圧の悲劇で3万7千人とも言われた一揆の群衆が籠城戦の末に皆殺しにされた場所である。幕府側の島原城主も農民などを苦しめた悪政でそれらの不満もあったものと思われる。天草四郎も一揆の大将に担ぎ上げられた。2018年6月に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産である。
島原城はその雄姿にあこがれて上の2枚を撮影しているが、原城跡にはすぐ近くまで来ておりながら見ていない。写真は2007.10.27島原鉄道の当時の終点加津佐まで行った帰りに立ち寄った原城-有馬古川間で撮った国鉄型キハ20でバックに見えるのが雲仙岳である。それにしてもここまで来て原城跡に行かなかったのは失敗である。▼
準特急様
先日は、東京・渋谷の地で、前後二回に渡って、“デジ青”愛を聞かせてもらいました。ありがとうございます。
その時に言っていました、島鉄バスと島原城です。南島原の駅を出ると、真正面に島原城があり、思わずバスを入れて撮りましたが、鉄道とは、なかなか上手く収められませんでした。わたし的には、電車もバスも同類に扱っていますから、私版の「お城と電車」です。
有難うございます。バスのお好きな総本家さんならではの好写真ですね。南島原は島鉄必須下車駅でした。車両基地があったので私もサーと降りて手当たり次第に撮れる車両を撮りました。