あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~27~

2007年9月3日 諫早・長崎の日常を撮る

島原鉄道の続きとして、諫早・長崎の日常の光景を見ていただきます。列車待ちの間に撮った写真ばかりで、格別な意識もなく、当たり前に撮った写真です。その後、2022年9月に西九州新幹線が開業し、列車も駅舎もすっかり新しくなりました。まもなく開業一年となる西九州新幹線に乗ったことがない身にとっては、デジ青やほかのメディアで、現在の同付近を知ることしか術はありませんが、15年前との風景の違いを感じています。朝早くに諫早駅前のホテルを抜け出して、島原鉄道のDCを撮り、朝食後に諫早駅で長崎行き「あかつき」を撮った。もう“ブルトレ”という言葉も聞かなくなったが、15年前,(高齢者にとっては“つい最近”)には、まだ走っていた。九州伝統の椀型のヘッドマークを付けていた。▲▲最後部には“レガートシート”のオハ14形300番台を連結。

諫早駅、二代目駅舎に当たり、昭和9年の建築。いまは、新幹線ホームを地上で併設した、りっぱな橋上駅になっているそうだ。「白いかもめ」こと885系による「かもめ5号」。

こちらは「ハイパーかもめ」こと783系による「かもめ12号」。当時は日中、一時間に2本の博多~長崎の「かもめ」が運転される特急街道だった。いまは、すべて西九州新幹線に移り、長崎本線の諫早駅には、「ひとつ星」の企画列車以外、特急の走らない線区となった。長崎へ向かい、市電撮影までの間に、411系も見える駅構内を撮影した。かつては、その先に長崎港駅があり、旅客営業も行っていて、長崎駅は通過式の配線だったが、終端式の構造に改められた。駅の終端部側の改札越しから「白いかもめ」の到着を見る。階段ゼロの地上駅だった。▲▲長崎駅全景、この付近では、JR九州の新駅ビルが建設中で、この秋には完成すると言う。駅が西側へ高架移転したため、路面電車とは以前より距離が生じてしまった。駅移転で空いたスペースは、クルマの駐停車スペースとなり、長崎が、クルマ優先、公共交通の使いにくい街に成り下がるのではと思う。このあと肥後大浦へ行き、歩いて15分、有明海を望む定番の撮影地へ行き、次つぎにやって来る「かもめ」を撮った。唯一の心して撮った時間だった。現在では、特急は一本もなく、この区間を含む肥前浜以遠は非電化区間となっている。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~27~」への7件のフィードバック

  1. 「ブルートレイン」、懐かしい響きですね。1992年8月、何を思ったか長崎夜行日帰りを計画し、「あかつき」のB個室「ソロ」を奮発しました。九州内の牽引機はED76 77、「ソロ」はオハネ15 351とメモに書いてました。
    長崎で撮ったネガを探しましたが、大したものはありませんでした。観光地巡りに重きを置き、鉄道はついでに撮った程度です。しかし怪我の功名というのか、「鉄道発祥の地」の石碑を撮っていました。これまでは特に気にも留めず、どうせおもちゃのようなものだろうとタカをくくっていたのです。ところが調べてみるとビックリ! 慶応元年(1865年)にトーマス・グラバーが持ち込んだ、英国製の「アイアン・デューク号」という蒸気機関車が、今の長崎みなとメディカルセンターの前から大浦海岸まで、約600メートルの線路上を客を乗せて走ったというではありませんか。これは知りませんでした。

    • この「アイアン・デューク号」でちょっと気になる事が…
      石碑の横の説明板にあるイラストは英国グレート・ウェスタン鉄道の「アイアンデューク級」機関車です。これは、2,140 mmゲージの機関車で動輪径も2.44 mという大きな物でした。グラバーが長崎で走らせた機関車はもっと小型であったようです。
      長崎の「アイアン・デューク号」はジャーディン&マセソン商会が鉄道売り込み用に用意した物で、同商会の日本での代理店であったトーマス・グラバーが上海から取り寄せ、長崎で実演走行をしたものです。諸説ありますが、長崎でのデモンストレーションの後には大阪に持って行ったとか北京でも実演したとか… この機関車がどのようなものであったか確実な記録が無いのですが、762mm小さなもので乗客も無蓋の客車に乗せたようです。
      今でこそ立派な石碑が建っていますが、添付した古い新聞記事を読むと、ここに最初の汽車が走ったことは大正時代まで忘れ去られていたようです。

    • すみません…
      初めの投稿の「762mm小さなもので」は「762mm軌間の小さなもので」の誤りです。

  2. 乙訓の長老の甥御様
    私もイラストのごとき立派な機関車が走ったのかは疑問でした。現在の説明板にはグラバー園所蔵の絵画に差し替えてあり、軸配置2-4-0のタンク機関車が描かれています。軽便の蒸機らしいスタイルですが、機関車の後ろには2軸のテンダ様のものが繋がれ、石炭らしきものが積まれています。写真と違って「絵画」というところがミソですが、「グラバー園」所蔵というのも意味深です。
    この機関車に付いては謎が多く、上海―呉松間の軽便鉄道に使用される予定を清国政府がキャンセルしたとか、長崎での運転後は北京近郊で運転されたとか、興味をそそります。

  3. 総本家青信号特派員様
    なつかしいオハ14形300番台の「レガートシート」車の写真ありがとうございます。首都圏に在住する人間には利用しづらかったのですが、この車両に是非とも乗ってみたいと思い、長崎出張時に新大阪から乗り継ぎ割引の適用で利用したことがありました。
    1990年夜行高速バスとの競争力強化のため「あかつき」の長崎編成に組み込まれ、夜行高速バス並みの独立3列シートに鷹取工場で改造し向日町に配属された車両でした。車両後部に女性専用席があり、一般席との間は喫茶店のように観葉植物の鉢植えで区切られていました。入り口近くにはロビー席があり、当時のことなので喫煙用の灰皿が置いてありました。特急料金のみでグリーン車以上のサービスに非常に得をした思い出があります。
    もうひとつ「レガートシート」車を連結した列車に「なは」がありました。こちらはJR九州が481系電車であったサロ481を改造してオハ24形300番台としたもので、鹿児島工場で改造され鹿児島に配属されていました。「あかつき」の車両はオハ14形0番台からの改造なので車両断面が統一されていましたが、こちらは「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」の食堂車スシ24形と同じく連結面に連続性がなく違和感がありました。この車両にも鹿児島出張の時に利用しましたが、客室とデッキとの間がアルミドアーだったので一晩中ガタガタと振動し眠れなかったことを覚えています。

    • 快速つくばね様
      「レガートシート」の想い出、ありがとうございます。私は乗ったことはないのですが、妻面の斜めストライプがなんとも大胆です。京都付近で「あかつき」を撮りますと、時間的に朝の上りになり、レガートシート車はEF66の次位で、妻面が見えませんので、諫早で見た時、その後ろ姿に感動したことがありました。481系改造の客車、ありましたね。食堂車スシ24への改造ともども、よくぞ電車から客車へ改造したものと思います。

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