あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~7~

関西本線笠置 桜のころ

また同年同月シリーズに戻ります。佐竹さんの関西本線の続きとして、関西本線の桜の名所、笠置付近を見てもらいます。とうの昔に桜は散っていると言われそうですが、昭和の時代は、4月の入学式前後に満開を迎え、さらに遅れることもあって、今頃にやっと散り果てることもありました。関西本線の笠置周辺は、京都南部随一の桜どころで、しかも昭和46年のNHK大河ドラマ「春の坂道」の柳生一族の舞台に近いとあって、大賑わいを見せました。しかも、都合のいいことに、鉄道とも絡めて撮れることでも知られていて、私も二年続きで訪れたものです。しかし50年後の今では、話題すらにも上がらなくなりました。鉄道の衰退もさることながら、桜そのものも衰弱しているようで、逆にほかの草木が繁茂して、見通しも悪くなったようです(以下、昭和47年4月、昭和48年4月)。笠置駅の構内を通過して行く、下り荷物列車、構内は桜で埋め尽くされていた。跨線橋から見下ろすのが、いちばんのポイントだった。

もう一つのポイントが、駅の東にある笠置山からの俯瞰、神社への参道が山腹を縫っていて、ここから見下ろすことができた。一面二線の島式ホームでは、DC同士の交換も見られた。▲▲笠置を発車したキハ35系の上り亀山行き、背後の木津川にも桜が続いている。

逆に、駅構内から笠置山を見る。山に向けて、桜が続いていることが分かる。列車は名古屋発「かすが1号」湊町行き、同「しらはま1号」白浜行きの併結。「しらはま」は奈良で、京都発の「しらはま」と併結して。桜井線、和歌山線経由で白浜へ向かっていた。普通列車は、もっぱらキハ35の2連が昼間のスタンダードだった。列車は亀山発湊町行き335Dで、この時代は、ほとんど亀山で乗り継ぎだったが、それでも、朝昼夕に3往復、名古屋~湊町を乗り通す直通列車がまだ残っていた。行楽期には、「柳生号」のヘッドサインを掲げた4両編成も見られた。手前はキハ35 1と読み取れる(加茂にて)。

 

蒸機は貨物、荷物列車の牽引で、竜華、奈良、亀山のD51が担当した。変型デフで有名なD51 499[亀]の姿も見られた。

 

 

 

 

 

 

 

柳生ブームとSLブームの相乗効果で、行楽シーズンには多くの蒸機列車が運転され、関西本線はイベント列車の聖地となった。大河ドラマの効果も薄れると、愛称も「柳生号」から「デゴイチ伊賀号」に変わっていった。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~7~」への14件のフィードバック

  1. 今年も桜の開花は早く、まともに見る機会が無いままに過ぎてしまいました。笠置の桜、楽しませていただきました。
    笠置はキャンプやカヌーなどで観光客の誘致を図ってますが、人口の減少は歯止めがかからないようですね。2000年代初めころは笠置寺に「笠やん」というネコがいて、ひと目見たさに訪れる観光客でにぎわったこともありました。春の桜、秋の紅葉が美しいのですが、飲食店が少なく人気は今ひとつと言ったところでしょうか。
    さて、昭和47~8年といえば私の年代ではドンピシャです。3扉ロングシートのキハ35も馴染みの気動車ですが、写真は撮りませんでしたねえ。何両くらいつないでいたのか覚えていませんでしたが、2両編成とは驚きです。たしかに乗客の少ない路線ではありますが、奈良から湊町の区間では少ないように思います。奈良で増結したのでしょうか。そんなことが気になります。
    以前の投稿で桜の花びらを屋根に載せた荷物車の写真が、印象に残っています。
    私は昭和48年の4月、桜の時期に訪れています。上りの荷物列車を引くD51 499の発車を、子供を抱いた若いお母さんが見送っていました。

    • 紫の1863さま
      速攻コメント、ありがとうございます。笠置町の人口は1100人程度で、京都府では最小の町村です。何をするにも、マンパワーは必須ですから、なかなか振興が難しいのでしょうか。D51499の写真、私も昭和48年4月11日(日)、上り荷物列車でした。桜の咲き具合と言い、また1863さんとニアミスしていた可能性がありますね。

      • 私の訪問は昭和48年4月6日で、D51 499は夕方の荷46列車です。
        新聞の開花情報を頼りに、出かけたように思います。春休みの最終日でした。
        同じ日に撮影した湊町発亀山行きの「スズカランド号」です。

    • 私の記憶では湊町からの列車は2両というのはあまり見たことがありません。あったかもしれませんが。私の持っている保育社のカラーブック「日本の鉄道」に関西本線のキハ35の3両編成の写真が載っていました。3両であれば湊町ー奈良間であってもあまり混雑しなかったと思います。王寺から分割して和歌山線や桜井線に入る列車もあったので編成は長かった記憶があります。また奈良まで快速の笠置行きや亀山行きなどは奈良までは増結されていたと思います。今でも王寺で和歌山線五条行きと奈良行き分割する列車があります。ちなみに王寺駅は奈良県にある駅で乗降客数を1,2位を争うほど乗降客の多い駅です。

      • 当時の関西本線DCは、トイレ付きのキハ35と、トイレなしのキハ36を組み合わせた2両が基本編成だったと思います。奈良であと一編成を増結して4両で湊町・天王寺へ向かったり、ラッシュ時はさらに増結した6両編成もあったと思います。また両運のキハ30もありましたから、3両も可能だったのでしょうね。今のように固定編成ではなく、とくにDCは、臨機応変に増解結していたものでした。

  2. D51499は、変形デフ付の機関車で有名でした。私が昭和43年に高校の修学旅行で京都へ行ったときに、抜け出して梅小路区を訪れたところ、偶々この機関車が居りました。当時は、福知山区の所属だったと思います。その後、転属して関西本線で運用されたのでしょう。499号機は、後藤工場の標準整備機として、デフに標識が付いていました。この標識は色々な機種の蒸機に付いていたようですが、D51499はその最後の一輛だった筈です。私も珍しく思い撮影したが、その後外され標識無しのまま運用されました。

    • やはり宮崎さんも修学旅行の途中に梅小路に行かれたのですか。よく東京方面から京都へ修学旅行に来ると、自由時間に京阪・阪急に乗ったなどと言う話を聞きます。
      私が最初にD51499を見たのも、高校生の頃の福知山機関区でした。変わったデフの中央に「標」「GT」と書かれたプレートに眼が行きました。「標」は何となく意味は分かったのですが、「GT」の意味が理解できたのは、だいぶあとからでした。

  3. 総本家青信号特派員様
    D51499は、1965.5.5に福知山機関区で撮影していました。鷹取式集煙装置と重油併燃装置を上部に乗せ、後藤式切取りデフ(G-3型)を取り付けた重装備の機関車は、吹田操車場で入換えをしているD51とは別のものに見えました。同じ鷹取工場で製造されたひとつ若番のD51498は戦後、東北、新潟地区に転属しましたが、現在も高崎車両センターで動態保存され上越線、信越本線を走っています。

    • 快速つくばね様
      福知山区のD51499、ありがとうございます。私も、その翌年の昭和42年に福知山で初めて同機を撮りました。写した場所も、つくばねさんと同じ、扇形庫の外のでした。この場所は、日中つねに光線もよく、形式写真を撮るのに適切な場所でした。一番違いの動態保存機D51498も、一時、この後藤式デフを付けていたと思います。ほかのカマにまで付けるとは、やはりこのデフのインパクトが大きかったのですね。

  4. 亀の瀬からの帰り、数十年ぶりに久宝寺に寄りました。
    かつて広大な竜華操車場があり、関西線の重要機関区の竜華機関区があった地域はビル街になっていてガッカリしました。私はここからほど近いところで産まれたのです。カタン糸の赤煉瓦工場はどうなったのでしょうね。キハ35系二両の写真を貼ります。

    • 久宝寺に下車されたとのこと、以前、デジ青に竜華操車場の写真を載せたところ、米手さんから思い出を寄せてもらいました。米手さんが生を受けられた、懐かしい地も、すっかり近代化し、大きなマンションが林立していますね。

  5.  総本家青信号特派員様
     約3年前大河原駅で下車、恋路橋(沈下橋)を渡り神社にお参り、木津川沿いを歩き、布目川河原の美しさを見て、笠置山に登り磨崖仏にお参りさせて貰ったことを思い出しました。
     行ったのは秋でしたので桜は咲いていませんが、鉄道を始め時代の違いを感じさせて貰いました。
     行楽期で木津川の河原はテントが張られ家族連れが一杯だったことと、120系を待つ間に笠置駅横のカフェで頂いた有機ビールが渇いた喉をうるわせてとても美味しかったことが印象的でした。
     鉄道から外れてごめんなさい。

    • マルーンさま
      笠置付近のハイキングの思い出、ありがとうございます。今はどうか知りませんが、当時は関西本線沿いに小道が並行していて、列車と木津川を入れて撮ることができました。京都ですと、保津川とよく似た渓谷ですが、保津川ほど険しくなくて、開けたところもあって、撮りやすい場所でした。

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