“地元大事”と、関西の蒸機を連載していましたが、同じようなモノクロ写真だけ並べても、単調なこと甚だしく、もう少し地域、車両に変化が必要だと感じています。最近、身体が思わしくなく、自宅に籠って古いデータやフィルムを見直していると、「こんなモン撮ってたんか」というような写真も出てきました。「古い」というキーワードは、50年前であっても、20年前であっても、大きな価値を生みます。発表する機会は、まだ気力の残る今しかないと思いました。ただ成り行きで紹介するのではなく、何かの“括り”は必要でしょう。そこで、タイトルに掲げたように、古いネタであれば、ほぼ同月同日の切り口で何でも載せて行く、ゆるい括りとしました。今まであまり発表していない私鉄電車やバスなども、この際、蔵出ししたいと思います。
1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る①
そんな時、ある方から、地元大事はわかるけど人によって地元もいろいろあるでェ、もっと広い範囲、関東方面も紹介せえと、叱咤激励されました。確かにそうですね。そこで、手始めとして、昭和56年3月に行った東京の私鉄・バスめぐりを載せることにしました。この時は、先輩のTさんの結婚式に招かれて、東京へ行ったもので、式の前日に入り一日撮影したものです。乗り換えの合い間はあるものの、東京で丸一日、撮影に費やしたのは初めてでした。特段珍しいものはありませんが、年月が経ってみると、それなりの価値が出てきた例として、まず紹介します。▲夜行バスに乗って早朝に東京に到着、廃車の始まった東急(初代)5000系を撮るのが第一の目的だった。大井町から大井町線に乗ると、まだ“青ガエル”を多く見かけた。デハ5000の最終車5055先頭の大井町行き 同車は松本電鉄モハ5005として譲渡された。 (以下、昭和56年3月13日)
▲大井町駅前で東急バスを撮影、左:品川22か・282(昭和46年製、三菱MR470)、右:品川22か2227(昭和55年製、いすゞK-CCM410)、右が当時の最新バス、「阪急百貨店」の広告塔もなつかしい。▲大井町駅で発車待ちの二子玉川園行きの5031ほか、この車両は熊本電鉄に譲渡され、地方私鉄に最後まで残った青ガエルとなった。私も最後の姿を追い求めて熊本へ行ったことがあり、偶然、東急で現役時代に撮っていることが分かった。
雨のなか 最後の青ガエルを見送る | DRFC-OB デジタル青信号
▲撮影本数を稼ぐため、目黒線と交差する大岡山へ行ってみた。ステンレスカーの量産車(初代)6000系と、5000系が顔を合わす。▲5000系は、この時点でメインの東横線から撤退し、大井町線(5両編成)と目蒲線(3両編成)で活躍していた。5010ほか▲6000系は量産初のステンレス車両、3編成があり、初のインバータ制御の試験車6200系もできた。▲8000系は8500系、8090系とともに1969年から21年間に677両も製造された東急ステンレス車の中心、先ごろ運用を終了した。トップナンバーの8001をとらえることができた。▲目蒲線で目黒へ行き、終端部で(初代)3000系、3474、3507をとらえる。複雑な出自があり、車体更新によって、スタイルもさまざま。▲目黒から渋谷駅前へ行く。昭和の渋谷が展開される。地下鉄も背後を通る。
▲ここでも東急バスを撮影、左:川崎22か139(昭和47年製、日野RE100)、右:品川2う1393(昭和43年製、日産4R110)、右は「2」ナンバーの古参バスで、車体が北村ボデーというのも貴重。▲東急プラザの壁面には各種の垂れ幕が。東急バスもつぎつぎに発着、行き先を見ると、三軒茶屋、成城学園、大岡山、砧本村、下馬、野沢、丸子橋、弦巻と、東急の各駅に向かうフィーダー輸送が行われていた。
総本家青信号特派員様
まず、関西の蒸機草津線シリーズでは同じようなモノクロの連続で単調と反省されていますが、自分なりのポイントを発見し足繁く通われただけのことはあります。C58とD51に対しては気負いがなく東海道53次の浮世絵に匹敵するような松林の風景の雰囲気が素晴らしいです。東急他関東の都心部は撮るところがなかったことと思いますが、よくキャッチされています。その車両が地方へ譲渡されれば新旧対比ができ、沖中さんの友人であった吉川さんが本にされていましたが面白いです。青ガエルは関東では一世を風靡した車両ですが、満員の時にドア付近が曲がっているので足の踏み場に苦労しました。2018.10.2多摩川で撮影の東横線90周年記念の青ガエル復刻塗装の5822元町・中華街行きを貼り付けます。どうぞ、体を大切に!ご自愛ください。