沖中忠順さんのご逝去に当たり、当掲示板でも、会内外の皆さまから、沖中さんを悼むコメントを頂戴しております。会を代表して、皆様に御礼を申し上げます。先日、ぶんしゅうさんと、ご自宅へ弔問した際にも、デジ青コメントのコピーをご遺族へお渡ししました。“こんなに皆から慕われていたとは‥”と涙ぐんでおられました。当掲示板でも、引き続き生前のご功績を伝えていきますが、まず当掲示板での沖中さんの活動ぶりから振り返ってみたいと思います。
沖中さんは、生まれながらの大の電車好き、話好きでした。そして、何より「書く」ことが大好きな人でした。小学校の頃、学級新聞の担当になり、子ども記者としても活動され、書くことの楽しさに目覚めたと述懐されていました。当(新)掲示板でも、鉄道の話なら何でもアリ~と始めたのが2008年、沖中さんが積極的に投稿を続けられたのも、当然の成り行きでした。沖中さんのハンドルネーム「乙訓の老人」で、掲示板を検索すると約150件の投稿がありました。
このなかから、私の独断で選んだ10選として、掲載順不同で、解説付きで投稿の数々を見てもらいます。リンク先も添えましたので、記事も閲覧してください。独断で恣意的に選んだものばかりですが、沖中さんの豊富な経験、知見に基づいた内容です。
沖中忠順さん 掲示板投稿 10選 (掲載順不同)
「初めての汽車一人旅」◎中学校2年の時、みたらし団子店のアルバイトで得た2400円を懐に、一人旅に出掛けます。行き先は信州、初めて見る電車に心打たれるとともに、旅先での人の情けに、少年の気持ちは感動に満ち溢れます。「生まれた時の電車の話を、3日前のように活き活きと話す」沖中さんの少年時代の記録です。初めての汽車一人旅 | DRFC-OB デジタル青信号
「秋田市電の不思議と市バス」◎ DRFCに入ってからの沖中さんは、京阪に注力するとともに、さらに遠方へと足を伸ばします。とくに昭和35年ごろの東北の中小私鉄、路面電車の記録は、この時代の撮影者も少なく、たいへん貴重な記録です。デジ青にも多く発表されていますが、電車だけでなく、バスも記録されていて、最近も書籍への転載依頼が入るほどです。秋田市電の不思議と市バス | DRFC-OB デジタル青信号
「贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系」◎「京阪迷」で名を馳せた沖中さん、京阪の寄稿も本欄には数多くあります。ここでは、3000系の思い出を。1971年、四条京阪の踏切で、初めて3000系を見た時の感動から綴られ、料金無料の日本一特急電車と評価されています。贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系 | DRFC-OB デジタル青信号
「川根路を京阪特急が走っていた!」◎3000系の廃車後、大井川鐡道で沖中さんは再会を果たされます。大井川は、沖中さんの大好きな私鉄で、当時、副社長だった白井昭さんに会うのも楽しみの一つでした。私も準特急さんらとともに、無理やり(?)連れて行かれて、なじみの新金谷の旅館でビールをたらふく飲んで遅くまで語り合ったこと思い出します。川根路を京阪特急が走っていた! | DRFC-OB デジタル青信号 ▲大井川へ行き、3000系の通過を待つ間も話は止まらない。
「こち吹かば 鯰の鳴動 何処より」◎阪神大震災の時の沖中さんの行動・記録が、発生後20年の年に綴られています。自分を捨てて、人を思い、人の役に立つことを第一に考える、沖中さんらしい、震災の時の行動記録です。こち吹かば 鯰の鳴動 何処より Ⅰ | DRFC-OB デジタル青信号
「人と鉄道と-通行人と車内-」◎沖中さんは海外へもよく行かれました。いちばんの長期間は、故・吉川文夫さんらと行った、2003年のドイツの路面電車訪問で、3週間で、路面電車の走っているドイツの全都市60数か所を回られました。街と人と電車が一体化したドイツの街に感激、写真展も開催されました。 人と鉄道と-通行人と車内- | DRFC-OB デジタル青信号
▲写真展は2011年に開催、来場の皆さんに熱心に解説されました。
「秀書紹介 和久田康雄さんの労作」◎私鉄研究の泰斗で、東京大学鉄研OBの和久田康雄さん、実は沖中さんの遠い親戚だったことが記されていて、合わせて和久田さんの近著も紹介され、ご苦労を称えられています。親戚と分かったのが、私と一緒に著した「京都市電の走った街今昔」の一節を、和久田さんがご覧になったことでした。秀書紹介 和久田康雄さんの労作 | DRFC-OB デジタル青信号
「澤村達也さんを偲んで」◎京阪の車両部長を務められた澤村さん(2011年8月ご逝去)とは、よく酒飲み話のなかで、京阪電車への意見、提案、イチャモンをされたと聞きます。「叡電の“きらら”のアイデアは、澤村君と酒飲みながら話していたことなんや」とつねに聞かせてもらいました。澤村達也さんを偲んで | DRFC-OB デジタル青信号 ▲叡電600形の最終日にみんなと撮影に行き、修学院駅で弁当、ビールをアテに話が弾む二人(左端、一部画像修整しています)
「有難うございました 高橋弘さん」◎沖中さんが師匠と仰ぐのが、鉄道写真家の高橋弘さん、訃報に接して、高橋さんへの哀惜の念を綴られています。私も沖中さんに連れられて、よく高橋さんのお店に行ったものです。お二人の楽しそうな電車談話を、二時間も三時間も、立ったまま聞いていたものです。沖中さんは「ワシの師匠は、高橋弘さん、高山礼蔵さん、奥野利夫さん」とつねに語っておられました。今頃、3人との再会を楽しんでおられるのでしょうか。有難うございました 高橋弘さん | DRFC-OB デジタル青信号 ▲私の市電写真展にも来ていただいた高橋さん(左)、沖中さんとの話は尽きなかった(画像を一部修整しています)
「琴電と琴参 あれこれ話」◎この前にあった、クローバー会の多度津・琴平ツアー、私はこの記事を読んでから行きました。善通寺に親戚がおられた関係で、昔からよく訪問されています。先日、廃線跡で偲んだ琴参も、沖中さんが撮られた写真で偲ぶことができました。琴電と琴参 あれこれ話 | DRFC-OB デジタル青信号
失礼ながら、デジタル難民だった沖中さん、片手で一字ずつポツポツとキーボードを押し、丸一日掛かって入力したところ、誤って削除するなど数々の失敗を乗り越えて(私も同様ですが…)、投稿を続けられてきました。大好きな電車にとどまらず、興味の対象は無限に広がって行きます。沖中さんの約150件の原稿は、ヘッダーの「投稿者」から一覧で検索できますので、皆さんそれぞれが沖中さんの思いを感じてください。
読ませていただきました。
形式的なお悔やみの言葉を述べるよりも、沖中さん(様と呼ばずに敢えて)とは、よく色んな行事と酒の席で長いお付き合いだったことばかり思い出されますし、20年違う私どもの世代とも、本当に親しくさせていただいたこと。上の世代の先輩方はもっと長い付き合いで、数え切れない思い出があることと思います。
DRFC行事関係の写真を漁ると、いろんな場面で登場されていますが、私の探して来た1枚は、1999年4月18日の大井川鉄道貸切列車行事での一枚です。井川駅入線の時に写しました。
ご冥福をお祈りいたします。
沖中さんが亡くなられたと連絡を受けたのが6月9日でした。電車少年だったと言っておられました。沖中さんがある日「あのな~信貴電の最初に走ったデハ100のこと調べてくれへんか」といわれてから調べました。また「村田式台車というのがあって、これがようわからんのや」ということでかなり時間がかかりましたが、この台車について考察してみました。まだまだ調べてみることがあるのですが・・・さて、今年は信貴電が開業して100年目になります。これも何かのご縁。私が初めてデジ青に投稿したとき、コメントをいただいたのが沖中さんでした。沖中さんには多くのことを教えていただきました。そしてマイテの同志社号の運転の時は車掌に扮装して車内を巡回されていました。その時の在りし日の沖中さんの写真を載せて起きます。合掌
諸先輩方を差し置いて僭越ではありますが、沖中さんの思い出を私なりに少しばかり述べさせていただきます。若し、そうではないということがあればご指摘いただければ幸いです。
沖中さんとは祇園の石段以来お付き合いをさせていただきましたが、宴会にしろ、駅頭にしろ、石段にしろ見事な演技は度肝を抜かれひょっとしてこの方はかつて応援団長でもやられていたのではと思いました。
DRFC=OB初代会長を辞められた後も会議、イベントには率先して参加され、ある時はご自分の仕事をやり終えて駆けつけてくれたことを覚えています。
また、デジ青に対しても新しい投稿者や私のようなもたつき者に対してもご自身の思い出や昔はこうやったという懐かしいコメントがあり、大変楽しく有難かったと思います。電車基地訪問での車庫裏の台車を外した倉庫代わりの廃車体をよくダルマと呼ばれていましたが、それ何ですかと愚問をしたのも思い出です。
OB会イベントで数々の見学会や犬山旅行もありましたが、どですかでんさんの記録にもありますように同志社号の車掌さんはよく記憶にあります。プライベートでも近鉄大阪線、能勢電、神戸電鉄、大井川鉄道等にご一緒させていただきました。大井川では元京阪特急3000系が来たときは沖中さんに向って「久しぶりやなあ!よう来てくれたな!」と声をかけてくれたような気がしました。
ご子息さんが横浜におられた関係もあり毎年1回くらいは関東遠征をされ京急、相鉄、つくばEXP、流山、東武東上等々ご一緒させていただきましたが、私は電車音痴なのでINUBUSEさん、藤本さんにヘルプを依頼したことも多々あります。ほとんど先頭車でのかぶりつきでそのお姿は電車少年そのものでした。添付写真は2014年10月26日にご一緒させていただいた時の京急南太田駅での沖中さんのお姿です。私は宴会で酔っ払って真っ赤な顔をして沖中さんと写った写真は総本家さんに沢山撮ってもらいましたが私が沖中さんを撮ったのはこれくらいです。
野球はコチコチの阪神ファンかなと思っておりましたが、「わしは巨人や!」と言われたのには驚きました。関西大手私鉄では当時は京阪を除きどこもプロ野球球団を持っていました。だから、巨人ファンという訳ではないと思います。巨人は日本のプロ野球のルーツのような存在で昔はどこへ行ってもファンは多かったです。閑古鳥が始終鳴いていた西宮球場でもオープン戦で巨人戦が見られので行ったことがあります。昭和33年は立教大学から長島が巨人に、キャプテンをやっていた本屋敷は阪急(後に阪神に移籍)に入団しましたが、両選手の気取った、悪く言えば気障っぽい走り方は同じでした。
電車少年であった沖中さんからは一度だけ蒸機の話を聞いたことがあります。「石越(宮城中央交通でも行かれたのでしょう)で聞いたD62の地響きを立てるような音は凄かった」「C59の戦後形(テンダーが長く車長21m超えは日本一)は格好ええ」とこの二つでした。
お亡くなりになる前はデジ青のコメントが少なくなったのは残念なことですが、写真展にも来られた様子を拝見しました。今は皆さんと同じように寂しい気持ちで一杯ですが、後を引き継いだ米手さん、マルーンさん、総本家さんが盛り上げてくれるので私もない力を振り絞って頑張っていきたいと思います。