20年前の1月17日、朝5時に目覚め布団の上で胡坐をかいて仕事の段取りを考えていた。松の内が終わり、いよいよ年度末工事の最後の追い込みが始まり、職人の取り合いが現場で、いや社内で始まるのである。その時グラグラときた。間をおいてドンドンと上下動があって、とたんに布団を頭から被った。治まって枕元の時計を見ると5時48分である。物干し場に出てみた。揺れ返しがあったが直ぐに治まり東南方向が薄赤い。とっさに浮かんだのがタイトルの一句、狂歌である。物干台が崩れなかったので余裕があったのであろう。夜明け前のしじまを縫って救急車のサイレンがあるが消防車の方はない。6時22分、ぱっと電気がついた、娘がテレビを点けた。神戸の姿が映し出されるが、これは一部だろうと思いガラス窓や建具のチリなどを点検した。小畑川を渡る5:35西向日発梅田行きはやって来たが、5:46長岡天神発河原町行きの橋を渡る音がない。以後11時を過ぎるまで阪急は来なかった。何時も風と共にやってくるJRの走行音もなく静かな一日が始まった。9時になって京都営業所に電話をしたら老人以外は全員揃っているとか。「阪急動かない」と言ったら、「電話もないしテレビの前に電話置いて待機してはったら……」となるも仕事より電車が気になり線路際にカメラ持参で出てみることにした。11:46にレールを伝わる音がした。振り向いてみると2300系7連が鉄橋めがけてスロー運転で登ってくる。5:46発の車両だろうが6時間遅れとなる。運転台には運転手以外に2人の制帽姿の添乗員がおり、渡橋前に一旦ストップとなり、それから超スローで橋を渡っていった。後部にも2人の添乗員、開通は15時頃となった。事務所に電話したら「何処からも電話がない、出てこなくても大丈夫」と言われ、自宅でテレビの番人となった。
被災地の現状が知りたかった。野次馬根性5分、仕事がらみ5分であった。阪急今津線沿線に友人がおり、1月22日(土)午後訪ねることにした。向日市の地下水(水道)がうまいと言っていたのでポリタン2ケに水道水満タン、軍手30組と飴60袋をザックに満タンとして十三経由西宮北口に向った。電車を降りて行く先の地名を中年駅員に聞いてみるが分からないと言う。気がつけば若い娘が地図を広げている若い駅員に教えてもらっているのに気付いた。「あ々、上大市なら線路沿いに甲東園まで行って、山陽新幹線交差部で土地の人に聞いて下さい」。目標が分かれば大丈夫、線路沿いの壊滅的な被災住宅を観察しながら北上する。阪急線を渡れぬ姿となった新幹線の断面を見てびっくりした。ここで地元住民と思しき人に行き先を言ったら「新幹線沿いに阪神水道企業団のポンプ場があるからそこで聞きなさい」と、的確な返事が返ってきた。行って見るとポンプ場の北側に目的のマンションがあった。8階に名札を見付け階段を上がる途中、目的の方とばったり出会った。共々に感激の握手を交わし、8階に行って家族の方に挨拶を述べ当日の事を聞いた。お嬢さんのグランドピアノがあり、それが動いたが幸いにもベランダ方向に滑走せず事なきを得た、との話を聴く。水をおろしてその他のものは近くの避難所となった小学校にぶち撒けて来た。炊事班のおばさんには意表をついた品物だったようだ。
帰途は西宮北口に行かず武庫川の堤防を目指した。田代橋を渡って少し行けば仕事の関係で関東に転勤した【鶴】君の実家があり、ご両親がいらっしゃる筈と思い尋ねることにした。着いてみれば玄関周りがやられている。母屋の方も損傷が見られるが留守のようだ。帰宅したら電話しようと思い、武庫之荘駅に向けて歩き出したらバスが来たので乗ることにした。やって来た電車は超満員。ようやくにして扉に押さえられながらも乗れた。こんな経験何年ぶりだろうと思ううちに塚口到着。降りる人ありでホームに降りたらもう乗れない事になった。そうだ、湯口君どうしてるかな、居なくてもご夫人の顔でも見て帰ることにしよう。行ったらご本人が居った。「まあよくぞ尋ねてくれた」と、台所で「まぁ一杯!」となった。つもる話、今の話を披露しているうちに2本目は焼酎となった。そこへご夫人ご帰還!「まあ、あんた達、被災者のことも考えず何をしているの!」となったが、本日の老人の行状次第をご主人が説明することによりご夫人の機嫌は直り、夫婦で食べる筈の巻き寿司は3人で分けることになった。帰宅は11時を過ぎていた。 (つづく)
時の経過は本当に早いものです。あれからもう20年とは・・・
まさか、関西で大地震がとは夢にも思っていませんでした。家はがたがた、出社もままならず、恥ずかしながら翌日夜明けにガスのにおいが立ち込む、西宮北口へ車で出て出社、北口付近の惨状に改めて被害の大きさを認識しました。
当時の仕事柄、神戸ビル崩壊、伊丹駅崩落、西宮北口~夙川間崩落、その他多数の被害がありましたが、その三箇所がビッグスリーでした。
伊丹駅と西夙高架は復旧していますが、神戸ビルは今でも仮設のままです。近々立て替えが行われるようですが。こと震災に関しては様々な思い出、ドラマがありますが、いずれ又ということにします。
思い出深いのは、西夙高架の復旧を鉄道や流通やとセクショナリズムにとらわれず、余震が続く中全社一丸で一日も早い復旧に取り組んだことです。様々なやり方がある中で「一日も早い復旧」を合い言葉に、5工区に分けて業者選定、一日でも早く竣工した業者にはインセンティブをということで、6月に復旧した喜びと安堵、それと鉄道の重要性(有り難さ)を再認識したことは忘れられません。
様々な障害を乗り越えることが出来たと、後で振り返ることが出来ますが、そのときは「無我夢中」これしかありませんでした。
命あっての物種、生かされていることへの感謝と亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りするものです。
追記です。
神戸ビル崩壊とは、厳密には三宮駅のビルはもちろん、王子公園~三宮間の高架全体が崩壊したものです。住吉川橋梁も崩壊したため、御影~王子公園駅間のみ運転していましたね。梅田の会社から三宮にはJRで住吉へ住吉から御影へ歩き王子公園へ、それからJR西灘へおりて三宮へ、そこは凄まじい状況でした。マスク、水筒、手袋、カイロが必需品でした。
伊丹線も今津線も・・・大変でした。
それにしても、被害があるとはいえ、梅田は表面的には何ともなく平常通り、被害地との落差を感じ入ったものでした。
早速のコメント有難う。その頃に傾注していた「乙訓の水を守る会」で、水質についていろいろ教えてくれた高槻市水道局の友人がどうしているのか、との思いと鶴、湯口両君宅へも立ち寄る事が出来たらと思って最初の「地震見舞い」の地として選んでの行動でした。阪急沿線の情報を近所に住んでいる社員さんに聞く事ができたからだと思います。建築関係の一員として住宅の崩壊をテレビで見るにつけ、その実態をこの目で確かめたかったのです。この日は人目を偲び、最初は手当たり次第シャッターを押していましたが、甲陽園の踏み切りで3人のてっちゃんが通行人をさえぎって留置車両撮影をしている姿に遭遇し、以後カメラをジャンパー内に収め、新幹線高架の崩落のみ撮っただけです。そして2月末まで土日のどちらかの日に阪神間にお邪魔しました。阪急沿線では2月19日に連れ合いがお邪魔しておりますが、話は追って紹介することにします。外野席では知らなかったことを1件知りました。神戸市内高架線が崩壊していたとはしりませんでした。当時連絡を取り合っていた高間氏の調査表には記載がありませんでした。
毎年今日は、私自身にとっても特別な意味を持つ日として迎えております。当時私は三宮にある神戸支店に赴任して1年5ケ月でした。年が明けてクライアントへの挨拶が終わり、この日から本格的な営業開始でしたが、挫かれました。当日はこれほどの被害になっている事は分からず、まずは早めに神足駅に行きましたが運転はされておらず自宅に引き返して終日TVを見ながら茫然としていました。社員の安否を確認するのに電話は不通で連絡方法がなく苦労をしました。幸い当時から業務で携帯電話を持っていましたので、逆に社員から連絡が来て確認が取れましたがそれでも4日はかかりました。
現地に入れたのは神戸電鉄が開業してからで、当初は神足⇒大阪⇒三田⇒谷上⇒新神戸のルートで片道約5時間余りをかけて通勤していました。始発で出勤、退社は停電が続いていましたので陽が暮れるまでに出て帰宅は22時でした。徐々に交通機関の復旧が進み4月1日にJRが三ノ宮まで開通した時の安堵感は最高でした。交通が通じる事の喜びがどういったものかを実感しました。
しかし業務の復興は始まったばかりで売上が戻るには10年以上が必要でした。業務内容が鉄道広告だった事から世間の復興が進まなければこちらの方にも戻っては来ない事によるものです。話し出すと他にも色々と尽きない事です。火災で焼けた地帯、崩れた家々の前を通っていましたが、線香や花が置かれていたのを今でも思い出します。不幸にしてお亡くなられました6,400余名の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
その朝午前6時前、関東地方でも弱い地震を感じて起きた。テレビをつけると、関西で強い地震があったよう。垂水でアパートが倒壊したとかそんなニュース、それ以上の詳細は判らない。念の為尼崎市の母親に電話した。この時はまだ電話が繋がった。『今ベッドの上で正座している。強い地震だが大丈夫』とのこと。まだ台所の冷蔵庫がひっくり返ったのには気づいていない。
午前7時のニュースは、神戸がかなり強い地震に襲われたと伝えた。あわてて電話し直したがもう繋がらなかった。その後ニュースを見る度、酷い状況が伝わり、電話が繋がったのは外から公衆電話でかけた夜だった。
尼崎に戻ったのは、その週の金曜日1月20日。伊丹空港に降り立ち、尼崎に向かうまでの市街も結構酷い状況。自宅は玄関がわずかに傾いた程度で他に被害はない。だが水道・ガスが出ない。近所の市営住宅の庭の水撒き用蛇口からは尽きることなく水が出、日に何度となく通う。
脳梗塞を患いその後半身不随の父親は、仁川霊園近くの西宮市田近野町の有料老人ホームに入居していて、大丈夫との確認はしていたが、21日(土)に訪れた。向かう途中、甲武橋でリュックを背負い両手に荷物、黙々と徒歩で西に向かう震災見舞いと思しき沢山の行列を見た。武庫川沿いを北に向かう道路は、中央部に亀裂、通行禁止だが、他に道はなく、強引にバイクで通過。同じ日に乙訓の老人が訪ねた西宮市大市とは目と鼻の先の距離。
さて着いたホームは、水が出なくて近くから汲んで運ぶが、何よりも紙おしめが不足とのこと。聞いて直ぐに伊丹に引き返して買いあさり、午後には甥子二人にオートバイで運ばせた。それでも不足故、千葉県柏市の家内に連絡、5箱ばかりを会社の大阪営業所に発送を依頼した。
月曜日の夕方、着いた紙おしめの段ボール箱をホームまで運ぶことになった。車を用意して運んで頂いたのが、他ならぬ当会の中林英信さんです。案の定、道路は大渋滞。夕刻5時頃出かけ、西天満から20kmあまりに5時間かかり、夜10時頃到着。帰りの食堂でも弱い余震に会う。その後紙おむつの不足は解消された模様。中林英信さんに大感謝です。(つづく)
鶴さん、オトウサンのこと思い出しました。入院しておられたのですね。今思い出すと貴兄のおたくにすんなりいけたのが不思議なのです。須磨の大人宅のように何度もお邪魔したのではなく、このときが2度目だったように思います。手帳に住所が記されており、橋を渡った時に誰かに尋ねたのか、交番が有り聞きに入ったのか、すんなりと行った様に覚えています。
ぶんしゅうさん大変でしたね通勤が。老人の勤務先には武庫川を超えて通勤していたのは公団武庫之荘団地から1人だけでした。と言うことで直後の混乱はなく、例年の年度末の混乱も京都ではなかったように覚えています。ただ物流には少し混乱が有りましたが、この時にJR貨物が大活躍したように思います。ただし淀川以東での話です。