今週はビスタⅡが登場した。仁連上人著のJTBキャンブックス“近鉄特急 上”89頁を開いてほしい。老人撮影の先頭部が紹介されているが、窓ガラスが1枚物であることが分かる。このパノラミックガラスはその後の増備車では片端カーブ部分は分離されてしまった。理由はともあれ、こうした正面窓ガラスの片端が曲面となった電車の日本での登場は1957年秋の名鉄5200型であると思う。老人はピクトリアル誌で知り翌年春に東京への道中、岐阜で下車して新岐阜駅に赴き現車をしげしげ拝顔したのだが、曲線部分にかかるところにステンレス縦割バーを見付け違和感を覚えた。その翌年秋、ビスタⅡは曲面1枚ガラスで登場した。やっと日本のガラス業界も一歩前進したと思った。京王電鉄5000系が1963年登場した時、東京出張の折に新宿まで正面窓を見に行った。残念ながら名鉄流であった。
それが1971年、京阪電車3000系は老人の宿願を果たしてくれた。最初に四条交差点で見た時の感動は今に至るも覚えている。かぶりつきのロマンスシートは子供たちに占領され、なかなか座れなかったが、淀屋橋から乗ると確保し易いことに気付いたのは増備車投入後であった。着席は右列通路側とした。この位置からは曲面部分の展望がまことによろしい。これは8000系においても然りである。
3000系がダブルデッカーを挟んでの試運転は夜間にあると、「ぷるぷる」氏から連絡があった。1995年12月14日出町柳22:58着、23:08発、最終特急後追いで走行試験をするとの事。この時に昼間の試運転ダイヤも教えてもらった。翌15日上り丹波橋14:33着、14:35発、これが目を引いた。この日、淀車庫拡張工事に絡む信号所新築内装工事打ち合せが15:00に設定されていた。勤務先担当者から同行を求められており、行きがけの駄賃とばかり社用車便乗で行くことにした。ダブルデッカーを横大路のカーブで迎え撃つのである。無事果たすことが出来た。
老人は1962年に向日町に転居した。この時に旦那に「裏切り者!」と言われた。それを区切りとして守口車庫に近寄っていない。従って3000系誕生の経緯など聞いていない。でも対岸から何時も観察していた。その対岸からの展望は如何にと、石清水八幡宮の参道を辿り展望台に向かったのは35年ばかり前で、住宅建設現場で大工に教えられ事による。その後、ぷるぷる氏とケーブル取替直後に便乗させてもらい、はるか天王山の下を走る鉄道3線との比較を論じた思い出を持つ。そんなこともあり3月31日の3000系お別れの日は“おたまちゃん”と2人で、八幡さんの展望台から靄のかかった2川合流地を見下ろしながら3000系と別れを告げたのであった。