有難うございました 高橋弘さん

訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。

高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。

忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。

①     デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。

以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。

②     和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。

③     デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。

頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。

①大譽11年生まれにしては古閾・?スタイル

①大正11年生まれにしては古臭いスタイル

②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車

1 thought on “有難うございました 高橋弘さん

  1. 高橋さんの通夜へ、東京から掛けつけた出版社編集長とともに行ってきました。会場には、ほかの鉄道系出版社の編集長が勢ぞろいで、改めて高橋さんの交流の広さを思い知りました。
    当会の先達が古い思い出を語っておられ、私など出る幕ではありませんが、サラリーマン時代は仕事でもお世話になり、そこで仕上げた写真集が、最後の作品になりましたと、ご遺族から語っていただき、多少なりとも高橋さんの思い出づくりになったかと思います。そう言えば、飾られていた遺影が、その写真集の著者紹介に使ったものでした。昭和25年、高橋さんが初めて東京を訪れ、田町電車区の湘南電車の前で、ちょっと気取ったその写真からは、高橋さんの鉄道写真にかける若き日の情熱が伝わってくるようでした。

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