「お城と鉄道」番外編 会津若松城(鶴ヶ城)

「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。

会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。

山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。

慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。

「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。

198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼

2013.4.10   「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼

2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼

2013.4.10  東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。

 

「お城と鉄道」番外編 会津若松城(鶴ヶ城)」への4件のフィードバック

  1. 新島八重が出てくれば、意外な関係のある(?)私も書かざるを得ません。八重の教鞭をとった学校跡は同じ町内にあり、八重が昭和の時代まで生きて来た新島旧邸も、私の学区内にあります。2015年に鶴ヶ城を訪ねたことがあります。天守閣の瓦が赤茶色で、たいへん品格のある城に見えました。そのあと、若松市内の街めぐりへ。そこで、「山本覚馬、新島八重生誕の地」を見つけました。同志社の建てた説明板もあり、東北にも、その足跡があることを感じました。とくに意識したことは無いのですが、新島誕生の地(東京)、渡航の地(函館)、終焉の地(大磯)、それに準特急さんと尋ねた安中の旧宅(群馬)、それに自宅近くの新島関係の史跡と、同志社人として行くべきところは押さえたかなと思っています。

    • 総本家青信号特派員様
      書かざるを得ない人に書いていただき嬉しく思います。何時ぞや総本家さんが「同志社高校に行かなければ鴨沂高校に行ってた」と言われましたがこの高校こそ新島八重が教えた明治初期の女子教育機関の女紅場で後に京都府立第一高等女学校となった現鴨沂高校ですね。新島旧邸も何も総本家さんの町内会のようなもので驚きました。

  2. 準特急様
    1968年8月に会津乗合自動車の定期観光バスに乗車して初めて会津若松の「鶴ヶ城」を訪れました。今から考えると新しいと思っていましたが再建してから3年後だったのですね。
    この時以来、会津若松を観光案内する時は、白虎隊士19名の最期の地となった飯盛山をセットとして訪問していますが、飯盛山スロープコンベアという階段のないエスカレータのような乗り物がありますが、若い時は階段を駆け上がり誰が乗るんだろうと思っていました。5年前にも訪れましたが70を越えてさすがに250円を払ってこの乗り物のお世話になりました。全国に6棟しかなく、その中で筆頭の【会津さざえ堂】も一見の価値があります。

    このシリーズでいつもお城の愛称名を採用した列車名を考えていました。思いついたのは次の3列車ですが他にもあるでしょうか。
    ・仙台城(青葉城)
    急行「青葉」:「上野-仙台」間(郡山経由)1950年~1965年
    特急「あおば」:「仙台-秋田」間(北上線経由)1971年~1975年
    新幹線「あおば」:「大宮-盛岡」間(開業時区間)1982年~1997年
    新幹線「Maxあおば」:「東京-盛岡」間1994年~1997年
    ・松江城(千鳥城)
    快速「ちどり」:「米子-広島」間(臨時の客車列車)1953年~1959年
    快速「夜行ちどり」:1955年~1959年
    準急「ちどり」:(定期列車気動車化)1959年~1966年
    急行「ちどり」:(急行列車に格上げ)1966年~2002年
    ・熊本城(銀杏城(ぎんなんじょう))
    準急「ぎんなん」:「博多-熊本」間(電車準急列車)1965年~1966年
    急行「ぎんなん」:(急行列車に格上げ)1966年~1973年
    急行「ぎんなん」:「博多-熊本」間(名称が復活)1975年~1980年

  3. 快速つくばね様
    いつもありがとうございます。
    飯盛山は今でも線香の煙が消えることはないと思います。
    城の愛称名と列車の愛称名は快速つくばねさんのご指摘の3列車しか頭に浮かびません。姫路城はシラサギが羽を広げたような優美な姿から白鷺(しらさぎ)城の愛称で親しまれていますが名古屋-金沢間の特急「しらさぎ」の名称とは同じ鳥ですが走行区間からみて直接は関係ないと思います。因みに白鷺城は(はくろ)城と読む場合もあるようです。
    「青葉」は東北本線の伝統的列車名ですが伊達政宗の仙台城からきています。元関脇青葉城がその名もずばりの力士でいました。同じ頃に青葉山という力士もいました。脱線してすみません。

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