DF50は北海道や関東地方を除き概ね各地で見られた。伯備線、大社線や中央本線では撮ることができなかったが、0番台スルザー形(ズルツアー形)65両、500番台マン形73両計138両の走行線区は一応網羅したつもりである。
最終回はDF50が健在であった時代にDRFC-OBの皆さんが日常よく見たり乗ったりされた山陰本線である。所属は勿論DF50が大量に配属されていた米子区である。
最初は1969.5.4京都駅山陰線ホームから撮ったDF50525である。カラーでなく残念であるが旧塗装(新製時の茶系)の方が急行を含め旧型車を牽くのに似合っており私は古い色が好みであった。▼
京都の次の山陰本線は丹波口である。跨線橋がなく構内通路が二本ありこういう駅は危険であるが跨線橋がなくすっきりして私は好きである。右端のご婦人は和服であり昭和の風情を感じる。1964.5.4の夕方の829列車米子行きDF5061である。▼
1969年2月25日定番撮影地馬堀を出て保津峡に向かう敦賀発京都行き922列車DF50571[米子]。かなりの雪の中を走破してきたことが感じられる。それにしてもこういう日に撮影できるとは若かったし京都に住んでいた強みでもある。▼
1968.10.8 馬堀-保津峡間を行く浜坂発836列車京都行きDF50[米子]。ここを過ぎると保津川渓谷で京都ももうすぐである。嵯峨野観光鉄道に乗った時終点トロッコ亀岡から馬堀駅まで歩いたがこの辺りも随分と様変わりしていた。 ▼
1962年12月16日 和田山駅を出て京都に向かう米子発828列車DF50502[米子]。左の線路は播但線。「天空の城」「日本のマチュピチュ」竹田城はこの近くだが遂に行くことはなかった。▼
1962年12月16日豊岡駅北方 出雲市発大阪行き714列車DF5055[米子]。右は宮津線で京都丹後鉄道になってからは乗ったことはない。▼
1962年12月16日 豊岡駅を出発する大阪発701列車浜田・大社行き急行「三瓶」。1等車2両が輝いて見えたが形式はわからない。▼
1972.8.23 小田-田儀間 下り833列車出雲市発長門市行きDF50559[米子]▼
1972年8月26日 知井宮(現西出雲)-出雲市間 長門市発822列車豊岡行きDF50511[米子] ▼
1972年8月26日 出雲市=知井宮(現西出雲)間 出雲市発833列車長門市行きDF50550[米子] ▼
1973年8月12日 小串付近824列車門司発福知山行きDF50536[米子]。山陰本線は長距離鈍行の天国でありその先頭には蒸機よりもDF50がついていた印象が強い。 ▼
山陰本線をもってDF50思い出写真シリーズを終了するが個人で全国を撮りつくすには無理もあったような気がする。蒸機の合間に撮ったのが正直なところである。しかし、今になってみるとDF50は綺麗な機関車でありそのデビューは「近代化の立役者」と言われ「お客を煙から開放する」がキャッチフレーズであったが亜幹線も電化され客車もなくなってしまい結局古い時代の記録だけとなってしまった。それだけ私も老朽化したことを自覚する。
準特急様
DF50が走る多くの路線を楽しませていただきました。山陰本線京都口はいつ見せてもらえるのかと期待してましたが、真打は最後でしたか。
中学2年の時に初めて撮った鉄道車両がDF50で、一枚目とほぼ同じ場所でした。慣れないせいかブレてしまい、ほろ苦いデビューです。
今は山陰線も複線電化され、ずいぶん便利になりました。通勤客や観光客の利用も多く、時間帯によっては大変な混雑ぶりです。自宅から歩いて5分ほどの二条駅から乗車しても座れないことが多く、DF50がいたころとは隔世の感があります。
もしも昔に戻れるなら…と妄想するのは、DF50の引く客車の窓から眺めた、保津峡や園部までの風景です。今はタイムパフォーマンス重視で、旅情のかけらも感じられませんが、それも致し方ないことと割り切り、時代に取り残されないようにしております。
それでも息が詰まりそうになると、蒸気機関車が走り、客車に揺られたあの頃を思い出しています。準特急様には数々の場面を見せていただき、感謝に堪えません。まだまだ秘蔵の写真をお持ちと思いますので、ご披露してくださいますようお願いします。
添付の画像は昭和50年4月、二条駅で写したDF50 529です。検査の帰りだったのか、列車の最後尾につながれていました。
紫の1863様
深夜のコメント有難うございます。二条駅は立派な駅舎であったと思います。京都、丹波口、二条、花園、嵯峨、保津峡、馬堀、明智光秀の亀岡と続く山陰本線京都口はよかったですね。40分くらいの乗車ですが景観誠に素晴らしくあという間の3、40分の乗車でした。京都から福知山以西に向かう長距離鈍行はDF50が牽くことが多くそこそこ長い編成の客車オハ61系、後にオハ35系等を従えてブルンブルンと音を立ててトンネルに進入する姿は今でも目に焼き付いております。大げさな音の割にスピードが出ない。しかし、あれはあれでよかったと思っています。誰もが撮った保津峡駅の1967年12月3日午後DF5062[米子]牽引841列車鳥取行きを貼り足しておきます。
準特急様
1967年12月31日に撮影した豊岡機関区で待機中のDF50 566です。1965年には郡山機関区に配置されていたようですから、その後米子機関区に移動したようです。詳細は、『DF50お宝探偵士』の四方誠様よろしくお願いします。それにしても「土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線のぞき見」のコメントの中で車番を「DF50は21号ですね。」と言い当てられているのは、どこで番号がわかるのですか。
「ところで、快速つくばねさんには少し古い話で恐縮ですが私のデジ青投稿「DF50の思い出写真(1)福知山線」でコメントの臨時急行「第2三瓶」の写真他が抜け落ちているとのご指摘がありました。次の「日豊本線」でも同じ抜け落ちがありました。管理人に助けを求め昨年12月27日には以下のような回答がありました。」の件、承知いたしました。ご回答ありがとうございました。コメントの画像も拡大できるようになったことは機能増強ですね。
快速つくばね様、
DF50 566号(川車No.81)の車歴ですが、
1962年10月17日:郡山(新製)
1967年07月04日:米子
1976年08月07日:宮崎
1978年07月20日:用途廃止
となっています。
また、後免駅2番線の21号の件ですが、
・製造銘板に「汽車」の文字
→汽車製造(電気周りは東洋電機)は21or40号機
・張り上げ屋根部に3箇所ある雨樋
(Dの文字の上の1箇所が鮮明に写っています)
→多度津工場のみでの改造で、生涯亀山区の40号機ではあり得ない。
ということで、21号と判定させていただきました。
四方誠様
詳しいご説明ありがとうございます。『お宝鑑定』と『歴史探偵』とを兼ね備えられていますね。
投稿写真の撮影日付は、1日前の1967年12月30日に訂正いたします。この日は年末輸送にかり出されたのか、他にも豊岡機関区にDF50が集まっていました。
準特急様、
京都駅から小串まで、SLの序でとはいえ頭の下がる思いです。
帰省先が京都府の北部の方でしたので、4枚目の836レ(私が利用していた頃は834レでした)は、中学生ぐらいまでよく利用したものです。元々は10時半頃に京都駅に到着するスジでしたが、ダイヤ改正の度に優等列車の待避が増え、3時間のDF50との旅を楽しんだものです。
米子区のDF50のさよなら列車(1978年10月14日831レ(ヨナ~ハマ))の、翌日の折り返し822レの写真を貼付いたします。場所は、出雲市駅1番線です。
四方誠様
四方さんに無難にしめていただき有難うございます。DF50思い出シリーズを何も考えることなく羅列しました。よくコメントいただき、時にハイレベルな内容で何事にもいつもできるだけ早めのコメント返しを考えていましたがウロウロしたこともあります。単なる古い記録と逃げてしまいがちですが、いろいろ勉強させていただきました。有難うございます。
準特急さま
いやあ懐かしいですね。先述のとおり丹波口駅に始まり、保津峡や馬堀で眺めた光景とエンジン音は今でも脳裏に焼き付いています。登場当時の茶色がお好きとのことで、ご発表の写真の大半が同色であり、貴重なものを拝見することができ有難うございました。やはり茶色の客車には茶色のDF50ですね。丹波口駅で初めて見た準急「白兎」は短編成ながら貫録がありました。客車が青色になってからはオレンジの新しい色もそれなりに見栄えがして、これは似合うなと思ったものです。
馬堀周辺は複線化や宅地開発等で、その変化は様変わり程度ではありません。かつてのポイントで撮ることはほぼ不可能でしょう。
写真の8葉目の小田~田儀間も懐かしいですね。私はキハ58系や181系を追っかけて何度足を運んだことか。田儀から500mの割には景色が良く気に入っていました。先に訪ねておられたとはさすがです。
’73年8月頃の下関口は浜田や米子間の長距離レはDF50牽引でしたが、短距離はまだD51が牽いていました。川棚温泉に向かうべく下関を17時頃に出るD51が牽く長門市行に乗車したことがあります。吉見~梅ヶ峠間のさしてきつくない上り勾配を喘ぎながら登っていました。
好きなDF50シリーズが終わるとあって寂しくなりますが、まだまだ貴重なお写真を秘蔵のことと思います。老朽化などと仰らずに引き続いてのご発表を楽しみにかつ強く期待をしております。
1900生様
古い話は懐かしく同じ事を何度も話しがちですが特に関係のない人からはうるさいなと思われるでしょうが、懐かしい話は最も健康にいいと思っています。懐メロもそうです。変な胃腸薬や漢方薬よりも親しく喋れる仲間と共通の話題でも喋っていた方がよっぽど健康にいいと思ってます。客車準急「白兎」は見てみたいですね。田儀は結構歩いたと思います。9ミリゲージが3階に置いてありますが、DF50は完成品ですが茶です。EF58も旧国も客車も茶が一番です。ところで、次回予告編ですが、1900生さんの最も嫌いなジャンルを用意しています。同じ人間ばかり投稿してもしょうがないのでその後はまた冬眠ではなく春眠、夏眠をします。若い方の投稿には勿論ちょっかい出そうと思ってます。
準特急 さま
DF50の投稿お疲れさまでした。好きな機関車で、同じく好きな旧型客車列車も見られるので毎回楽しませて貰えました。まだまだお元気のようで次の企画も期待しています。
山陰線のDF50ではありませんが紀勢線で働いていた頃の一枚です。白浜口ではないかと思いますが定かではありません。和歌山の酒・祝砲の看板の前を排煙をたなびかせて出発していくところです。客車のスロハ32には乗降口横に1の標記があり二等室の窓下には三等標記を消したところが二箇所あるので1960年に二等級制になって数年以内の撮影でしょう。等級帯が映える合造客車とともに写るDF50です。
ちょっと家庭内で落ち着かないことがあり、せっかくの京都口DF50が取り上げられているのに対応できず忸怩たる思いで見ていました。しかし大阪通信員さんのスロハ32が出てきたのに我慢がならなくなり、取りあえず手近な写真を貼ります。
丹波口駅に入るDF50です。右の塀が途切れた辺りが五条通で、左に分かれている線が大阪ガスの工場へ入る引き込み線です。
米手作市さま
そうそうこのこ線橋です。中央市場への人道だったように思いますが、線路上から市場方面の先へは行ったことがありませんでした。子供心に大人の世界、入ってはいけないところみたいな心理が働いたのでしょうね。この橋の上からか右手の塀の辺りから列車を眺めていました。当時写真を撮っておられたのであれば、あわやニアミスをしていたかもしれませんね。赤い糸(煤煙で汚れた黒い糸?)で結ばれた宿命を感じます。
準特急さま
準急「白兎」や運転開始当初のキハ20準急「丹後」を見たのはこんなアングルでした。SLではおぼろげですがC52・C54も見たように思います。SL列車は汽笛と煤煙がイヤで右手の塀辺りへ避難して見たように記憶します。
1900生さん
C54はともかく、C52はC51のまちがいでは?
以前にキハ20の準急「丹後」の写真を載せましたが、1900生さんのパソコンが不調だったのか反応がなかったので、ひつこくもう一度見せます。これでしょうか?
米手作市さま
そうそうこれです。以前のご投稿を見落としたようで申し訳ありません。今回また貴重な写真を再掲して戴き感謝感激です。写真の丹後は運転開始当初に一度見たきりでしたが、それまでの地味な紺とクリームの10系DCと異なり、朱とクリームの明るい鮮やかな20系DCだったので驚きました。当時の新聞記事には七尾から来たと書いてあり、なんだ新車じゃないのかと落胆したものでした。山陰線の京都口といえば当時は一級の亜幹線だと思っていたのに、七尾線の方が先進線区のように思えて面白くなかったのも事実でした。
次に丹後を見た時にはキロハ18を組み込んだ4両編成でした。ちょっと記憶が曖昧ですが、紺色で屋根が低く車体幅も狭かったので、なんかチグハグに感じたものです。のちのDC列車の、良く言えばバラエティーに富んだ編成、悪く言えばガラクタ編成の奔りだったのでしょう。
余談ですが京都口の20系DCで想い出すのは朝9時半頃に京都に着く東舞鶴発のローカルです。始発からは何両だか知りませんでしたが、途中の園部で前夜停泊の3両を増結した堂々20系一時車(バス窓)8両編成で梅小路横のカーブを曲がって来ました。同一車種だけの8両編成はローカルでは珍しかったと思います。小学生の頃によく自転車をとばして見に行ったものです。
昭和35年頃にYMCAのキャンプで行った山陰線名和駅で駅撮りしたものです。D50505
最後は、準特急さんが最初に載せた京都駅山陰線ホームのDF50528です。
大阪通信員様
米手作市様
御二方に連続してコメントいただき恐縮しております。珍しいDF50とスロハ32や地元ならではの旧色のDF50を有難うございます。紀勢線も東和歌山でDF50が客車列車を牽引しているのを撮り逃がしています。スロハ32もEF52牽引列車や京都駅山陰線長距離鈍行でかろうじて見たような気がします。御二方に共通してお見せするものがないかと探しましたがやはりこれしかないと思い出しましたのがこれ。マシ292です。1967年12月11日に向日町-西大路間で撮影した長崎発京都行き「玄海」です。ネガを一度専門家との間で往復していますので再現できるか心配です。
昭和42年にこんなきれいなカラーで撮ってられたとは敬服します。
急行玄海のマシ29、大阪からの通学時に京都駅で良く見かけました。二重屋根に三軸台車、重厚で独特な走行音を聞きながらの食事をしてみたかったですね。好物の美味しいものを見せていただきご馳走さまでした。
大阪通信員様
2度も筆を執っていただき有難うございます。「玄海」は終着京都へは9時57分の到着ですから丁度通学時間帯だったと思います。マシ29はもう一つマシ29109というシングルルーフ3軸ボギーの食堂車がありました。やはりマシ292の方が一枚上ですね。この時に関西-九州間の急行で食堂車の入っていたのは「玄海」だけでしたが翌1968年には客車急行「玄海」自身がなくなりました。遠い時代になりましたね。
準特急さん
探しましたがマシ29109は撮っていませんでした。京都にいましたか?
井原さんに調べて貰いたいですね。
前後賞でマシ29110を載せます。
米手作市様
マシ29110は隣番号ですね。直ぐわかればいいのですが客車は米手作市さん程強くありませんので強いお方井原さんに訊いてもらった下さい。マシ29109は「玄海」の京都駅到着後の姿を撮っています。
京都駅で発車待ちの「ことぶき」のマシ29109です。
井原さん、
早速の掲載、ありがとうございます。
マシ29109、いたのですね。撮っていませんでした。いつ頃の写真でしょうか?向日町のマシ29は全て撮ったつもりでしたが、漏れがありました。
準特急さん、申し訳ありません。
1968年5月11日の撮影です。向日町で最後に残った4両のマシ29のうちの1両でした。この4両の廃車でマシ29は形式消滅しました。