前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。
1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼
折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼
富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼
長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。
篠ノ井線にも三重連列車があったのですね。これは定期運用だったのでしょうか? 実は、準特急様のこの写真から、半月後の1965年8月初めに、小生も三重連に出会ったことがあったのです。それもDF50の三重連でビックリしました。場所は川中島で、運用を知らなかったため、前から撮ってしまい、よくよく見れば、何とか3台繋がっているのが、判ると云う残念な写真になってしまいました。先頭はDF506(長)のようですが、2・3台目は番号不詳です。各停だったと思います。持参していた時刻表は今でもある筈ですが、直ぐ出て来ません。上りの各停だったような気がします。何ともオソマツな写真で恐縮ですが、いまや鉄道老年になった小生も、これを撮ったときは、中学2年生の鉄道少年でした。
宮崎繁幹様
中学2年生で世田谷から信州川中島古戦場近くへの遠征ということで鉄道趣味へのお目覚めも早く恐れ入ります。敦賀一区から来た長野区のDF50は篠ノ井線および中央本線甲府迄の準急列車などを中心に重連で運用されていました。従いましてお撮りになった3重連も運用の都合かと思われます。村樫四郎様のお撮りになった「穂高1号」も重連と思われます。私もこの時は大学1年生(関西では1回生というようです)で初めての夏休みを新幹線に乗らず名古屋から準急「おんたけ」を利用しての信州まわりの旅行でした。1回きりの信州通過では何もよくわからず蒸機も含め重連や補機のことについてはよくわかりませんでした。鉄道写真は同じ場所に何回も通うといい作品をものにしやすいことが最近になってわかってきました。
準特急さま 宮崎繫幹さま
小生、お二方の前年1964年の春休みに篠ノ井線に乗っていましたが、DF50を見た記憶は全くありません。それまで山陰線丹波口や花園では飽きるほど見ていたのですが。高1の時に小6の弟と二人で人生初の(2人の)単独旅行に出ました。当時としてもこれが初旅行とは少々晩生でした。その頃は信州の小海線、飯山線、大糸線など非電化ローカル線に関心を持っていましたから、親から付けられた許可条件により夜行2泊の3日間、旅費軽減のため一筆書きルートでの旅でした。京都駅を12:55発山陰線回り敦賀行913レで出発、敦賀で3時間余り待ち22:16発急行「日本海」で糸魚川へ。満員で座席にありつけず開いていた編成中間のフ車車掌室でウトウトしながら一夜を過ごし、1時間半待って5:19発の大糸線キハ52~信濃大町7:24発旧国と乗継いで、松本発9:20のキハ52で長野に出ました。この途中で少なくとも名古屋行812レと新宿行432レと交換したはずなのですが覚えていないのです。初めて見る姨捨の雄大な風景は記憶にあるのですが、おそらく寝不足でウトウトしていたのでしょうね。
因みにその後はC56の牽くミキストで越後川口~EF15が牽く上越線の有煙(機関車次位の暖房車からの)上り客レで高崎~3時間半待ちで信越線夜行直江津行で横軽を越えて小諸~5:33発キハ52で小淵沢~9:20発D51牽引客レで辰野~11:21発クモハ14で豊橋、あと湘南80系と名古屋から準急「比叡」を乗継ぎ22:05京都帰着でした。
それまで時刻表では全国の列車を認識していましたし、時刻表通り運転されているものと漠然と思っていましたが、信州という一部地域とはいえ、実際に時刻通りに走っているのを現認して大きな感銘を受けたものでした。記憶すら無く直接DF50と関係ない話題で失礼しました。
1900生様
弟さんとは同趣味と思いますが京都出発からこの一筆書きルートは相当な忍耐と体力が要りますね。まず12時55分発の敦賀・豊岡行きは私もよく利用したり撮ったりした列車ですがC57牽引でした。まだ元気のある時間帯でしたが、敦賀からの「日本海」は満席の深夜時間帯でさぞうんざりされたことでしょう。私の乗車した上越線の有煙列車はEF60になっていました。1900生さんのこのような旅日記は私も同時代の人間なので臨場感を感じて好きです。
さて、大糸線の早朝の長旅を終えて松本から2時間弱の長野までの間に確かに2本の普通列車と交換しておりますがD51牽引でなかったのかと推察します。この当時長野にはDF50が8両(1~6,9,33)しかおりません。それが重連で準急に使うとなると最大同時に4本の列車に投入することになり普通列車への投入率は低いものと思われます。
推察ばかりで申し訳ありません。
準特急さまのお褒めの言葉に悪乗りし、更に幼少のみぎりだった小6のとき(1963年8月)の、中央東線DF50をお目に掛けましょう。写真の出来は、当然ナンダコリャ度が高まっておりますが、御容赦下さい。林間学校へ向かう途中、長坂のスイッチバックで、対向の上り準急を車窓からスナップしたものです。初めて見たDF50に興奮しました。確かに重連で運行されていますね。小生の乗車列車は、D51牽引の各停で、折返し線に停車中。DF50の牽く列車は、長坂通過だったような気がするが、60年も前のこととて、定かではございません。旧塗色最後の頃で、これ以降に見たDF50は、全て新塗色でした。閑話休題。たまたま先週、小学校のクラス会あり。昔の鉄道少年は、鉄道老年になったが、今もやってます、と挨拶したところ、「まだヤッテんの~!」と感心(あきれ)されました。
宮崎繁幹様
またまた貴重なお写真を有難うございます。鉄道に感激した時代の写真はシャッターが早過ぎたり、ブレたり、ピンボケになったり、露出に失敗したものが多いです。しかし、その中に貴重品も結構あります。今のデジタルカメラはいくらでも撮れますし、その場で合否がわかりますが、もう一つ感激性がないのです。カメラというよりも対象被写体の車両が画一化されたり風景が悪いので感激がわいてこないのです。これは老鉄特有の現象かもしれませんがこんな話をよく総本家青信号特派員さんとやっています。再び開放的な客車で日野原、長坂、小淵沢と八ヶ岳を見ながらのんびりとした旅がしたいですね。
準特急様、
今回は長野時代を楽しませていただきました。
長野ではSulzer車の2ENDどうしの重連運用で、あたかもお召し列車のようでもありました。これは、1ENDと2ENDの運転台の装備の違いによるもので、制御箱が1END側にしかないことから、補助回路の電流計や電圧計は2END側にはなく、補助機器に異常があっても当該補助機器が停止するまでは異常に気付けないようになっているためです。1END側で運転する場合には、このような心配がなく、異常が認められれば直ちに制御箱を開いて応急処置を施すことが可能です。お召し列車の場合、礼儀のように言う方もおられますが、個人的には上記のような状況を鑑みての処置だったと思います。但し、一方向だけでの運転の場合は2ENDと1ENDを連結する例や、恐らく途中の転車台で向きを変えたと思われる例もありました。
このようにDD50よろしく2ENDどうしを連結して使用したため、2END側では改造工事が不要となり、恐らく本社からの配給品だったのでしょうか、2END側に取り付けるべき側扉用の防護柵2本を余らせてもしようがないということで1END側の側扉に活用したり、33号だけは何故か操車掛用手摺が小型のまま放置されていました。2END側での改造工事としては、サン板に小さな板が取り付けられ雪などで滑ったりしないように配慮されていました。
四国鉄道文化館に保存されている1号機もこれらの長野時代の特徴を有しており、現在でも実際に見ることが可能です。きっと文章では、わかりにくかったかと思いますので、貼付写真を参照願います。