DF50の思い出写真(8)播但線

私の知る播但線DF50は列車牽引でなく補機運用であった。播但線は過去に生野峠のトンネル内で機関車の不幸な事故が起きた暗い過去もあったが、回送を兼ねたC57の3重連を生むなどファン向けのサービス運行もあった路線である。北陸本線の杉津峠のような印象的なシーンではないが播但線補機の数少ない記録である。

1962.12.16和田山駅で待機する前補機DF5064[米子]+本務機C5523[豊岡]の貨物列車。DF50はピカピカの新車の感じで茶系の落ち着いた旧塗装であった。C5523は少し見づらいが流線形改造の面影が運転室付近に残っている。▼

196712.16生野駅の城崎発3606列車週末準急「ゆあみ」大阪行き。本務機C5562[豊岡]と前補機DF5064[米子]が側線に後退する姿。DF5064はこの日は補機専用の仕業であった。C5562はラストナンバーで姫路からはEF58交代して大阪に向った。▼

撮影とフィルム現像の失敗で申し訳ない写真であるが、1969.2.23生野付近で下ってくるDF50前補機+C57本務機の姫路方面に向う上り貨物列車。C57は既に絶気状態である。各列車こんな姿で和田山-生野間を走っていた。▼

DF50の思い出写真(8)播但線」への8件のフィードバック

  1. 準特急さま
    DF50+C55の貴重な記録ですね。C57の3重連、ありましたねえ。1970年頃ではなかったでしょうか。回送機は土曜夜の神鍋スキー臨用で昼頃の定期列車に併結されて走りました。小生は就職後間もない頃でしたので、学生だった弟にカメラを託して青倉へ撮りに行かせました。見ずらいですが8㎜フィルムに残っています。当時土曜日は半ドン(もう死語ですね。若い方はご存知ないでしょう)で、お昼に仕事を終えて昼食を済ませ、大阪駅を13時過ぎに出る宇野行客レ(電車ではなくわざわざこれに乗りました)で姫路乗換、播但線の福崎まで迎えに行きました。まだDF50の時代だったと思いますが、途中見かけることもなく残念でした。

    • 1900生様
      半ドンはそれなりに楽しい1日でしたが、関西の電車が速いのにわざわざ時間のかかる客車列車を選ぶとはさすが1900生さんは正統派の鉄道ファンだと思います。その判断は正しいです。ところで播但線と布原の3重連は私は行ったことがありませんが、播但線は九州日豊本線と同じくC57が客貨に活躍していて関西の人に案外身近な存在でした。現在は改造された赤い色の103系が走る姫路近郊区間は当時はC11でした。新橋に鎮座しているC11もここの出身です。播但線は1日撮影推薦コースで東京からでも場所によってはそこそこ撮れました。

  2. 準特急さま
    播但線のC55は知らない世界です。「よん・さん・とう」時にはC57等に置き換えられていました。
    3枚目の写真は、準特急さんや藤本さんに誘われて一円電車で終点の明延まで乗車した日の午前ですね。
    前日京都を出て、福知山、西舞鶴、加悦、天橋立YH、豊岡、播但線そして明神電車と、てんこ盛りの2日間でした。話が本題からずれてしまいました。

  3. 高田幸男様
    そうですね。記念撮影に写る若き日の皆さんの姿をよく覚えています。宮津線はC58ばかり(一部キューロクの貨物もいましたが)でC57の好きな高田さんのご機嫌斜めの様子もよく覚えています。播但線ではDF50[米子]+C57137[豊岡]の記録が1枚だけあり、その次のC5794[豊岡]の和田山行き旅客を貼り付けますが列車番号は不明です。この後に藤本さんの先導で1円電車に行ったと思います。

  4. 準特急様、
    播但線の補機仕業とは、貴重な写真をありがとうございます。
    レイルロード社の「国鉄DF50 Vol.3」が発刊されるまで、恥ずかしながら知りませんでした。播但線の南限は寺前までで、生野や新井で折り返す仕業もあったようです。昭和35年10月から昭和44年9月までの9年間だったようで、10月以降DD54と交代したようです。
    SL牽引貨物列車の補機仕業は、敦賀~今庄に始まり、矢立、立石でもありましたが、旅客列車の煤煙禍追放という大義を棄ててでもやらなければならなかったところに、SL乗務員さんの重労働ぶりが窺えます。
    貼付写真は、亀山経由で高松へ転出したDF50 64号牽引の226レ(塩入~黒川、1980年8月29日)です。

    • 四方誠様
      DF50の投入当初は補機使用ではなく亜幹線の無煙化だったと思います。私がこれまで撮ってきたDF50は急行列車の先頭に立つものも多くあり、例えば日本海、男鹿、津軽、たざわ、ばんだい、穂高(準急)、出雲、三瓶、大和、高千穂、日向、彗星(特急)、富士(特急)等々で車長が16メートルと短いながらハンサム機関車は胸を張って走行していったと思います。補機使用は何となく合点が行きませんが使用線区によってそれぞれ事情があってのことでしょう。優等列車の後は当然蒸機(C57が多かった)牽引の旅客列車を置き換え、それも後に出てきたDD54やDD51に追われていつの間にか消え去っていきました。四方さんや1900生さんなどのご報告で最後は四国地方で石灰列車を牽いていたことなどを知った次第です。マン形とズルツアー(スルザー)形の違いがあることしか分からずいろいろご教示いただいてもなかなか理解できないもどかしさを感じております。もうあとわずかで完了します。

  5. 準特急様
    四方誠様
    お年玉くじ付き年賀はがきの3等の賞品ではありませんが、「64」をどこかで見たと思っていましたが、このシリーズの最初の「DF50の思い出写真(1)福知山線」に画像を投稿していました。1965.4.29の福知山線旧線の「武田尾-道場」間ですが、現在コメントの画像が閲覧できない状態になっていますので、再度投稿します。

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