東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。
それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。
C575 金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。
C5715 金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。
C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。
C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。
C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。
C57127 常磐線平区からの転属である。
C57190 同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。
それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。
C575 1937年7月 川崎製造 製造番号1800 新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。
1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼
1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼
1972.8.24 出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼
C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。
1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼
1968.10.8 馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼
1968.10.8 到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼
1968.11.14 嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼
C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。
1969.2.25 保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼
C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。
1972.5.1 同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼
C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。
1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼
65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼
梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼
C5789 1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。
1967.12.7 京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼
1968.9.21 夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼
1973.4.10 宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼
C57127 1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。
1964.5.4 京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼
1968.5.19 珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼
1972.5.1 川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼
1972.5.1 C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼
C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。
1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼
1965.5.3 紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼
本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼
一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼
続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼
終わりに
阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。
C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。
準特急様
梅小路のC57が元気だったころを拝見し、懐かしく思い出しておりました。
1971年5月23日に運転された「蒸気の旅」は、いちおう写したのですが…。こんな写真しかありません。
紫の1863様
早速有難うございます。先頭のC575の形式入りナンバープレートがわかります。混んでいたのでしょう。
梅小路のC57は京都の少年ファンに身近な存在で、中でも5号機は人気ナンバーワンでした。昭和45~46年ころの私は中学生、嵯峨から保津峡、馬堀あたりまで出かけるのが精いっぱいでした。
添付の写真は昭和46年4月25日の午後、ヘッドマークをつけた5号機を中心に、6両の蒸機が並ぶ夢のようなシーンが見られました。左からC11 64・C57 127・C57 5・C57 15・C57 89・C57 190の6両です。C57 39は園部まで出かけていて留守でした。
紫の1863様
私は中学生のころにはまだ目覚めていませんでした。高校生から始めたのですが守備範囲は自転車で行ける所まででした。伝統の梅小路扇形庫の懐かしい機関車ありがとうございます。皆知り合いのような機関車ばかりですが壮観ですね。
準特急さま
一時期山陰線の主だったC57の数々を拝見させていただき懐かしいですね。写真を撮られた頃私は金閣寺の近くに住んでいましたので、自転車で十数分も走れば花園駅付近に行くことができました。高校生の頃に父の2眼レフを借りて初めてSLを撮ったのが同駅の嵯峨寄りで、昼前の京都行C51でした。ファインダーを覗いていてここだとシャッターをきりますが、出来上がった写真のC51は遥か彼方に小さく鎮座していてガックリきたものでした。以来先輩に教えて貰ったり経験を積むことで、やや寄せすぎかと思えるくらいにきると丁度になることを会得しました。クラブ時代の加太詣でもいい経験でした。
また社会人になって最初のボーナスをはたいて8㎜カメラを手に入れ、その試し撮りにと丹波口駅に向かい、夕方の重連1827レ(c5789+15のキャプションの1727レは1827レだと思います。700番台は福知山線大阪発着の列車番号でした)を初撮影しましたが、これも想い出の列車です。
想い出の多い山陰線とC57でした。続編を楽しみにしております。
1900生様
わら天神前ですね。よく存じ上げております。山陰本線は這っていけるのですね。1900生さんがカメラ等で趣味を始められたころの様子がよくわかります。私も最後まで残っていたC51271で同じような経験をしております。撮影技法を諸先輩から教わったのは同じ懐かしい思い出です。厳しくも優しい先輩ばかりでした。こういう記事ももう少しあってもいいと思います。ご指摘の列車番号は早速訂正しました。有難うございました。
友人に誘われ「汽車ポッポの旅」に乗車しておりました!中学3年の時です。スキャン環境がないためネガをスマホで撮影し反転した不鮮明画像で失礼します。
乙訓の老人の甥様
有難うございます。やや広角気味でC57重連がよくわかります。乗っておられたのですね。
中学3年生!今はすっかり爺になっています。
乙訓の老人の甥様
サボとスハ32らしきリベットがいい記念写真になっています。それにしても中学3年生にしては若くて男前ですね。私の中学、高校時代は丸坊主でした。このような鉄道少年から後年韓国の狭軌の蒸機についていろいろ教えていただくとは思ってもいませんでした。
乗車したのは スハフ32 247 でした。
「蒸気の旅」にスハフ32とは意外でしたが、ネガを探してみるとそれらしき車両が写っていました。最後部の車両は窓が狭いように見え、これがスハフ32でしょうか。SLブームに踊らされた俄マニアの中学3年生は、高齢者になった今日まで気づきませんでした。
昭和46年6月20日に京都駅で撮影した「蒸気の旅」の後ろ姿です。
紫の1863様、乙訓の老人の甥様のお写真を拝見して、そういえば自分も撮ったなあと思い、古いネガをひっくり返したら出てきました。
京都駅と山崎~高槻間で撮影後、電車で追いかけて大阪駅の発車を撮りました。
大阪駅の発車です。
発車時間ギリギリに着きましたが、この場所で何とか撮れていますので、超満員と言うほどでもなかったと思います。
藤本哲男様
勝手を知った藤本さんならではの撮り鉄奮闘記を拝見したような気がします。忙しい行動、言い換えれば効率的撮影行動は今も昔も健在のような気がします。有難うございました。
つらら切りの付いたC575はこちら!
https://drfc-ob.com/wp/archives/91459
米手様 投稿していたことを忘れておりました。ありがとうございます。
有難うございます。過去のデジ青でこれほど立派なC575が投稿されていたとは知りませんでした。前から申し上げておりますように私は過去の記録を追いかける方法がわからないIT無能(デジ青投稿にある種恐怖感を持っている)人間です。C575は正面勝ちに撮ったのは山陰本線西部(浜田区)に追い出された落ちぶれた姿です。金沢時代の同機他ツララ切りの効能が今一よくわからないのです。早朝の一番列車を担当するのはC57ツララ切り付きばかりとは限らないはずです。北陸本線を走ったD51やD50にはツララ切りらしきものがありません。脱線して申し訳ありませんがここが知りたいですね。
準特急様
同じ番号を探していましたら、1968年2月にC57 5のこのような写真を撮っていました。学生時代、アルバイトで車を運転して親戚の会社を手伝っていましたが、運転席の横にカメラを置き、信号待ちや線路の傍を通る時に列車や路面電車を写していました。残っているのはフイルムだけで日時や場所の記録を残していません。
この時点では「ツララ切り」があったようです。この場所が何処か教えていただけませんでしょうか。
快速つくばね様
横からの割り込み、失礼します。写された場所は五条通の山陰線踏切でしょう。丹波口駅の北方にあたり、向こうに構内が見えています。右手の屋根は、中央市場の一部です。光線から見ると、休日夕方に走るC57重連です。
総本家青信号特派員様
早速のご教示有難うございます。56年経ちましてようやく疑問が解決しました。
国道9号の踏切ですね。前年に全通した五条バイパスから続く五条通(山陰街道・丹波街道)で、「丹波口」の駅名も納得できます。中央市場といえば本線から引き込まれた東京市場駅や大阪市場駅の扇形の荷卸し線を思い浮かべますが、のちの京都市場駅は山陰本線に並行していたことも分かりました。
ご正解だと思います。小生も丹波口かなと思ったのですが確証を持てず、特派員さまのコメントを見てやはりと思った次第です。
懐かしい風景ですね。小学生の頃、大宮五条の親戚の従弟連中とよく丹波口駅に遊びに(小生以外は。自分は列車を見たくてでした)行っていました。五条踏切の北東側に大阪ガスの工場があり、たまにタンク機関車が貨車を牽いてお出ましになっていました。
列車は仰る通りで、先日コメントした列車ですね。撮影曜日は日曜だと思います。この列車の1本後に休日運休の園部行があり、翌月曜日早朝の園部発上り列車牽引用のカマを送り込む列車でした。
遙か彼方に見える跨線橋から五条踏切方向を撮ったのがこれ。
米手作市様
有難うございます。これは列車番号等が記載されていませんが、ドーム後ろに重油タンクなどがついておりますので園部より遠くから来た列車で福知山区のC57と思われます。次回、DF50で丹波口駅を出します。上り、下りがよくわからず教えていただきたいと思います。
米手作市さま
そうそうこの陸橋。よくこの上からシンダを浴びるのも臆せずにSLの発車を眺めていました。中央市場に通ずる橋だったように思いますが、そこへ行く必要もなく、またいつもザワついていたので、子供心にはちょっと怖い場所だと思って寄り付きませんでした。
余談ですがDF50の牽く準急「白兎」を初めて見たのもこの陸橋の下でした。客車5両だったように記憶しますが、見慣れていた普通のオハ61とは明らかに異なるスハ43系に優等列車の風情を感じたものでした。そういえば走り始めたDC準急「丹後」を最初に見たのも同じ場所でした。当初は七尾から来たキハ20ツートンの3両編成で、1年後に紺とクリームの車両が組み込まれてなんだアレはと思いましたが、当時はキロハ18なる車両を知りませんでした。おそらく関西線の「かすが」から回ってきた車だと思っています。
こう思うとこの頃から米手さまとはせいぜい500mくらいの距離で接近していたことになり、何やら運命(いや宿命かな)を感じています。
赤い糸で結ばれた親友です!
西村雅幸さん、準特急さん、
お呼びですか?
米手様 昭和39年8月10日に長野駅で飯山線の混合列車を牽くC56111を撮っています。ところがツララ切りがありません。あれは冬装備で、夏姿にはないものなのでしょうか?
途中横入りですが、西村さん
スノープローとツララ切りは夏季には外していたのでしょう。
米手作市様
私が見た飯山線のC56のツララ切りはこれです。私は越後鹿渡のDRFC公認旅館に行く時に撮っていました。有難うございました。
快速つくばね様、総本家青信号特派員様、並びに1900生様
快速つくばねさんの疑問に早くお答えすべきでしたが、馬堀駅と保津峡駅ではないことはわかっておりましたが、京都でお生まれお育ちになったお二方に正確な位置を示していただき有難うございます。
ところで、快速つくばねさんには少し古い話で恐縮ですが私のデジ青投稿「DF50の思い出写真(1)福知山線」でコメントの臨時急行「第2三瓶」の写真他が抜け落ちているとのご指摘がありました。次の「日豊本線」でも同じ抜け落ちがありました。管理人に助けを求め昨年12月27日には以下のような回答がありました。「画像自体は削除されておらずシステム内部の何らかのトラブルで一部コメント画像だけが標示されなくなっており、アップデートや設定の見直しでは改善されず、スパムフィルタや画像アクセラレータは内部がブラックボックスになので修正を行なえません。現時点での対応策としてはコメント画像をクリックすると正常に拡大画像が表示されます。引き続き調べておりますが何か追加で分かることがあれば掲示板で通知します。」以上でしたので遅くなりましたがこの場を借りてご報告いたします。
準特急様 保津峡・馬堀のなつかしい写真をありがとうございます。C5715の解説のところで、飯山線のC56のツララ切りについて触れられていますが、私は飯山線のC56ではありませんが、大糸線のC56151を松本駅で撮っています。ピンボケ写真ですが、ツララ切りがあるように見えます。あるいは、大きな集煙装置の支えなのかもしれませんが。大糸南線は電化されていましたが、大糸北線は非電化でしたので、貨物は松本から全線C56
だったような気がします。
1900生さんのリクエストに応える。
ああ、いそがしい!
キハ20ツートンの3両編成DC準急「丹後」とはこれでしょうか?
もう一つ、
紺とクリームの車両がよくわからないのですが、これでしょうか?
準特急様
早くも2月に入ってしまいました。なんかバタバタしていて、デジ青も見ることをサボっていました。
北陸育ちで、子供の頃はC57かD51そして96や86しか知らずに育ちました。C59やC62は憧れでした。
このご投稿で、当時梅小路配属のC57、5,15,39,89が金沢育ちと知りました。きっとこれらの機関車が牽引する列車に乗ったのかも分からないのかと思うと、親近感を持って見てしましました。
C57は貴婦人ならず、よく働くおばはんという表現は笑けました。
素晴らしいご企画を有り難うございました。
マルーン様
有難うございます。ご幼少の頃は間違いなくC57やD51の列車に乗車されたことと思います。総本家青信号特派員さんが新編集長になり陣頭指揮をとられている(株)エリエイ プレス・アイゼンバーン「蒸機の時代」No.94は蒸機全盛期の北陸本線の特集で吹雪の親知らず、柳ケ瀬越え、スイッチバック、それにその頃の子供たちを含む乗客の姿等など魅力たっぷりです。佐竹さんをはじめ趣味の世界の諸先輩の見事な写真集です。私にはそれは叶わなかったですが、その後ツララ切りのC57が梅小路に来てくれてあのような拙作ですが記録することができました。多分、総本家さんからはもっと素晴らしい続編を投稿していただけるのではないかと思っています。