DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 

世界の恐ろしい戦争に加えて新年早々いろいろな悲しいニュースが飛び込んできた。さらに政治の世界はどうなっているのか嫌な年のスタートとなった。この様な中で正月もあっという間に1週間が過ぎてしまった。デジ青もなかなか気分的に進まないが、私のヘボシリーズが残っているのでこれを片付けないといけないと思いDF50の思い出写真シリーズを始める。

今回は四国のささやかな思い出である。確か快速つくばねさんからご指摘があったかと思うが、当時の時刻表には土讃本線、予算本線とあるが、最近の時刻表にはなし表示であることを確認しそれに従った。

1977.8.27  松山から高知までバスで山越えし、南国土佐の高知駅12時41分発のDF50517[高知]牽引226列車高松行きの最後部オハフ332392四コチに乗車。メモにはこの日は酷暑とあるがDF50の正面貫通ドアはだらしなく開けっ放しで男前台無しである。このDF50517~520は1958年新製当初から四国に配置され78~79年の廃車まで基本的に高知区から他区へ出ることがなかったのも珍しい。▼

DF50517を再度撮ろうと思い土佐山田でキハ58128の急行「あしずり3号」に乗り換え大歩危で降りて追い抜いた226列車を山間部で待つも現れたのはまたドア開けっ放しのだらしない姿のまま。諦めて次の急行「土佐5号」で阿波池田に向った。夕方の225列車高松発高知行きDF5012[高松]を撮影。この日は阿波池田で泊まった。▼

寝るまでの一仕事で留置線を覗いてみた。気動車や客車と並んでDF5017[高松]がいた。▼

翌28日も早朝の一仕事。7時11分着16分発のDF5027[高松]牽引高知行き221列車を撮る。これも乗務員扉は開けっ放しで急行「日本海」の牽引機も同じ体たらくだった。

阿波池田の後は予讃線の海岸寺-詫間の海辺で撮影。下り貨物をDF5041[高松]牽引を撮影。この頃の四国はDF50が貨物も牽引していた。正面の補強板は四国風のDF50であることを物語っている。何となくこのこの41号機はどこかで見たことがある。調べてみると1967年までは米子区配置で京都にも顔出ししていたので馴染みのある地元ベテランファンもおられるのではないか。▼

8月26日に高松に上陸し松山に向った後、伊予鉄西衣山で撮影中横を予讃線が走っているのを発見。松山~三津浜間を行くDF50[高松]牽引1122列車伊予西条行きを撮影。▼

保存蒸機の撮影で西村雅幸さん他皆さんから元国鉄総裁の十河信二さんの故郷伊予西条に北海道のC5744、新幹線0系、DF501等が保存されていることを教えていただいた。2017.7.26▼

本州のDF50が電化やDD51等後継機に追い出されて廃車された後も四国では最後の旅客列車や石灰石専用列車を重連で運用されていたことなど四方誠さんや1900生さんからも教えていただくまで知らなかった。本来私のようなずぼら何でも屋人間よりもDF50発表に相応しい方の方がよかったかなと思っている。

DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 」への25件のフィードバック

  1. 準特急様
    1987年4月1日に分割民営化されたJR四国は、翌年の1988年6月1日に線路名称からすべて『本』線を取り払いました。JR東日本の「東海道線」、「中央線」のような愛称名とは異なり、法的根拠となる国有鉄道線路名称およびJR線路名称広告に準拠した「国鉄・JR線路名称一覧」も改定されていますので「予讃線」、「土讃線」は、正式な線路名称となっています。

    1967年12月27日に予讃線に乗車している時に、ある駅で交換したDF50 19の牽引する貨物列車です。この駅が何処であるか記録がありません。右下の甲号距離標(キロポスト)に『92』と表示されていますが、ストリートビューで見ると現在の雰囲気とだいぶ異なります。四方誠様、どこの駅か教えてもらえませんか。

    • 1967年12月28日に後免を出発したDF91 1が牽く土讃線の上り貨物列車です。撮影場所は、現在の地図であれば「高知農業高等学校」の敷地から撮影しています。
      DF91 1のエンジンは川崎車輛がドイツのMAN社との技術提携によりライセンス供与を受け、1955年12月に川崎車輌兵庫工場で落成しました。翌1956年度から国鉄が借り入れDF40 1と命名され、1958年8月に国鉄が購入、1961年10月の称号改正でDF91形と改称されました。DF91 1の開発経験はDF50の500番台の先行試作車に継承されました。
      最初は車体前面が非貫通構造でしたが、DF50と重連運用時の乗務員移動の便を図るため1965年10月に貫通扉を妻面中央に設置した運転台構造へ改造されました。長らく高知機関区配置され、土讃線で暖房用蒸気発生装置がないため貨物列車運用を中心に使用されましたが、1975年2月28日に廃車となりました。

      • 快速つくばね様
        試作機DF911の写真、それも貴重な走行写真有難うございます。開発の経緯とSGがないものの長い間土讃線で貨物に充当されて一生を終えたようで一度見たかったと思います。

    • 1968年4月12日に「鬼無-端岡」間で写したDF50 56です。現在、予讃線は複線化、電化されていますが周辺の景色はあまり変化がないようです。

      • 快速つくばね様
        この辺りはEF65の特急「瀬戸」や各種電車を撮ったことがありますが、四国では列車密度の最も濃い区間ですね。単線で架線もない区間のDF50の写真は綺麗です。56号機も撮影された前年に米子からの転属組の1両ですね。

        • 快速つくばね様、準特急様、
          56号は、1968年3月28日付での移動ですので、高松生活が半月ほどしか経っていない頃のお写真です。その後四国スタイルへと改造され、1977年12月に高知の65号と交換となりました。
          貼付写真は高知区のDE10への形式改善に伴い、270レを牽引して高松へ転出する56号です(高知駅3番線、1983年4月3日撮影)。517号のお写真と比べると跨線橋が架け替わっています。

    • 快速つくばね様、
      ご指名いただき、恐縮です。
      お写真は、関川駅です。お写真向かって左側が1番線(本線)、同右側が2番線(副本線)で、2番線だけに旅客の乗降を目的としたホームがあり、1番線は通過列車用で、上下本線の区別できない駅でした。1961年4月15日に気動車用旅客駅として開設されており、急行「四国」号の運転開始と同日ですので、この列車のために交換設備を新設したものと思われます。
      1番線側には信号扱所のような建物がありましたが、ここで信号や転轍機のテコ、また通票閉塞器の操作をしていた駅員さんがいたのかと思うとワクワクしてしまいます。翌1968年10月1日のRC化(伊予土居駅長管理→私の持っているダイヤでは新居浜駅管理?)により駅員無配置となっていますので、よい時期に行かれたものと羨ましく思います。
      貼付写真は、反対の下り方から進入してくる192レです。(1983年5月2日撮影)

      • 四方誠様
        早速のご教示有難うございます。
        信号場を開設する時に、同時に旅客扱いをしたような駅ですね。最初から片線スルーで造られたようで、まるで新幹線の小田原や私鉄の複線区間に見られる中央がホームのない直線の通過線で副本線側にホームをつくった線形を半分切り取ったような駅ですね。
        甲号距離標(キロポスト)に『92』は、今回の投稿で初めて認識しましたが、お陰様で長年の疑問が解決しました。

        • 快速つくばね様、
          お役にたてたのであれば幸いです。
          気動車用旅客駅と言えば、棒線駅かつ短いホームが定番でしたが、関川は停車する客レがあるだけでなく、有効長が240mありましたので、貨物列車の待避(延長換算25車)なんてこともありました。
          同じスタイルの駅としては、JR化後に開設された大浦駅(貼付写真:2021年7月12日撮影)がありますが、こちらは有効長が短いようです。

  2. 準特急さま
    松山→高知間の移動は特急バスなんごく号でしたか?私は吾桑~斗賀野間でDF50重連貨物を撮影の後、佐川から路線バスで四国カルストを越えて松山入りしました。景色は良かったものの長距離・長時間で些か辛かった記憶があります。旧客や旧国なら何時間でも苦になりませんが。
    正面貫通や乗務員ドアの開けっ放しはだらしないと思われても仕方ないことですが、それほどまでに暑かったのではとも思います。後年現在の島本付近で盛夏に後部乗務員ドアが開いたままの485系上り雷鳥を撮ったことがあります。冷房付の電車なので恐らくは閉め方が緩かったのが途中で開いたのだと思われます。
    海沿いを走るのは見立海岸ですね。こういうのを撮りたかったですね。5~6年前にここでEF65貨物を撮っています。その65ももう走らなくなりました。
    ずぼらで何でも屋と仰いますが、とんでもない。準特急さまにとってはささやかな記憶でも、このように今拝見させて戴いている私にとっては貴重な記録です。たまたま重連貨物を知っていただけです。そう仰らずに引き続き貴重なお写真とご経験談をご披露賜りますようお願いします。

  3. 1900生様
    動画がご専門の1900生さんが写真等の貼り付けがなくても毎回このように素晴らしい(ある面私と年齢が近く思い出が共通するので素晴らしいのであり、もっと若い年代の方は何が素晴らしいのかようわからん爺同士のたわごとだと言われると思います)コメントをいただき嬉しく思います。正面貫通ドアの開けっ放しはだらしなく見えますし、撮影の価値が下がります。冷房のない時代の客車などの窓の開けっ放しはそれは当然の日常の姿です。話は少し変わりますが、昔は車両基地などでも機関車やその他の車両を撮ったものですが、正面順光で車体に電柱などの影がないことが望ましいですが、先輩からは蒸気機関車はロッドの位置、客車ならドアが閉まっていることなどの注意を受けたものです。機関車のだらしなさには昔の順法闘争などで大きく書きなぐったのが来たらアウトでした。最近は、広告費稼ぎか特に地方私鉄では企業や学校の車体を覆うような宣伝広告などの車両も多く撮影には興覚めでどうしても撮りたかったら逆光シルエットしかないです。話は戻りまして1900生さんという芸名は当然当時の関西の優秀な車両からきておりその空気バネ台車の研究も見事なものでした。その後のJR車輛ではない国鉄型車両やダイヤの研究も凄いものです。こういうことなら専門性も育つと思いますが、西も東もあれもこれもやっていると専門性は一向に進まず撮影した写真の洪水でそれはしょうがないです。それから松山から高知へは「なんごく号」かどうか忘れましたが景色がよくこの辺りは四国の軽井沢と呼ばれるとガイドされた記憶があります。

    • 準特急さま
      こうまで言われるとお褒めか揶揄か、準特急さまを良く知る者としては些か迷いますが、ここは勝手にお褒めの言葉と理解させて戴き、今後のコメント投稿の励みにしたいと思います。
      SL末期のテンダー等へのラクガキはヒドかったですね。クラブ内で「落書きSLに石を投げる会」結成の動きがありましたが、設立されればぜひ入会しようと思っておりました。当時の先鋭組合の活動はこのラクガキや順法闘争などで国民の支持を失っていき、JR化への一因になったように思います。
      最近は撮影地でご一緒する若い方の殆どが連写されますね。当時の常紋では速度の遅い登坂貨物でさえ、望遠レンズを取り替えているうちに通過して行ったことがあり、悔しい想いをしたものでした。デジタル化でカメラの性能が良くなったのが大きいと思いますが、我々の時は先輩から「腕を上げようと思ったら一発必中に徹するように。数を稼いでその中に良い物があるだろうではいつまで経っても上達しない」と指導されたものでした。SLの動輪位置や客車のドアも言われましたね。もちろん電柱や電線の影なども。当時は息苦しく思ったもので、以来小生は形式写真から遠ざかりました。動画はその点いくらか楽で、パンしたり対象が動いていることでそう苦にならないと考え、それが動画に嵌る要因の一つになったのではと思っています。また最近の無機質と思う車両の氾濫から、国鉄型原色車を追いかけるようになったと思えます。
      調子にのって長文になりました。

  4. 準特急様、
    今回は四国のDF50のお写真、ありがとうございます。
    私にとっても思い入れのある地ですので、じっくりと拝見させていただいている間に、少し時間が過ぎてしまいました。
    1枚目の517号とほぼ同じアングルの写真を見つけましたので、ご笑覧ください(282レ、1983年4月1日撮影)。1983年9月25日の「さよならDF50土佐路号」の実質予備機でした。
    また、517~520号はお書きのようにほぼ同じ履歴を辿ってきましたが、519号のみ高松の車と交換した時期が2年ほどありました。お相手は4枚目のお写真の27号です。局内の移動は公報に掲載されず、なかなか掴みにくいものです。
    1枚目の517号のお写真と貼付の写真を比べてみると、ホームの高さが低く、ブレーキシリンダーの検査日を記録しやすそう、と思ってしまいました。この高さなら、普通にしゃがんで確認できそうですが、ホームの高さが高い駅では、スカートの中を覗きこんでいるような姿勢で確認しておりましたもので。(きっと周りの人からは、変態と思われていたのだろうと思います。まぁ、十分変態なのですが。)

    • 四方誠様
      四国もほんのわずかな訪問で、あまり見られた写真ではありません。ブレーキシリンダーの記録などどこにあるのでしょうか。スカート覗きで思い出しましたが、よく形式的写真を撮る時に熱心な撮影者は腰をかがめて低位置から撮っていましたが、口の悪い仲間はその姿をババたれ腰と呼んでいました。長い間お付き合い願いましてありがとうございます。もうあと1回で終わりです。それはDF50では忘れられない路線です。もうしばらくお待ちください。それからお撮りになった遠くに見える丸亀城バックの橋梁を行くDF50は忘れられない1枚です。

      • 準特急様、
        ブレーキシリンダの検査日の日付ですが、保存車両の写真ですが、貼付いたします。
        上の写真は、準特急様も行かれておられる「四国鉄道文化館」の1号です。保存に際し「年月」のみの標記に書き換えられたようで、現役時代は「57-11-5」と日付まで記載されていました。枕バネのオイルダンパにまで記入されていたかまでは記憶にありません。ちなみに、2E機関士席側窓下の全検標記も「57-11」と書き換えられており、これは要検なので明らかな間違いです(現役時代は「55-3」)。
        また、下の写真は大阪市東淀川区にある菅原天満宮に保存されている4号のもので、ハイフンがピリオドになっていますが、日付まで記入されています。但し、全検日なので、54.7.30の要検日が正解のはずです(オイルダンパは54-7となっています)。
        津山の18号も含め、ツッコミどころが少なくないのが残念なところです。
        ちなみに、台車側バリに取り付けるスタイルの180×130SOシリンダは、DF50が嚆矢のようで、その後の電機でも採用されています。
        最後になりましたが、あと1回と仰っておられますが、1900生様も仰っておられるように貴重な記録ですので、是非とも続けていただきたいと思っております。若輩ものですが、僭越ながらコメントを通じてフォローできるところはしてまいりますので、どうかよろしくお願いいたします。

  5. 2枚目の阿波池田駅に進入する225レも懐かしいです。左側の側線は、専売公社への専用線ですね。
    機関車次位の南トメのマニは、1982年3月2日からオハ50系化に伴い連結位置が最後尾に変更されています。
    私からは逆光で少し見苦しいですが、場内信号機反対側からの写真を貼付いたしておきます。(282レ、1983年2月28日撮影)

    • 四方誠様
      古い人間には南トメはピンときませんが東トメですね。場内信号機を大きくとらえる手法もいいですね。私などこういう写真が撮れずに育ちましたので羨ましい限りです。阿波池田はその昔DRFC旅行で高松からDF50列車に乗り、始発のC58列車で徳島に向うまで朝食をとったところです。有難うございます。

  6. 準特急様、
    さて、3枚目の17号です。お写真は1Eで、前面補強がなく、操車掛用手摺が大型に変更されています。2Eは、前面補強があり、操車掛用手摺は小型のままで、前後で顔が違うと話題になりました。ちなみに33号も操車掛用手摺は17号と同様で、両Eとともに前面補強がありました。参考までに、17号の写真を貼付いたしておきます(高知機関区、1981年3月20日撮影)。

  7. 4枚目の27号、ツリアイ管がないので驚きましたが、調べてみますと準特急様が撮影後の昭和52年11月の全検時に改造されたようです。
    貼付写真は、石灰仕業を終え高知区で給油中の27号です(1981年9月12日撮影)。

  8. 準特急様、
    しつこいと思われそうですが、あと2枚について。
    5枚目の41号、お書きのとおり高松転入前は米子で、昭和37年4月の第13回国土緑化大会(後の植樹祭)の際のお召し列車牽引機です(49号との重連)。お写真の1E妻面の貫通扉の手摺りが大きく、操車掛用手摺、側扉手摺とともにボルト止めとなっています(2E妻面は、重連のため見えないことから製造当時のままです)。同様の改造が48号と57号に見られ、2両とも予備機だったのではないかと思っています。
    6枚目の西衣山の1122レは、55号のようです。
    貼付写真は、お召し仕様が少しでもわかりやすいかと思い、阿波池田駅5番線(4番のりば)に停車中の225レ先頭の41号のアップです(1980年9月1日撮影)。

  9. 四方誠様
    四方誠様
    しつこいことはありません。DF50を各地で撮ったものを発表しただけで四方さんとは非常に親しい関係になったような気がします。ブレーキシリンダーの記録はよくわかりました。最近知り合った私の若い友人で西武の台車だけ研究している人に出会いました。台車にも番号が読み取れるそうです。伊予鉄西衣山で撮ったDF50は高松の区名はよく読み取れるのですが番号がはっきりしません。55号でしたら米子時代山陰線で撮っています。どうして55号とわかるのでしょうか。C55やC57は各地で改造されたり独特の装備でおよそ何号機かはわかるものですが、DF50はそれに比べて変化が少ないように思われ判別は難しいです。ところで5枚目の四国の海辺で撮った山陰時代にお召しに使われた41号も梅小路区で撮っています。鉄道ピクトリアルのDF50に掲載されたものを再度貼り付けます。

  10. 準特急様、
    「非常に親しい関係になった」とは恐縮です。私も準特急様を、遠い大先輩の存在から近しい先輩との認識に変化しており、それだけに失礼なコメントを書いていないかと少し不安になります。
    台車の銘板を研究されている方がいらっしゃるとのこと。現車から調査されているのであれば、塵埃で読みづらく、ご苦労がしのばれます。
    機関車の場合、車体も台車も同一メーカで製造番号も同一なので面白味は少ないですが、電車であれば台車メーカの番号でしょうし、台車の振替や、地方私鉄への移籍などが追っかけられ、面白いかもしれません(かなり大変でしょうけど)。
    貼付は、保存中の4号第1台車の銘板です。ハイフン左側の3桁数字は車体と同一で、ハイフン右側の数字が台車の位置(1E側からの連番)になります。従って、中間台車はDT103で台車形式が異なりますが、製作番号は937-2となります。4号の台車とも37のあたりが打ち直したように見え、937ではなく実は940(7号)なのではないかと疑っています。
    ちなみに、長浜鉄道スクエアのED70 1号は、1E側が15号の2E側台車、2E側は4号の2E側台車を履いています。
    梅小路の41号の写真も、お召しの際に2Eは手をつけていないことがわる貴重な記録写真です。四国のDF50には悪いのですが、私は実は米子のDF50から入った口なので、スノープラウをつけた姿が一番好きです。甲燃料タンクの油面計のフタが開いているのもお茶目です。

    • 四方誠様
      その台車の番号に集中されている方は番号も記録されており近江鉄道などにも出かけるそうですが、台車のたらい回しなどに興味を持っているそうです。電車が来ると台車と連結器を中心に撮っていました。こういう特殊な方(趣味のジャンルの少数派)は今迄一人だけいたそうです。スカートのぞきじゃないですが、ホームから撮るとよく撮れないと悩みを打ち明けてくれました。わたしたちの時代は客車区や私鉄の車庫に行くといい位置で台車も撮れたものでそのことは彼は羨ましがっていました。

  11. 準特急様、
    続けて、55号の謎解きです。
    ①製造銘板中央部に三菱のマークらしいものが確認できます。漢字2字(日立、川崎、日車)ではなく、汽車・東洋でもなさそうなので、三原製と判断しました。
    ②アフタークーラーが新型ですので、48号以降と判断しました。
    ③第1エアフィルターが、タブレット防護板下部のあたりまである大型の防護柵(56号以降)ではないので、55号以前と判断しました。
    これで、亀山の49、53、54号を除く48、50~52、55号の5両(A)に絞れます。
    ④ブレーキ装置改造車は、左側(電車でいう②-④側)にブレーキ管、元ダメ管、釣り合い管の3本(私の推測ですが)の引き通しが上下に並んだ状態となりますが、そうではないため、Sulzerで未改造は55号か65号の2両(B)のいずれかとなります。
    結果、AとBを満足する55号ということなります。
    ⑤のSG煙突は、直接の判定因子ではありません。Aでは51号のみオリジナルの逆台形の煙突となっており、これで少しずつ絞れるかと思いましたが、結局④で決定打となりました。
    ④の追加情報ですが、改造車のうち17号のみ、空気管3本の引き通しが右側(電車でいう①-③側)にありました。右側にあるべき急動弁も左側にあり、前後の顔の違いだけでなく、空制配管も床下については左右が入れ子になっていました。

    • 四方誠様
      いろいろチェックポイントがあるのですね。詳細に見れば40年も経過すると各所に変化が出てくるのはDF50だけではないと思いますが、そいう目で今まで接してこずただボーと線路際で写してきた結果の寄せ集めです。余命があまりないことはわかっていますが、これを機会に少しは勉強してみたいと思います。詳しいご説明有難うございました。

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