昭和46年の北陸鉄道浅野川線


クハ1651+モハ3011 46年3月21日 蚊爪

前回の金石線に引き続き、昭和40年代の浅野川線の状況について報告する。金石線は、ほぼモハ3000形で固められていたが、こちらは車両の転出入が激しいため、昭和46年3月時点での状況で報告する。特に同年7月11日加南線廃止後、大幅な車両の動きがあり、今回取上げた元遠州鉄道(車体のみ)のクハ1601、元国鉄のキサハ04のクハ1650形が姿を消した。

【沿 革】
前身は大正13年1月に設立された浅野川電気鉄道で、大正14年5月七ツ屋~新須崎(蚊爪~粟ケ崎間に存在し昭和36年6月廃止)5.3㎞を開業、同15年5月金沢駅前(現北鉄金沢)~七ツ屋間0.8㎞開業、昭和4年7月新須崎~粟ケ崎遊園前(現内灘)~粟ケ崎海岸間2.4㎞間を開業した。同社により砂丘開発の一環として粟ケ崎に大規模なレジャー施設が建設されたが、戦争のため軍部に徴収の上、軍隊の宿舎等に転用され閉鎖されてしまった。戦争末期の昭和20年2月粟ケ崎遊園前~粟ケ崎海岸間1.8㎞間が廃止(昭和27年7月に復活して海水浴シーズンのみ営業したが、昭和49年7月再度廃止)昭和20年7月20日北陸鉄道と合併して同社の浅野川線となった。
平成8年12月8日架線電圧を600Vから1500Vに昇圧して、従来の車両を元京王電鉄3000系改造の8000系に置換え、同時にワンマン運転を開始した。平成8年3月28日、金沢市の都市計画の一環として北鉄金沢~七ツ屋間が地下化された。

【昭和46年3月の状況】
当時から現在まで北陸鉄道各線の中で最も業績が良く、M車に関しては比較的車齢の若い車両が集められていた。運転間隔は朝夕ラッシュ時ほぼ20分、その他の時間帯は30分間隔で運転され、20分間隔の時は3列車、その他の時間帯は2列車使用されていた。この辺りの状況は現在もほぼ同じである。編成はMc+Tcの2連が基本で朝ラッシュ時は2本にMcが増結され3連となった。乗客が多い理由は沿線人口もさることながら、バス路線が並行するのは2つ目の上諸江までで、その先終点内灘までは競合がないことが挙げられる。市内中心部香林坊から内灘を経由して七尾線の宇野気方面に行くバスが1時間に1本程度(現在は更に運転間隔が開いている)あったが途中経路が異なっている。余談になるがバスの方向幕は「宇ノ気」と表示されていたが、現在はJRに合わせて「宇野気」と表示されている。正しい地名は「宇ノ気」である。
北鉄金沢と内灘の間に途中駅が10カ所設置されており、当時「割出」と「蚊爪」が交換駅であったが、現在は「三ツ屋」1カ所である。

【車 両】
昭和46年3月時点での車両は、電気機関車1両(EB221)、電車11両(モハ3010、3201、3301、3551、3561、3563、5101、クハ1001、1601、1651、1652)であった。同一形式が複数両存在しているのは、モハ3560形とクハ1650形が2両のみであとはすべて1形式1両であった。

1)電気機関車
EB221(形式EB22)
小松線の前身白山電気鉄道デ3→北陸鉄道モハ503が化けた電気機関車である。デ3はデ1、デ2と共に白山電気鉄道開業時に昭和3年新潟鉄工所で新製された木製4輪単車である。当件については、湯口先輩が「【9997】北陸鉄道2」で、モハ501、モハ502の画像と共に解説されておられるので、今一度お読みいただきたい。
一旦荷物電車モヤ503となり、加南線に転属し、昭和36年に電気機関車に改造された。昭和43年に浅野川線に転入して北鉄金沢駅構内にあった工場引込線の国鉄貨車の入換えに使用されていたが、昭和47年4月貨物営業廃止により廃車となった。

 
 
(42-3-21
 山代/浅野川線での画像がないため加南線時代を貼り付けた)

2)電車
前述の通りモハは3560形の2両以外は1形式1両、クハも1650形の2両以外は1形式1両であった。
モハ3011(形式モハ3010)
昭和33年日本車輌で新製され石川総線に配置された。主要機器は他車からの流用品であったが自動制御器を持っていた。昭和39年にモハ3000形(3001~3005)と共に金石線に転属したが、予備車的存在で後年主電動機を取り外してクハ代用となっていた。昭和45年HL制御器を搭載して再電装され、浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。

 
46-3-21 蚊爪)

モハ3201(形式モハ3200)・クハ1001(形式クハ1000)
昭和32年、後述のクハ1001と共に日本車輌で新製され加南線に配置され、モハ3201+クハ1001の整った編成で使用された。主要機器も新製されたが他車との互換性を重視してHL制御器を装備した。昭和39年にクハ1001と共に石川総線に転属したが、制御器の違い(石川総線は間接自動制御)から朝夕ラッシュ時以外は休んでいることが多く稼働率は低かった。昭和43年モハ3201が、翌44年にクハ1001が浅野川線に転属となり、再び2連を組むことになった。モハ3201はパンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉設置、クハ1001は片運で運転台側非貫通で、最後までこのスタイルであった。

 


(
モハ3201+クハ1001 46-3-21 蚊爪)


(モハ3201の非パンタ側 
42-3-20 新西金沢)

モハ3301(形式モハ3300)
前述のモハ3011と共に昭和33年に日本車輌で新製され金石線に配置された。金石線は軌道法が適用されるため、連結運転時に全長が30m以下にする必要があり、モハ3011より車長が600mm短く、扉間の窓が1枚少なく5枚となった。機器類は新品で自動制御器を装備した。昭和39年モハ3000形投入により加南線に転属、更に昭和44年制御器をHLに換装して浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。
1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り、平成10年に廃車になったが昇圧改造はされていないので自力走行は不可能であった。

 
46-3-20 内灘)

 
(加南線時代 
42-3-21 山代)

モハ3501(形式モハ3500)・モハ3551(形式モハ3550)
モハ3501は昭和36年、モハ3550は昭和37年にそれぞれ日本車輌で新製され浅野川線に配置された。貫通扉は当初から両側に設置されていた。車体の仕様はほぼ同一であるが、モハ3501は、主要機器は新品で自動制御器を装備、モハ3551はモハ850形の廃車発生品を流用して作られ、HL制御器を装備した。モハ850形は元飯田線の辰野~天竜峡間の前身である伊那電鉄の買収車で最後は富山港線で使用後、昭和29年に北陸鉄道が購入した木製車で2両在籍した。
モハ3501は昭和39年に加南線に転属したが、昭和46年7月11日同線の廃止により浅野川線に復帰、その際にモハ3570形3571(昭和36年元遠州鉄道モハ13の車体を利用して自社で製作)の廃車発生品を利用してHL化した。
一方モハ3551は新製以来浅野川線に所属し、頻繁に転属が行われた同社では珍しい存在であった。
モハ3501は46年3月時点では加南線の所属であったが、元々浅野川線用として新製され、同線廃止後復帰したので時期のずれはあるがここで取上げた。

 
(加南線時代 
42-3-21 山中)

モハ3561・モハ3563(形式モハ3560)
加南線の前身、元温泉電軌から引継いだモハ1800(昭和17年木南車輌製)→モハ1831とモハ1810形(昭和18年木南車輌製)を昭和37年にHL制御化の上、前面に貫通扉を設置したもので、経歴はモハ1813→モハ3561、モハ1803→モハ1831→モハ3563である。モハ1801→モハ3562も在籍していたが、昭和45年に再度加南線に転属した。モハ3563はモハ3301と共に1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り平成10年に廃車になった。 

 
(
モハ3563/46-3-21  内灘)

モハ5101(型式モハ5100)
昭和26年広瀬車輌でモハ5101~5103の3両が新製され、石川総線に配置された。 HL制御器を持ち、戦後製の新車として活躍していたが、車両の間接自動化が進められた結果、次第に第一線を外れ、昭和44年モハ5101が浅野川線に転属した。石川総線に残った5102と5103は昭和46年に間接自動式の制御器に換装されモハ3761、3762に改番された。(こちらは石川総線で解説する)

 
46-3-21 七ツ屋)

クハ1601(型式クハ1600)
元遠州鉄道のクハ51の車体を昭和37年に日本車輌経由で購入して自社で改造した。遠州鉄道クハ51は同形のモハ13、モハ14、クハ52と共に昭和23年日本車輌で新製され、車体は運輸省規格B`形であった。昭和36年にモハ13+クハ51、モハ14+クハ52の機器を流用してモハ38+クハ86、モハ14+クハ52が製作され、車体のみ北陸鉄道で再起し、モハ13→モハ3571、モハ14→クハ1602、クハ51→クハ1601、クハ52→クハ1603となった。一時は4両共浅野川線に配置されていたが、クハ1601を除き加南線に転属した。(クハ1601の写真がないため加南線転属後のクハ1603を貼りつけた).

 
(クハ
160342-3-21 山代)

クハ1651、1652(形式クハ1650)
元国鉄のキサハ04101、102を昭和36年に購入してサハ1651、1652として使用し、翌37年に運転機器を取付てクハ1651、1652となった。ハ化の際、運転台側正面窓の3枚窓化、非運転台側の貫通化、乗務員扉の取付け等が実施された。
経歴は下記の通りである。
キハ41040(昭和9年日本車輌)→キキサハ41800(昭和25年新小岩工場)→キサハ04101(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1651→クハ1651
キハ41041(昭和9年大宮工場)→キサハ41801(昭和25年新小岩工場)→キサハ04102(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1652→クハ1652

 
46-3-21 蚊爪)

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