関西の蒸機を巡る  ~小浜線~  ③

小浜線の続きです。小浜で一泊して、二日間の撮影を終えます。結局、賑わいを見せる小浜線の夏も、朝夕に涼しさを覚える頃、臨時列車も運転を終えた、この1回だけの訪問に終わり、その2ヵ月後の昭和46年10月の改正で、C58はDE10に置き換えられます。

“若狭富士”こと青葉山をバックに加斗に進入する977レ C58 171[敦一]

 

 

 

 

勢浜の丘の上から海を入れて撮ったあと、駅近くで973レを撮影。C58 195[敦一]の牽引。小浜へ戻ると、C58195がまだ停車中。

いったん小浜へ寄ったあと、二つ西の加斗へ行く。交換する921レを撮影、C58 222[福]の牽引。加斗にも、勢浜と同じような俯瞰できる場所があり、そこからSカーブを下って来た6974レを撮影、C58 278[敦一]の牽引。

同所からも若狭湾をチラリと入れて撮ることができた。938レ C58 223[福]加斗から西へ歩くと、湾に沿って線路がカーブしている。C58 171[敦一]の977レが到着するが、信号が停止を現示、機関士は身を乗り出して、信号を確認していた。さらに若狭本郷へ移動、水田のなかをカーブして行く923レ  C58 263[西] 若狭本郷~若狭和田

 

 

 

 

 

若狭本郷に到着の924レ C58 222[福]牽引、この日の撮影を終えて、舞鶴、綾部経由で帰宅した。若狭高浜で交換の937レ C58 223[福] 背後に青葉山が見えている。

撮影時の小浜線ダイヤ、赤線が蒸機牽引の旅客、貨物。臨時の貨物も運転中で、そこそこの本数が稼げる。適度に分散しているから、DCで移動して、各所で撮影ができた。

別の日の撮影で、小浜線の西端、東舞鶴~松尾寺には、連続10‰勾配が続き、一部の旅客には西舞鶴のC12が前補機として使われていた。C58オンリーの小浜線で、唯一、ひと区間だけ異形式の蒸機が入っていた。923レ

小浜線は、この撮影からすぐの昭和46年10月に蒸機は消えました。そのあと、足は遠のきましたが、一度だけ、カラフルな夏の臨時列車を写しに行ったことがありました。その様子を、以前の本欄に載せていました。

Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑨ | DRFC-OB デジタル青信号

 

 関西の蒸機を巡る  ~小浜線~  ③」への28件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    若狭高浜は1966.4.30に狂化合宿で行っています。夕方、高浜駅付近でC58171[敦賀一]牽引のみっともない短編成の貨物を撮っていました。バックが青葉山ですか。

    • 準特急様
      バックは青葉山ですね。標高は691mですが、独立した山で、若狭和田、高浜あたりからは、よく見えました。

  2. もう1枚。その合宿の夕食前の状況です。今でもデジ青に登場している人は誰でしょうか。

    • 準特急さま
      私の入会前の写真ですが、どこかで見たことがあります。たしか、南孝雄さんが亡くなられて、その追悼文を「青信号」に載せた時に添えられた写真でした。

  3. 一泊二日の日程で、これほどの作品をモノにされていたとは驚きました。小浜線はC58しか走らず本数も少ないと思っていましたが、魅力に富んだ路線だったのですね。加斗と若狭本郷は背景に青葉山が入る場所として、1990年代末期に鉄道誌で紹介されていました。
    若狭本郷のカットに見える「稲架木」は、若狭地方によく見られた形態ですね。以前『どですかでん』様が投稿された勢浜の名作を思い出します。
    自分が訪れた撮影地をグーグルで辿ってみましたが、高速道路の開通ですっかり様変わりしていました。東美浜などはインターチェンジが出来て、よく行った撮影地には近づけなくなってました。介護施設ができたり、樹木の成長でかつての撮影地では撮れなくなったところもあります。路線の存続さえささやかれてますが、鉄道ファンはともかく、沿線の住民にとって暮らしやすくなったのか、考えさせられます。
    蒸機時代は私にとって小浜線は遠く、一度も足を踏み入れておりません。ただ、ダイヤ改正を目前に控えた昭和46年9月、西舞鶴機関区へ行った時に小浜線から来た972列車を写してました。C58 171の次位にはDE10がつき、いよいよ無煙化の近いことを思わせました。左の線路は西舞鶴港へ伸びる臨港線ですが、撮影時には何も知りませんでした。

  4. 総本家青信号特派員様、
    西舞鶴のC12が松尾寺まで出張っていたとは知りませんでした。10‰上り、旅客列車ということを考えると、補機というよりは松尾寺駅入換用の送込みだったのではないかと思うのですが・・・。松尾寺駅の配線図(1979年ですが)を見ますと、決して前補機を解放するのに都合よくできている訳でもなく、何故前補機だったのだろうか、日本板硝子まで乗り入れていたのだろうか、あるいは帰りは?、など五月雨式に疑問が湧いてきます。もし、このあたりご存知でしたら、お教えいただければ幸いです。

    紫の1863様、
    小学生の頃、お写真手前左側の田辺城公園や踏切から、この臨港線を引き上げ線代わりにC12が入換をしている光景をよく見ました。また「わかさ」が「丹後」に併結前、お客さんを乗せたまま引き上げ停車していたのが、子供心に不思議でしようがなかったことも思い出しました。この臨港線の終点「舞鶴港」駅は1966年に改称されたそうですが、駅舎は「海舞鶴」の表示のままだったように記憶しています。臨港線跡地は国道27号まで、歩行者・自転車道として整備されています。4年ほど前の臨港線跡地の写真を貼付いたしておきます。

    • 松尾寺駅でC12がぶら下がった貨物列車を見ています。補機だったのか、回送なのか?
      この時、日本板硝子の専用線の列車を見ていますが、
      C12が入線するのではなく、専用線の小型DLがその任にあたっていました。

      • 乙訓の老人の甥様、初めまして。叔父上には、レイルロード社の「国鉄DF50」出版に際し、お世話になりました。
        やはり、専用線にまでは入っていなかったのですね。DF50はズカズカと専用線に入っていったものですから、もしやと思った次第です。これからも、いろいろとご教示いただければ幸いです。

    • 四方誠さま
      乙訓の老人の甥さま
      紫の1863さま
      いつもコメント頂戴し、ありがとうございます。松尾寺の専用線やロコのことは気になっていましたが、私はついに現役時代に接することができませんでした。お3人から、有益な情報を聞かせてもらいました。西舞鶴区のC12は、西舞鶴、東舞鶴の入換、西舞鶴~東舞鶴の白鳥峠(25‰)の補機運用と、写真のような、東舞鶴発の小浜線の列車の補機としても使われていました。ただ勾配は10‰程度で、C58単機でも十分なところを見ると、主目的は、松尾寺での貨車の授受だったと思います。撮影したのは17:51発の937レですので、受け渡しの最終だったのでしょうか。

      • このDLと酷似した機関車が、鉄道ファン288号に載っています。ナンバーは「モモ-W-1-5」で、日通桃山支店の所属です。1982年に向日町駅の南にあった石油基地にいたようです。日本車輌で昭和45年に製造された25トン機と、著者の岩堀春夫さんは記しています。
        松尾寺にいたDLには日通舞鶴支店と「マイ-W-1-7」の標記があります。銘板も日車のようで、同型機ではないかと思いました。

        • モモ-W-1-5の写真がありましたので、貼付いたしておきます。西舞鶴駅同様、入換風景は飽きもせずに見ていられる変な人間でしたが、写真を撮ったのはこの日だけだったと思います。(1980年5月24日)

        • 四方 誠様
          向日町で撮影されたのでしょうか? 私はこの手の車輌に関心が無く、カメラを向けなかったことを深く反省しております。
          データが「世界の鉄道'70」に載ってました。マイ-W-1-7は昭和43年日車製の25トン機で、日車での形式はDB25Gでした。全長7350ミリ、全幅2782ミリ、全高3648ミリ、動輪直径860ミリで、エンジンは日野のDA59A2最大出力200PSを搭載し、最大運転速度は20km/hでした。
          ちなみに一日の運行回数は8回と記されています。

          • 紫の1863様、
            仰せの通り、向日町駅です。南側に大きくはなかったですが、石油基地(日石?)があり、北側には大阪セメントもありました。上り方にもキリンビール(昔のタカラビール)や自衛隊があったので、DLがいたと思うのですが、そちらは何故か記憶にありません。入換の光景は好きで、よく見ていましたが、メインは夕方の園部行きや21時過ぎの「山陰」号でした。これらの写真を残していれば、と私も少し後悔しています。

    • 四方様
      おっしゃるとおり田辺城公園の横です。左手に見える「キハ4」の標識は、引き上げ作業をする気動車の停止目標だったのですね。長年疑問だったのですが、すっきりしました。
      舞鶴港までの列車は5往復があったようです。

  5. 資料によって異なるのですが、鉄道ピクトリアル誌の1971年5月の臨時増刊号「71年初の日本の蒸気機関車」によりますと、C12の東舞鶴-松尾寺間の運用は4往復が載っています。貨物列車の後部にぶら下がって行く運用は朝の7時台と、昼過ぎの二つがあります。昼過ぎの列車を例に挙げると、東舞鶴発14:20の977列車(本務機はC58)で、松尾寺には14:35に到着します。ここでC12は切り離され、折り返し15:35発の996列車となって東舞鶴に15:45に到着します。
    日通のDLが日本硝子から引いてきた貨車を受け取り、東舞鶴へ戻ったようですね。もっとも、松尾寺で多少の入換があったかもしれません。
    ところで日本硝子工場への専用線ですが、元は海軍の火薬工場への引込み線だったようです。1943年12月21日、第三海軍火薬廠鉄道側線として6.8kmが開通しました。10年ほど前になりますが、舞鶴の火薬工場へ勤労動員で働いていたという、昔の女学生の話を聞いたことを思い出し、調べてみるとアタリでした。火薬工場は戦後舞鶴市が払い下げを受け、臨海部に日本硝子を誘致したとネットに出ていました。出荷のピークは1968年で、板ガラスだけでも20万3千トンあったそうです。
    乙訓の老人の甥様の写真の右端にワム581016が見えます。板ガラス専用車のワム581000形の一両で、常備駅は松尾寺でした。
    これで全てが繋がり、すっきりしました。それにしても、貴重な記録を中学生時代に収められた乙訓の老人の甥様にはかないません。
    総本家青信号特派員様が撮影されたC12が前に着いた列車は、資料が無くわかりませんでした。

    • いつも詳しい解説をありがとうございます。
      私のC12は977レが松尾寺に到着した時のものです。舌足らずで申し訳ございません。

    • 皆さんから、あちこちに飛び火しながら(?)有益な情報をいただき、嬉しく思ってます。私も調べますと、C12の補機は小浜線が唯一との記述もあり、さらに鉄道雑誌の編集をされているMさんからは、「C12アタマの補機は珍しいです」とメールがありました。さらに、別の鉄道趣味団体の会誌を読み返していますと、紫の1863さんと同じM高校出身のKさんが、松尾寺のルポ記事を書いておられ、C12の運用も載っていました。Kさんの記事を見ても、C12は後補機だったと書かれていて、事実、松尾寺での入換作業を考慮すると、後補機が適していると思うのですが、前補機は貴重な例ですね。

      • 総本家青信号特派員様、
        前付きC12のお写真は、実は西舞鶴駅ではないでしょうか。東舞鶴駅はあまり記憶になく、よくわからなかったのでネット上で配線図を見ますと、どうもそのようにしか思えないのです。西舞鶴~東舞鶴1駅間の前付きであれば、西舞鶴での連結、東舞鶴駅での解放ともに、違和感なく見れます。いずれにしましてもC12の前付き重連の写真が貴重であることに変わりはないのですが、何かモヤモヤするのでコメントさせていただきました。

  6. 撮影場所が西舞鶴なら、全て丸く収まります。
    昭和45年10月改正のC12の運用は

    西舞鶴17:31⇒東舞鶴17:42 937列車 前補機の位置
    東舞鶴19:00⇒松尾寺19:15 993列車 本務機
    松尾寺19:36⇒東舞鶴19:46 998列車 本務機
    東舞鶴22:29⇒西舞鶴22:44 978列車 後補機の位置

    上記のようになります。
    補機というよりも、これは回送ですね。総本家青信号特派員様がお書きの通り、この日最後の受け取りに向かうところです。
    西舞鶴と東舞鶴間の移動は、937列車以外は全て列車の最後尾です。何か特別な事情があったのでしょうか、しかし、これだけは読み取れません。

  7. 四方誠さま
    紫の1863さま
    鋭いご指摘、ありがとうございます。もう一度、ベタ焼きのアルバムと乏しいメモを照合しました。別の日に東舞鶴で撮った写真と入れ違えていました。C12の前補機を付けた撮影地は、四方さんご指摘どおり西舞鶴でした。937レがC12の前補機を付けて、白鳥峠に向かうところです。紫の1863さまの運用どおりです。皆様には、お騒がせしました。誤記の指摘があるのも、よく読んでもらっている証拠と、前向きにとらえ、かすかな記憶を頼りに今後も投稿を続けます。また、きびしいご指摘お願いします。

    • 西舞鶴のC12は入換くらいだろうと思っていたのですが、5両もの配置は多すぎないかと疑問を感じてました。あちこちの支線や側線に乗り入れ、東舞鶴-松尾寺間の貨物列車を引いていたとは、正直言って知りませんでした。白状すれば日本硝子の専用線の存在も知らず、おかげさまで良い勉強が出ました。
      余談ついでに、小浜線のダイヤを見ていると敦賀-東美浜間にも貨物列車があって、こちらも調べると面白いですよ。

  8. 総本家青信号特派員様、
    紫の1863様、
    お二人の大先輩方には、私のモヤモヤのためにお手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。おかげ様で、スッキリいたしました。
    937レが前付となったのは、その前に駅下り方で入換をしていたためではないかと思われます。出区直後であれば当然後付のところ、そうならなかったのは、そうとしか考えられません。東舞鶴駅着後は、そのまま引き上げ線(昔の軍関連施設(現日本板硝子?)の専用線跡らしい?)に引き上げ、937レ発後に1番線を使って機回ししたのでしょう。
    総本家青信号特派員様のお写真を改めて見てみますと、煙の違いから力行はどう見ても次位。もしかするとブレーキも・・・、とよからぬ想像をしてしまいます。

    • 私はいたってヒマ人ですので、おかげさまで良い頭の体操になりました。
      973列車の前についたC12は3:59に西舞鶴区を出区し、東舞鶴を起点に松尾寺を往復した後に中舞鶴へも足を延ばします。午後にも松尾寺を2往復し、976列車の後補機で西舞鶴に戻ってきます。西舞鶴の到着は17:25で、937列車の発車までは6分しかありません。976列車の後補機の位置は、西舞鶴駅の北側にあたり、937列車の後ろに回るより前の方が近いですね。前補機になったのは、短時間で付け替える必要があったからではないでしょうか? 
      この運用は出区から帰区するまで18時間30分もの長丁場です。給水給炭はどうしたのだろう?、乗務員の交代は?など、考えれば考えるほど深みにはまりそうです。

        • 紫の1863様、いろいろとお教えいただき、ありがとうございます。
          976レ~937レの6分は、かなり厳しいですね。当然ブレーキ試験もできず、ブレーキは次位機頼みで、非常時は吐出し弁対応、運転取扱基準規定を都合よく解釈して最高速度45km/h、てな感じですか。そもそも何故戻ってきたのか理解に苦しみます。仰せのようにC12のような小さなタンク機が持つのか?とも思ってしまいますね。
          中舞鶴への入線もびっくりです。行ったら最後、推進で戻ってくるしかないと思うのですが、どうしていたのでしょう。営業列車ではなく、マヤ車の牽引とかだったら理解できるのですが。

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