街並みとともに ~京都のバス~  〈12〉

京都駅前、烏丸通で市バス全盛時代を見る

性懲りもなく、京都市バスの思い出を綴っていますが、ふと、市バスの全盛時代って、いつ頃だろうかと急に思いつき、交通局の資料を調べてみました。最近の市バス1日当たりの乗客数は、ここ数年、32~36万人で推移しています。内外の観光客でバスが異常に混んで、オーバーツーリズムが社会問題化していた時代、大型キャリーケースの持ち込み料金を徴収するべきとか、バスを市民用と観光客用を分けるべきとか、真剣に論議されました。みんながみんな、500円の1日乗車券を握りしめて、押し合いへし合いして乗り込んだ、わずか3年ほど前が、今となっては懐かしい気分です。その頃ですら乗客数は36万人程度、いまは、多少持ち直しているとは言え、24万人程度でしょうか。

市バスが最大を輸送したのは、最近ではなく、40年前の昭和55年度になります。1日当たり乗客数が59.8万人、最近の2倍以上を運んでいたのです。市電が昭和53年に全廃され、地下鉄烏丸線はまだ工事中、公共交通は市バスしかない時代でした。当時の1日走行距離11万4千km(現8万5千km)、車両数1061両(現822両)といずれも、昭和の時代が勝っていました。今回は、こんな市バス全盛時代を見ていきます。

朝、午前8時台の京都駅前、烏丸通を続々南下して来たバスが右折レーンを独占して信号待ち、黄信号で一斉に右折して行くのは壮観だった。地下鉄烏丸線の開業前で、市電が無くなったあとは、京都市の公共交通は市バスしかなかった(昭和56年、以下同じ)。

京都駅前を発車したバスも塩小路通にズラリと並ぶ。大学が市内に分散している京都は、ターミナル方面ではなく、反対方向にも需要があって、輸送効率が良かった。

この時代の特徴的な系統、名所巡りの300号系統、東山の観光地に近い主要停留所のみを回る急行300号系統として昭和52年に誕生したが、翌年に各停留所に停車する一方循環の径路となった。いまの100号系統急行バスの前身に当たる。

市バス以外にも、多くの路線バスが京都駅へ乗り入れた。その代表は、国鉄バスと京都交通バス、まだツーマン運転も多く、塗装もひと世代前だった。

近鉄バスと京阪バス、いずれも奈良~京都を結んでいた。一時は奈良交通も加わり、3社で20分ヘッドで両古都を結んでいた時代もあったと言う。東本願寺前を行く、烏丸通のバス。背後のイチョウは秋が撮影適地となるが、新緑の頃も美しい。烏丸通は地下鉄工事も終わり、試運転の時期だが、市バスは、いまの地下鉄の乗客も担っていたのだから、よくバスで運び切れたものと感心する。烏丸丸太町を行く。アオキ書店も懐かしい。市電四条線廃止の時の代替バス、通称みぶ型の大型低床バスいすゞBU04は、定員の多さを買われて烏丸通を行くほかの系統にも使われた。▲▲先項で紹介の智恵光院通を行く25号系統は、烏丸丸太町で右折した。こちらは烏丸今出川、背後の店も時代を物語る。

烏丸今出川を右折する215号系統、市電15号系統の代替バスに当たる。バスは京都22か11-15、京都では少数の日産U20H、昭和49年式、NSKボデー、まだ方向幕も小さい、高床式のバス、昭和の京都市バスを代表する、美しいスタイルのバスだった。

 

看板を外した廃車間際の京都22か・199、日野RE100、昭和46年式、NSKボデー、この時期は10年で廃車になった。

 

 

今出川通を市バスの観光車が定期観光「半日コース」で横切っていく。京都22か16-38、いすゞBU10、昭和52年式、川崎ボデーの端正なスタイルも良かった。烏丸北大路、まだ烏丸車庫前のほうに馴染みがあった。北大路バスターミナルに入る222号乙系統。

当時の北大路バスターミナルにも多くのバスが発着した。背後は市バス烏丸車庫、M1のマイクロバスも見える。地下鉄ができると、SCキタオオジタウンの地下深くにバスターミナルができるが、平面移動ができる当時のバスターミナルのほうがずっと使い易かった。

 

 

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