街並みとともに ~京都のバス~  〈5〉

ターンテーブル上の前中扉バス

市電伏見線が廃止されたのが昭和45(1970)年、その市電ルートをトレースする代替バス81系統が新設されたほか、そのほかの系統も中書島を経由・発着するようになります。市電乗り場は、京阪中書島駅の北側の一線分のみスペースしかなく、バスの折り返しには十分なスペースがありません。昭和48年11月、近くに横大路車庫が開設された際に、終端部分にターンテーブル(転回場)が設けられ、バスは一回転して向きを変えて乗り場に着くようになります。ほかにも京都周辺でも、狭くて方向転換が困難な終点にターンテーブルがありますが、社用地内が多く、ここ中書島は、乗り場のすぐ横から自由に観察ができました。

まだツーマンが多かった時代、当時のバスは10年程度で新車に置き換えられていた。狭隘区間があったりして、新車ワンマン化が困難な事情もあり、ついにツーマンの新車が昭和47年にデビューしている。それが「京2・799」のいすゞBU04で、798~800の3両があった。この時期の市バス新車は、すべて前後扉にあって、3両だけの貴重な前中扉、しかも好みのNSK“カマボコ”スタイル、しかも行先は「淀」一字のみ、長い行先名の多い京都には珍しい潔さだ(昭和49年)。

このバスは、将来のワンマン化も考慮した、ワンマン・ツーマン兼用車で、ツーマンとしての役目を終えると、ワンマンに転用された。1両ずつがほかの車庫に配置されて、市内各地で見られるようになった。車内は、この時期には珍しい三方シート(オールロング)で、車内外ともに異彩を放っていた(河原町丸太町)

ターンテーブル上の22号系統、バスは「京2い・237」で、昭和40年製いすゞBR20、中扉のみのツーマン車、22号系統は、東土川(操)~中書島として運転されていた。現在でも、横大路車庫~南工業団地の系統として存続している。

19号系統は、京都駅前から京阪国道経由の中書島行きで、昭和48年に中書島駅前に乗り入れたが、翌年には、竹田街道沿いの中書島に移った。バスは「京2い・517」で、昭和41年製ふそうMR470、車内はロマンスシートの路線・観光の兼用車、「きぶね」の愛称つき。その後ワンマン化された22号系統、〈右〉中書島に到着したバスは、終端部のターンテーブルへ行き転回する。〈上〉正面を向けて、乗客の待つバス停へ。狭隘地で転回をするために、各所で設置されたターンテーブルだったが、たとえば、中書島ではそれでも狭くて、ほかのバスの駐停車もままならなかった。結局、中書島のバス停も、竹田街道沿いに移転し、京阪と直結したバス停、ターンテーブルは廃止されて、現在では、小公園、駐輪場になっている。

 

 街並みとともに ~京都のバス~  〈5〉」への7件のフィードバック

    • 巽さま
      いつも見ていただき、ありがとうございます。4番目の19号系統、京都駅行の撮影場所ですが、現在の「中書島」バス停付近です。この時は、中書島駅前を出て、伏見線跡のバス専用路を右に曲がって、竹田街道と合流していました。

    • 巽さま
      いつもバス記事をご覧いただき、ありがとうございます。今回は、ご回答が遅くなりました。約一週間かけい調べたのですが、廃車年月までは分かりませんでした。当時、市バスは平均10年が経過すると、廃車されて、新車に代替されていましたところから、当該車両は昭和47年製ですから、昭和57年ごろに廃車されたと思いますが、何分にも特殊な車両のため、それよりも早く廃車されたかも知れません。なお、車番を「京2・799」と記しましたが、巽さまがお書きのように、「京22・799」です。

  1. レトロ車コーチバスてんこ盛りスケルトンバスがいないのが好ましい。RMライブラリーみたいの作ってほしい
    モノクロでも充分良いデジタル化で

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