K.H.生 について

1979年度生 1959生まれ 北九州出身

山陽線河内駅付近の思い出

先日の西村様の投稿に呼応して、久しぶりに書いてみます。画像やプレヴューが見えないので、随分緊張しながら書いて居ます。
河内駅付近の風景。上下方面から降りて来た国道432号線が駅前の旧道とぶつかり、直角に曲がる付近です。

さらに国道を南下し、竹原に向かう途中、新幹線をくぐると不思議な建造物の残骸に遭遇しました。 続きを読む

大夕張鉄道のTシャツ

残暑お見舞い申し上げます。

近年は、若い人たちが鉄道や、それを取り巻いていた社会の仕組みや成り立ちについて、少し興味を持たれる傾向が出て来ました。
私たち鉄道マニアは、常識と思っている、鉄道と従事していた人々や、それを取り巻く家族、共同体的な社会に関して、ゼロから学ぶ平成生まれ中心の人たちが、何に興味関心を抱いているかと言うと、昭和以前の鉄道の時代は、ワンダーな世界観のようです。
今日はそんな中から、マニアパレルさんという会社が、ユニークなTシャツを出しているのに、気が付きました。彼らは、元々廃線や、廃墟風景が好きで、そこから北海道の炭鉱鉄道のことを知り、今興味津々なのですが、最近は産業遺産や産業考古学と言った、比較的まじめに歴史のことを研究し、発表するグループも現れています。この作品、単なる昔の社章のリプリントでなく、工夫や今的な価値加工がされている点が、私は気に入りましたので、紹介する次第です。こういう記事に対して、批判が多ければ削除いたします。
でも、私は袋小路に入って、伸びなくなった鉄道趣味より、何か新しい動きをしている所の方が、面白いと思う方なのです。

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浜大津と堅田 昭和55年4月合宿の帰り

昭和55年4月の早い日、大学2年に進級し新入生を待つ直前、初めての春休み合宿に参加して、和迩浜の安い宿に泊まった。
この時は電車で和迩まで行き、翌日の解散後は江若鉄道の本堅田駅の駅舎が残っているので周辺の遺構調査をしようと、先輩のホンダZに乗り込んで、堅田のバスターミナルになっている駅跡に向かった。

この頃は対向ホームも残り、鉄道営業時代と大きく雰囲気を変えていない。
堅田の構内には路線バスの検査設備を備えた車庫ができ、新旧のバスが待機していた。
ここを訪れた目的はもうひとつ、最後のボンネットバスを見るためである。

他にもまだ、鉄道時代を物語る建物がいくつか残されていた。

日通の堅田営業所。

貨物積み込みホームの跡と貨物倉庫であろうか。

小さな木造の小屋。ランプ小屋でないと思うが、ストラクチャーとしては好ましい。

その後は、360ccの車体に男4人が乗り、三井寺下に向かった。

江若鉄道のものと思われる橋桁台が見つかった。

三井寺下の車庫のあったあたりは、再開発目前であったが、何となく鉄道の雰囲気が残っていた。
この建物は本社屋だったのだろうか。「在りし日江若鉄道展」(平成18年、大津市歴史博物館編)より右屋の二階建て部が本社屋、手前の横に長いのが駅本屋と判明する。駅本屋は痛みが激しく解体寸前のようである。

この表札で元江若鉄道の建物と推察した。当時は江若バスの時代だが、労働組合は鉄道事業解散後もその名で続いていた。今では「?」の略字体が左翼を感じさせる。昭和の時代ならである。

このあたりで先輩はびわこローズタウンの家に戻るので、残った3人のうち二人は近くの駅に向かった。
私はいつものように単独で歩き出し、浜大津に向かった。
その頃の三井寺の門前風景。

多分桜が咲く目前であっただろう。若い頃は花に心が動かないものだが、旧い物にはやたらと頭が働いた。
琵琶湖疎水の導入口がこの付近にあり、石坂線の電車をカメラに収めんとアングルを考えていたら、突然春雨が降って来た。

ごうごうと吸い込まれる水音を聴いていたら、ほんの一年前の自分と、ほとんどクラブ活動に費やした一年後の自分のギャップが面白く、不思議な気分で雨に打たれていた。
雨は一足で駆け抜けて行った。
浜大津に出ると石坂線の駅と、京津線の駅が別々の所にあり、乗り換えをするのに歩いていかねばならない。
往年はこれに江若の駅もあったから、大湖汽船の船着き場と国鉄の貨物入線でさぞかしこのあたりは賑やかであったであろう。

電車は石山寺行きの準急、300型305。ちょうど京津線のクロッシングを越える地点である。
背景の土産物屋の看板等に京都の資本を感じるが、特派員氏の同じ方向からのアングルと相違は少ない。
後年中年になり、このあたりを思い出を片手に歩いてみた。
夕暮れになると判るのだが、大津の歓楽街は背景部分の裏手あたりである。この水のほとりに開けた侘びしい歓楽街に遊んだいにしえの遊子たちを思う術もなく今は大きなビルが建ち並び、湖岸は遠くなった。

この日写した写真のなかで一番気に入った一枚を最後に並べておく。
日通の浜大津倉庫と、今も現存する大津市公会堂を背景に、浜大津に膳所方面から進入する坂本行きの各停。
弓なりのイコライザを持つ台車を穿く351x2連。渋い風景である。
一番手前の使われていない線路は、国鉄の貨物列車が江若の線路と直通運転するために敷設した3フィート6インチゲージである。

持ち論この時もこの線路の存在に気づいていたが、3線区間もすでに撤去され、梅小路の8620が小貨物を牽いて「ポー」と通った日々も既に遠くなっていた。
遥か昔は東海道線の本線蒸機がここまできて、長浜に向かう旅人を送り出していたのであろう。
あれから30数年が経ったが、本当に明治も昭和も、遠くなったなと感じる昨今の変貌ぶりである。

笠岡にて

笠岡駅西方の高架道路下のホジ9を確認してきました。

投稿記事の撮影時から35年以上が経っていますが、雨水と直射日光に曝されていないのか、保存状態はかなり良好な部類ではないでしょうか。

2011年7月30日午後撮影

なお、保存地点の周囲には、笠岡港が荷物の出荷で栄えた頃の、かなり貴重な近代建築群が残っています。

これらの町並みは、今の機会のうちに是非ご覧になられてください。

さいごに、現在の鬮場(くじば)付近の街角風景をお見せします。

島君の近況

広島地方の酒造メーカーの御曹司であった1981年度生の島靖英君と

京都駅で20年ぶりくらいに再会しました。

貴重なる鉄道情報源の当会BBSで、個人の近況を載せるのは

いかがなものかという懸念はありますが、1980年前後の会員には

大変知りたい情報かと思い報告いたします。

会員連絡用の第2掲示板のようなものがあればいいのですが、

今の段階では無いので、2週間くらい載せてこの記事は削除しようかと

考えております。コメントがあれば欲しい気持ちもあります。

彼も48になり、営業担当責任者という職責は重いですが、大学ゼミの

交流会に出て来る程度の時間がとれるようになったので、私はOB会

行事への今後のふるっての参加を勧めました。

なお、「関西で白牡丹は飲めないのか」という私の質問に対し

「阪急オアシスに1銘柄だけ置いてもらっている」そうです。

早速池田駅のお店で買い求めたのがこれ。

「さらりとうまくち」720mlで750円くらいでした。

紙パックのトップには「うまさがちがう白牡丹」のコピーが。

この文面について1982年度生の諸君、解説(怪説)と感想を

述べよ。

ニュースから2題

身近なことからいうと、堺市が殆ど決まりかけていた新型LRT電車の導入を断念。これにより久々の関西地区における路面電車の新規路線の夢が画餅に終わった。それのみならず阪堺線の堺市内区間の存続も極めて危うくなったことが想像できる。単に鉄道マニアだけでなく近未来の交通政策を考えているものにおいても非常に残念な結果になったといえよう。

昨年の堺市長戦における争点であったLRTの導入は、前市長のシャープの工場誘致とともに大浜地区の活性化などのビジョンは描けていた。しかしリーマンショック以降の急速な経済状況の悪化で、「もしかして赤字が増えるものはやらない方がいいのでは」という世論にもつながった。橋下大阪府知事の政治パフォーマンスも時にはポピュラリズムに敷衍する。識者としては非常に残念な結論と言えなくもない。今の経済状況下では消極法しかでてこないが、これでは座して死を待つのみではないかとも言えるであろう。橋下知事の大阪府政には戦後処理的な暫定的な役割も感じるがそこの負の部分が最もでたことの一つがこれではないだろうか。

もう一つのニュースは鉄道でなくバスの話。九州に本社をおく西日本車体工業が会社解散という悲痛なニュースだ。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/keizai/detail/20100122-OYS1T00197.htm

70−80年代に正面運行窓付近の逆「く」の字型の車体デザインで一世を風靡したNSKボディーであるが、近年は親会社である西鉄のバス事業がずっと縮小して苦戦していることが伝わってきた。今の路線バス事業はローカル部門は殆ど赤字でそれを高速バス事業で補うのがせめてもの経営。しかし高速道路の大幅割引で公共交通の役割だけでは存続が困難になった事業者が増加している。そうでなくても西鉄はじめ九州地区ではバス会社の苦境が伝わっていた。

NSKボディーは京都市バスでもかつては結構見られたが、私自身が九州出身だけに非常に残念に思う。またこういう企業が無くなって代わりの産業があるかという問いに「ない」としか言いようがないのが今の社会状況だ。

映画「フラガール」では常磐炭坑の閉鎖に伴い「ハワイアンセンター」設置の夢というテーマがモチーフになっていた。今の地方には就業や若者の未来、数十年働ける環境や企業の存在と言った基盤が非常に薄い。そういう背景からみてもこの西日本車体の解散には行政や地方政治の無策を痛切に感じる。地方の「荒れ」は最後には日本中を覆うのではないか。私の不安ができれば当たらないことを願うのみである。

EF510-501が故障

皆様、今年もよろしくお願いいたします。

特派員氏の新年からの投稿におおいに勇気づけられております。

また阪急6300の記事に現況を知りました。懐かしくも時代の流れは必然です。

国鉄117系、京阪3000系、そして阪急6300系と3種の2ドアクロスシート車が3様に駆け抜けた頃の京阪間は、夢のようでした。いやほんとうに関東からこの電車たちに乗るために関西の大学を目指した学友も居てたと思います。

 

さて、他ブログからの転載記事ですが、昨年12月に落成したJR東の特急牽引機が取手付近のデッドセクションで故障、停まってしまったようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/koutyan485_583/11534900.html

EF81の置き換え用の期待を担って登場した新鋭機もこのくらいの初期故障はやむをえないのか。

正直に言うと私もブルトレ専用機が出たこともあまり知らなかったのですが、番号の付け方と車体カラーにEF60500番台、EF65500番台以来の期待が込められているように思えます。

投入直後で冬期ということもあり、まだ本調子がでないのか。久々の華やかなロコだけに復調して常磐線のクイーンとして羽ばたいてもらいたいものです。

今回は写真が無くて済みません。

大連の市電

戦前鉄道省に勤めていた明治30年生まれの祖父が満州に出張した際の

土産のパンフレットが昭和2年生まれの母を経由して私の手元にいま

あります。

イラスト画に書かれている路面電車のことが少し気になりました。

この電車などについてご存知の方はおられませんでしょうか。

多少の知識でも知りたく思います。