NYで話題になった戦前の「参宮快速」のポスター

旧twitterであるXのタイムラインを眺めていると、ある方の投稿された写真に、複数の鉄道好事家の方が集まって議論している場面に出くわした。

写真はニューヨークの美術館で開催されたアールデコの時代のポスター展に出されていた、日本のポスターに米国在住の日本人写真家が惹きつけられて、このような短い文章と写真を投稿された。

>「先日アールデコのポスター特別展を見に行ったら日本の鉄道ポスターが一枚展示されていた。1935年の黒住豊之助という方の作品だとか。説明によると京阪神から伊勢神宮までの快速列車開通の広告らしい。」

このNYのポスター展には著名なサヴィニャックとかのポスターも多数出展されていて、私も国内で同等の開催があれば是非みて見たいと思った。
https://mikissh.com/diary/art-deco-poster-house-nyc/

しかもランダムな情報が流れてくる旧twitterのタイムラインには玉石混交の情報があり、アメリカのポスター展の1枚の写真と短文に、いろんな興味を持った人々が集まってくるのは楽しい。

コメントもさまざま「大阪ー山田(伊勢市)2時間52分、戦前にあり得るのか」「どこをどう通ったのか」
「もしかしたらこれが有名な伝説の鳥羽快速ではないのか」
「戦後の時刻表でも1962年で3時間40分かかっている」

ここから私の好奇心が俄然湧いて、戦前の資料やデータが残っていないか、早速調べてみた。

ここにこんな詳細な記述を見つけました。

>びわ湖鉄道歴史研究会 びわ湖鉄道歴史研究会
私鉄の雄・関西鉄道・草津線の歴史研究 Ⅸ 平成 29(2017)年6月
「参宮快速」の走った草津線

この内容を転載すべくでもなく、参宮快速(鳥羽快速)が生まれた背景には、鉄道省の独占だった伊勢神宮参拝輸送の牙城を脅かすことになった名古屋からの伊勢電の開通と、大阪からの参宮急行の開業。今で言えば新幹線の建設に近い、デ2200系や宇治山田駅といった資材の投入のスケールがあった。よもや大阪ー奈良ー三重の県境を越える標準軌の電気鉄道の建設は脅威だったと思われる。

鉄道省と大鉄局は、参急を迎え撃つために主要都市を結ぶ最速列車を設定し、蒸気動力ながら精鋭C51型を使って、思い切った運転ルートを設定。それが姫路ー(神戸・大阪・京都)ー草津ー柘植ー亀山ー山田・鳥羽で従来で考えられない俊足運転で対抗。
好評だったのでダイヤをさらに絞って2時間52分運転を達成した。この列車にはワシ(和食食堂車)も連結されて、参急にできないサービスでも対抗したという。

1939年の旅行案内社時刻表より 大阪8:22発、山田11:16着が最速列車

ここまで一気に書いたが、それ以前のことを調べてみた。大正時代末までの伊勢参宮は、湊町から関西線回りで行くのが大半だったようで、亀山から参宮線に入り山田、鳥羽に直通で向かう列車も複数設定されていたが、何しろ所要時間が長い。だから山田で一泊するのが普通で、21世紀の現代でも当時からあったような旅館が、「山田館」や、古市の「麻吉」のような文化財級が残されており、泊まることができる。

参急開通以前の1925年の時刻表より 伊勢神宮の最寄駅山田に行くのは湊町から直通が何本も出ている。快速運転の列車でも天王寺8:50発、山田着13:38で4時間48分を要している。牽引機は8620あたりで加茂あたりから後補機がついたのであろう

伊勢外宮の古市地区に残る江戸期からの旅籠「麻吉」。東海道中膝栗毛に出てくる旅館が21世紀の今も残っており、宿泊も可能である

昭和の御代と御大典は、大正の眠りを吹き飛ばすまさに昭和維新。参急何するものぞと、省と大鉄局の威信を賭けて参宮快速は逢坂山も加太の急勾配もC51二両で駆け抜けた。

好評を博した参宮快速が、大戦中の休止を挟んで戦後も復活して、戦後も京都を出ると通客「速度甲」という特急並みの高速運転で、東海道線電化までの山科の大カーブを疾駆した光景は、湯口さんの記事、高橋弘さんの写真などで、私も少年時代から見たこともないシーンに強く憧れた。

OB会に残る湯口さんの記事の「鳥羽快速が通ると”ビーン”と家の窓ガラスの震えが違って、速度が出ているのが判った」というくだりは何度読んでも痺れる。戦後は先頭にC57。列車後部にC51 100や101号機が付いて草津までの到達は東海道の飛脚のように、ぶっ飛ばして行ったのだろうと想像すると、この時代に生まれてみたかったと何度も思った。

鳥羽快速と参宮急行(近鉄)2200のような名勝負が、関西にはたくさんあった。戦前から高速鉄道網の発達した私鉄に対して、今の時代は省、国鉄を経てJR西になり、様相は電車同士の勝負になった。

鉄道省と国鉄も発想は違うが、熟練した蒸気機関車運転の神技みたいなスピリットがあって、組織体系が局と、機関区と、大駅を中心に、分業もあり、また機関士のきっぷみたいな上下の関係も厳しかったと想像する。
昭和の時代に働き始めた私が60代半ばになり、平成と令和を含めた振り返りをする時に、昭和の時代の鉄道には、明治と大正時代の蓄積が戦前にはたくさんあって、戦後の国鉄発足に引き継いだ。

今回のニューヨークのアールデコポスター展に貼られた日本の鉄道列車ポスターデザインにも、進取の気概のようなものを感じたのではないか。ビハインドになった時こそ新しい運転に挑戦してやりましょうといった。
私はそんなことを思いながら、「鳥羽快速」の歴史に光を当ててみたいと思った。

鳥羽快速と参宮線(上)
https://drfc-ob.com/wp/archives/74029

鳥羽快速と参宮線(下)
https://drfc-ob.com/wp/archives/74060

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