今年の夏で62歳を迎える私が、本格的に鉄道の写真にのめり込むようになったのは、この年昭和48年からである。理由はずばり環境の変化で、転校して行った南小倉中学の友人の影響である。
大分市に住んでいた小学校6年頃から、鉄道写真は撮り始めていたが、北九州市に3年ぶりに戻ると、おとなしい大分の同級生らと違い、親の目を盗んで、宮崎・鹿児島まで中1で行く猛者たちが小倉にはいた。これはカルチャーショックだった。中学2年だった48年の夏、エラそうにする”先輩”に引かれて、7月8日、日曜日の明け方から、私は念願のSL撮影旅行に出かけることになった。
南小倉駅で待ち合わせて 5:50 日豊本線上りの始発電車に乗る。小倉 5:55 着。鹿児島本線下りにすぐに乗らず 6:34 に乗車。その間に 6:20 に山陰本線からくる「さんべ3号」を見送るのだが、センターデッキの客車オロハネ10に驚愕する。
6:57 折尾着。印象的な折尾駅の構造にワクワクしながら、友人の勧めで東筑軒の「かしわ飯」購入。7:04発の下り吉塚行きに乗り込む。この間に隣のホームで発車を待つ香月線の38629を撮影する。
7:27 直方到着。筑豊の象徴である街の一つ。とにかく駅構内の広さが凄い。ホームから見える構内の外れに、見たことも無い巨大な給炭装置が目に映る。やがて私たちの乗った列車を待避させて、急行列車が入線する。京都発、筑豊線回りの熊本行き「天草」209レである。
SL時代はD60を逆向きに後補機に付けて冷水を登り、駆け下りたあの列車に興奮する。先頭はスハフ43で昭和30年代の特急用3等座席車である。
8:09 直方発宮田線427Dに乗り、私たちは貝島炭坑専用線に向かう。
8:22 筑前宮田に着くと、写真で知っているコッペルの1-C-1タンク機がいた。
宮田線のレールも消えて久しいが、当時の筑前宮田駅の構内には、大きな石炭関連の工場施設がいくつも建っていた。
また、専用線のSLは、ここまで炭車を牽いて来て、今度は国鉄の貨車に積み替える手間のかかる作業が在ったと思う。暫くは同行者と夢中になって撮り、それから炭鉱のある大之浦六坑の方に歩いて行こうということになった。
歩いて行くと、すぐに反対側からの列車が来て、カメラを構える。
約2㌔程度歩くと炭鉱専用線の拠点に着いた。
構内の写真撮影は不可と書いて無いので、業務の迷惑にならないように、そっと撮影出来る開所部分からカメラを向けた。
(一連のカラー写真は、ヤシカのハーフサイズで、粒子、質感とも調整してあげています。)
この時の貝島炭坑専用線の撮影は、新鮮な刺激も強かったが、いろんな意味で初めての経験であり、13歳の中学生にどのくらい理解が出来たのか。私は戻ってから、臼井茂信の「機関車の系譜図」第2巻を買って来て、本格的に対象を研究理解しようと務めたようである。
貝島炭坑を撮影し終えて、その後は室木線の8620を撮影することにした。筑前宮田駅でなく、町の中央にバスターミナルがあり、そこから国鉄バスが各地に出ていた。硬券の切符を売り場で買い、室木駅に山を越えて着いたが、次の列車まで2時間くらいあった。今時刻表を見ると、宮田町から出ていた国鉄路線バスは5路線もあり、このうち私たちが乗ったのは11:01発の鞍手局行きのようである。
室木駅は既に無人駅であったが、暇で仕様が無いので、構内に置いてあった工事用車両を見に行っている。2年後の開通をめざす山陽新幹線の九州内工事区間が、室木駅の終端付近を通っているので、もう廃止候補だった室木線にとり、最後のお役が回って来たようなものである。
駅前に食堂もない室木駅で、朝買っていた「かしわ飯」をお昼ご飯に食べたのだと思う。昔の撮影行は兵糧との戦いと諸先輩が書いているが、昭和48年の筑豊の端も同じようなものであった。
待つこと2時間、13:40頃、水平線の望煙ならぬハチロクの煙がやっと見えた。朝夕以外にも日中のスジがあったことは、今考えると奇跡のようなものである。
13:57 室木線上り826レに乗り遠賀川に向かう。生まれて初めて正位で8620の牽く列車に乗れることは、内心嬉しかった。大分時代に朝の久大本線通勤列車を、豊後森の8620が牽いているのを中1の登校時に目撃しているが、やはり晴れて乗ってみたかったのだろう。
約30分後に遠賀川駅に着き、遠賀川の写真は撮っていない。おそらくすぐの連絡の鹿児島本線の電車152Mに飛び乗ったのであろう。ところがネガは面白いもので、折尾駅で再び下車して、筑豊本線ホームでまた撮影をしている。
撮影記は以上である。
48年前の、撮影旅行デビュー記をなぜ今頃書こうという気持ちになったのか。60歳を過ぎて数年経ち、ちょうど良い歳になったのかもしれない。上の先輩方のようにC62重連を追い掛け、渡道するような大スペクタクル体験も、我ら以降の世代には無理である。それでも最後のSLに間に合い、翌年には念願の1眼レフを買ってもらった幸運もあった。
それと最近、外で写真を撮り、得意に上げると”自粛K察”みたいな人から後ろ指を指されたり、「撮り鉄」派には肩身の狭い世相が2年続いている。私は10年以上前から、以前撮影したネガのデジタル化を進めて、ようやく落ち着いた気持ちでそれらと向かい合って、SNSなどに投稿すると、よい反応がすごく着く。下の世代から資料写真は喜ばれるので、写真にエンボスや個人名は入れていない。
こんな身近な少年時代の思い出でも整理すれば記事の一つになり、同世代や下の学年もそろそろ一線から引退の時期を迎えており、刺激になればと思い投稿した次第である。(了)
K.H.生さん
さすがにマスコミ出身だけある文章力で、読み応えがあるお話でした。
文中に出てくる急行「天草」を京都駅で撮ったものがありますのでご覧下さい。
撮影は昭和40年4月25日ですから、K.H.生さんの8年前です。「天草」の全盛期で、客車は豪華そのものでした。K.H.生さんの写真で一両目のスハフ43はスハフ44から改造された14両のうちの一両ですが、8年前の「天草」は、特急「かもめ」用に新製されたオリジナルのスハフ43のラストナンバー3号車です。二両目は新製のオロネ10、三両目は特二スロ60、三両目はスロ51、四両目はスハネ30と続きますが、ここで不思議なのは所属が名ナコであることです。なにかのアルバイト運用か貸出運用か分かりません。
客車中心に撮っていますので2枚に分かれますがお許しください。
なお、機関車はEF58です。
「天草」は名古屋-熊本間の「阿蘇」と共通運用ではなかったでしょうか。
お早うございます。皆様ありがとうございます。
「天草」の客車が名ナコだったことは、翌年49年に門司駅で再び同列車と遭遇した時に気付いて、一瞬考えました。当時寺本光照さんがピク誌に名列車列伝を書いていて、読んでいたのかもしれませんが名古屋ー熊本を結んでいた同じ夜行急行の「阿蘇」基本編成と「天草」は共通の車種構成で、毎日熊本駅で出番が入れ替わっていた。
熊本到着は「天草」が1時間早く「阿蘇」が11時台。上り列車は「阿蘇」が30分早く「天草」が遅出。ここで編成が入れ替わります。48年当時だと、「阿蘇」の増結車は博多から2両。「天草」の増結は門司から3両という運用でした。
姉妹列車というのは運用の妙で、増結駅も両数も違うという心憎いテクニック。しかも昭和40年頃から列車運行と管理していたのはさすがです。
やはり国鉄時代の端々まで知恵が回っていた部分で、反対に「瑞風」や「四季島」が長大編成でローカル線に入れないのは、国鉄分割後の発想力の後退を感じます。
スハフ433
スロ60は世代的に観ることが出来ず、スハニ37に改造されてから、その窓配置を偲んだものです。特2の一期生で木造鋼体化という出自も気になりました。
スロ51は並ロでなく特2の一族ですが、60や53、54よりピッチが狭く「天草」では60が指ロ、51が自ロと分けていたのではと思われます。オリジナルのスハフ43の向きが車掌室側を機関車向きにしているのが綺麗ですね。オロネも片側なので、40m非常脱出口が無いのはチョット吃驚ですが。
K.H.生様はじめまして
昭和48年夏のSL撮影旅行を楽しませていただきました。
時系列に沿って読み進めて行くと、まるで自分が体験したかのような思いになり、折尾や直方の風景が目に浮かぶようです。
直方の構内は広く、巨大な給炭施設は印象的でしたね。昭和48年8月に私も直方を訪問してますが、DLが大量に入線していて肝心の蒸機がめっきり減ってしまってガッカリしたことを思い出します。
この年私は高校二年でしたが、貝島がどこにあるのかも知らず、室木駅へ通じるバス路線があったことも知りませんでした。
また、当時の私は蒸機以外に興味がなく、鉄道施設や蒸機以外の車両にカメラを向けることがなく、今となっては後悔してます。
貝島では客車の廃車体にもカメラを向けられ、蒸機を取り巻く風景も巧みにとりれて撮影されております。当時の私には真似のできないことで、これが中学生の撮った写真かと驚きです。
当時の空気が伝わってくるようで、楽しませていただきました。
コメントありがとうございます。
昭和48年8月はこの1ヶ月後ですが、まず私たちが行った時点でC55が若松から消えて、行橋区の19号機が据え置きボイラー代用になっているだけでした。
クラスメートは日豊路の延岡以南のC57とかパシフィック好きでC55の水掻スポーク命でしたから、彼の植樹祭お召しC56撮影行の話を聞いて羨ましがったものです。
南九州は、昨年大分県佐伯市に働きに行き、SLが走っていた半世紀前と較べると、鉄道と地域存続の限界が迫って来ており、但し私より若い人たちがそこに住んでいるので、言われたく無いのが頭にあるので、危機感はあっても箝口令に近いです。
貝島のバックで引くSLの写真の端に、崖下の掘っ建て小屋みたいな物が写っていますが、あれは炭住です。実はこの日の原体験が強烈過ぎて、後にジャーナリズムを志すきっかけになったのは、少しありました。
丸一日の旅行記は長くなりましたが読んでいただき有り難うございました。感謝いたします。