【10082】追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。

追憶の九州 一人旅 (1)” への2件のコメント

  1. 当時の折尾は九州の蒸機撮影の出発点。小生も高校生の時、始めての一人旅に九州を選びました。ED72・73、421系電車による近代化が始まった北九州の交流電化区間をあえて避け、筑豊線経由で熊本に向かいました。当会の偉大な先輩に遅れること10年。それでも折尾駅鹿児島本線側ではかろうじて臨時列車牽引に残っていたC59109[鳥栖]をキャッチし、下のホームからC51281[若松]牽引の客車4両くらいの列車で原田(はるだ)まで乗車しました。C51は発車前の姿を特派員さんと同じ位置で撮影しておりますが、これ1枚のみ。デジカメ持っていたらしつこく写せたのにと残念に思います。この旅の帰りは筑豊線経由急行「天草」に乗ったため、多分、折尾の側線(阪急西宮北口の神戸線と今津線の間を結ぶ連絡線のようなもの)を通過したものと思いますが、結局この駅は降りたことがありません。自慢ではないですが若松はまだ行ったことがありません。総本家さんのように只見線会津坂下や室木線のように何度も降りたり通わないと秀作が生まれませんね。
     C55を驚嘆の眼でご覧になったようですが、考えてみるとあの時代の直方、若松等筑豊の蒸機は1~2両居た直方のD51と急行牽引の鳥栖のC57を除き殆んどがスポーク動輪の機関車であったと思います。昭和と言うよりは大正のムードで、各駅の跨線橋に見られた煤煙の汚れはそれはそれはすごいものでした。
     折尾駅が日本最初の立体交差駅ということは、秋葉原、鶴橋、大和八木、京橋、明大前、下北沢、自由が丘等々の先輩ということですか。かっこいい駅ですね。歳のせいか、こういうのを見るとほっとします。レンガ通りは鶴見線の国道にも似た雰囲気を感じました。
     筑豊は「青春の門」の舞台ですが、その入り口の折尾の飲み屋街もそれらしい雰囲気が残っています。どこか東南アジアの街のような感じもします。飲めないですがこういう所も是非行ってとんこつラーメンでも食べたいですね。
     総本家さんも還暦を過ぎて今後は車両のみならず、様々なシーンを追い求め、記録するとのことですが、ますますのご活躍を期待しております。

  2. 準特急様
    いつも暖かいお言葉をいただき、ありがとうございます。
    準特急様の筑豊の思い出を読んで、胸が締め付けられる思いでした。
    人にはそれぞれ鉄道趣味の原点のような地があると思いますが、私にとってのそれは、やはり筑豊です。40年以上前の高校生の頃に行った筑豊の印象が余りにも強烈で、以来、カメラを持って各地を彷徨うことになります。
    筑豊へ向かわせる契機となったのが、「鉄道ファン」26号の九州特集であり、そこに載った準特急様のC51などの写真だったことに、ただならぬ因果を感じています。

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