直方
筑豊地方には、拠点となる都市がいくつかあった。人口規模においては、当時では飯塚が第一位だったが、鉄道での中心は、何と言っても直方だった。
直方駅へ行けば、それが実感できる。駅には、四六時中、列車が出入りして、もうもうたる煙に包まれていた。“筑豊のスズメは腹の中まで黒い”と言われる。事実、直方で数時間ほど写して、駅の洗面所で顔を洗うと、シンダーで喉や髪の毛が真っ黒になっていた。公害や煤塵と言った認識に乏しかった時代だ。
初めて訪れた昭和40年代前半、石炭輸送のピークは過ぎていたが、それでも、多数の石炭列車が運転されていた。大きく分けて、伊田線沿線からの運炭列車、上山田線沿線から筑豊本線経由の運炭列車に分けられ、直方で組成され、または牽引機を換えて折尾・若松方面へ向かって行った。 ▲直方駅。明治43年建築と言われるが、一昨年に解体され、新しい橋上駅となった。駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われていたが、解体時の調査では、その事実はなかったと発表された。(平成2年)▲直方駅4番ホームに停車中の原田発門司港行き1732レ、C5519〔若〕、すぐ隣は直方機関区で、煙の競演がホームからでも見られた。(昭和44年)
▲直方を発車する若松発原田行き729レ、牽引はC5511〔若〕で、当時の「鉄道ファン」に広田尚敬氏の大型写真で紹介された。C55門鉄デフの代表機とも言える。(昭和43年)▲佐世保発大阪行き特急「みどり」が到着する。「みどり」は昭和40年10月改正で、下りは、小倉で佐世保行き、大分行きに分割後、佐世保行きは博多に寄らず、鹿児島本線より距離が短い筑豊本線経由となった。筑豊本線初の特急列車である。(昭和42年)▲C5512〔若〕に牽かれて到着する門司港行き1732レ。次位に回送のC11を連結。背後に、以下に紹介する陸橋が見える。(昭和44年)▲直方駅の南側に、駅・機関区をひと跨ぎする陸橋があった。光線も終日良く、イヤッ、と言うほどの本数が通る。撮影にはうってつけの場所だった。原田行き623レ、D6025〔直〕、次位にダブルルーフのスハ32系が連結されている。(昭和42年)▲この陸橋の下は、筑豊本線、伊田線がいずれも複線で、一見して複々線がしばらく続くため、ときどき両線の併走も見られた。これは、少しズレたが、両線の同時発車。手前、所定10時39分発の伊田線426レ、C11380〔行〕、奥は、所定10時42分発の623レ、D6033〔直〕 (昭和43年)▲重連もよく見られた。D6027〔直〕+D6026〔直〕、続き番号の重連。(昭和43年)
▲上記の陸橋のさらに南側には、石炭記念館などに行く歩行者専用の陸橋があり、ここも撮影好適地だった。伊田線の旅客列車はC11の牽引。C11300〔行〕 (昭和43年)▲同じ陸橋から、39625(直)がバック運転で牽く筑豊本線の石炭車空回。地元の人にとっては、蒸機など珍しいことでもないのに、陸橋上には、自転車に乗ったギャラリーが多かった。(昭和43年)▲ホームから見ると、出区したカマが並んで、つぎの仕業に備えていた。D6027、D6046、D60153 (昭和44年)▲伊田線は平成元年に第三セクター、平成筑豊鉄道になり、直方駅には専用ホームが設けられた。(平成2年)
今見ると、広大な中国大陸のフーシュンかどこかの、風景を眺めているように感じました。
当時の筑豊は、まず複々線、列車が行ったり来たり。絶えない煙に、同じ日本国内とは思われなかったことが、想像出来ます。ガラは悪いけれど、川筋気質と言って、景気も次第に下がって行ったとはいえ、活気が有り、仕事もたくさんあったと思いました。
私は、直方だけでなく、後藤寺や行橋にも、もちろん若松にも機関区が有り、大勢の男たちが働いていた時代を、覚えています。
特に後藤寺機関区は裏の方が民家の庭先まで喰い込んでおり、一番奥まで入って行って、子供心によくこんな無理な設備を押し込んだものだな、と呆れた記憶があります。
40数年経ち、みんな記憶の彼方になりましたが、私も筑豊が輝いた日々が好きですし、肯定的に評価してやりたいと思います。
佐世保「みどり」が後の「かもめ」の前身であったのですね。初めて判りました。
それだけ、筑豊や、佐世保に新幹線連絡で、本社に向かう、大企業のサラリーマンが住んでいたということは、間違いない歴史なのでしょう。私の父もそうでした。
KH生さま
いつもコメント、ありがとうございます。
改めて筑豊の写真を並べてみて、私も隔世の感を覚えています。空気は悪い、景色も悪い、ガラも悪い、良いことは何もないような筑豊ですが、私にとっては、天国のようなところでした。
後藤寺は覚えていますよ。今回のシリーズでは除外しましたが、後藤寺機関区は、民家のギリギリまでありました。後藤寺、伊田と言ったところは、直方、飯塚よりさらにディープな、筑豊の真髄が味わえるような場所でした。
最近雀も見かけなくなりましたが、筑豊の雀が腹黒いとは思いもしませんでした。直方を中心に筑豊線沿線は全く石炭の世界で、駅の跨線橋はどこも見事に煤焼けしていました。それにしても陸橋上で写真なんか撮っていたら、鼻の穴まで真っ黒けになったことと思います。よそ行きの服が台無しになったのではないでしょうか。今回も趣ある駅舎やスポーク動輪の機関車を懐かしく拝見させていただきました。C5511も私にとって九州で始めて写したC55でした。直方は筑豊電鉄撮影で数年前に訪問したのですが、風景が変わってしまい石炭の匂いなんか微塵もありませんでした。筑豊線は本線のみで支線は全く乗ったことがないのでよくわかりませんが、青春の門の舞台や香春岳は支線になるのですか。それから、車窓からもよく見えたボタ山というのは全部なくなったのでしょうか。石炭産業がなくなればボタ山も邪魔になったのでしょうね。
準特急様
いつもいつも、ありがとうございます。
その頃、腹黒いのは、スズメだけでなく、人間も同じでした。実際、筑豊に限らず、あの頃の空気は汚れていました。蒸機だけでなく、自動車の排気ガス、工場の煤煙もあったのでしょう。
香春岳は、日田彦山線、田川線から見えますね。いまでも、一部で石灰岩の採掘が行われていると聞きます。
ボタ山は、各所に残っているものの、草木が茂り、完全な自然の山になっています。中間~筑前垣生間の大カーブの背後のボタ山も、飯塚駅跨線橋から見えるボタ山も、普通の山にしか見えません。