▲ここがウワサの“筑豊の山科”、またまた登場のC5546〔若〕の牽く門司港発原田行き625列車 門鉄デフの形態がよく分かる(昭和43年3月)
つぎに紹介するのは中間駅です。二面三線の典型的な国鉄駅ですが、ここから複々線から複線に変わり、また香月線を分岐する筑豊の要衝駅でした。中間を出ると、遠賀川に向かって上り勾配となり、そして右へ大カーブを描きます。山科も真っ青、と感じるほどキレイな大カーブです。複線の間隔も広く安全に撮影できます。定番の編成写真が撮れる箇所として、この区間の撮影地の最後を飾るハイライト区間でした。
中間は、現在、福岡県に28もある市のひとつ、炭鉱と命運をともにした市でしたが、現在でも人口は4万人程度にとどまっています。どう考えても印象に残らない市ですが、ここから超有名人2人を生んでいることを、先ごろ新聞で読みました。一人は、文化勲章も受章した、あの高倉健、もうひとりは、プロ野球名監督の誉れ高い、仰木彬。中間市にある球場を「仰木彬記念球場」に改名する記事が出ていました。二人とも折尾駅に近い、名門高校の出身ですが、ともに過去帳の仲間入りをしました。
▲中間駅は二面三線の国鉄式の駅構内だが、中線もあった(昭和47年11月)。
▲跨線橋から、通過して行く1665レを前後で眺める。前後の線路の取り付き具合が分かる。ホントによく見かけたD5142〔直〕の牽引、よほど調子の良いカマらしい(昭和47年11月)。
▲中間駅に到着する香月発若松行き122列車、香月線は日中DCだが、朝夕のラッシュ時には客車列車が残っていた。ラッシュ時とは言え、乗客は少なそうだ(昭和47年11月)。
▲香月線の客車列車牽引は、もっぱら若松区の8620の牽引、この88622は、化粧煙突、形式入りナンバープレートと当時全国に40両余り残っていたハチロクの中ではピカイチの存在だった。しかし、この直後に、ナンバープレートが盗難に遭い、ペンキ書きになり哀れな末期となった(昭和47年11月)。
▲D5090〔若〕の牽く下り貨物列車、右手は香月線。この築堤の左手に以下に挙げる大カーブがある(昭和43年3月)。
▲大カーブを行く69642〔後〕の牽く下り貨物列車。正面には、おあつらえ向きにボタ山も見られ、筑豊の証明にもなる(昭和43年3月)。
▲門司港発、日田彦山線経由で由布院へ向かう急行「はんだ」、キハ58150+キハ58804+キハ28804、モノクロではよく分からないが、後部2両の800番台車は、直方気動車区の修学旅行用のDCで、赤と黄色の派手な塗装(昭和43年3月)。
▲大阪発佐世保行き特急「いそかぜ」。筑豊本線には、DC特急「いそかぜ」1往復が走っていたが、ヨンサントウ改正で名称が「かもめ」に変わった。それまで長崎・宮崎行き「かもめ」は、長崎・佐世保行きに変更、佐世保編成が筑豊本線経由となり、「いそかぜ」と振り替えた(昭和43年3月)。
▲築堤から香月線を行く29661〔若〕の牽く貨物列車を見る。香月線は、中間から分岐して香月までの3.5キロの盲腸線、筑豊によくあった運炭用としての盲腸線、明治41年に開業し、昭和50年に廃止された。終点の香月からは、昭和29年まで、さらに筑豊鉱業鉄道が延びていた。
▲下関発博多行き1739D、関門トンネルをくぐるDC列車で、博多へは、前年に全通したばかりの篠栗線を経由して向かう。先頭はキハ4522〔門ノウ〕(昭和44年3月)。
▲767レを牽くD50140〔直〕、この時期は直方区の所属、のちに若松区に転属し、最後まで残ったD50の一員となり、梅小路蒸気機関車館の保存機に選ばれて、現在も同館で保存展示中〔昭44年3月〕。
▲大カーブから後ろを振り向くと遠賀川の鉄橋が見えてくる。C553〔若〕の牽引する原田発若松行き、筑豊のC55では最若ナンバーだ(昭和44年3月)。
▲若松発飯塚行き739列車、D5145〔直〕。やや傾き始めた太陽が、ナンバープレートまわりのボイラーを鈍く輝かせる。“さすが九州、やっぱり筑豊”と感じさせる一瞬だった。
総本家青信号特派員様
D51のなめくじは何となく筑豊に合わないような気がしたのは私自身ほとんど撮っていないこともありますが、ここはスポーク動輪の世界であったからでしょう。蒸機終末期のあの時代でもあの場所は昭和初期、もっと大げさに言えば大正時代の雰囲気があったように思います。D51はボックス動輪であり、特になめくじは給水温め器が煙突の前になく、ボイラー端面も旅客用蒸機に多い丸型で奥羽線などで正面がちに撮っているとC61と間違えるほどでした。筑豊線には急行「天草」が走っておりましたが私の乗車した京都行きは熊本からC59105、鳥栖から門司までは筑豊本線経由でC579が牽引していましたのでそういう意味ではボックス動輪も少しはいたことになりますが筑豊と言えばやはりスポークの世界でしたね。
地図は持参したことはありませんが、地理は好きでして福岡県と大阪府にはものすごい数の市があったことは覚えており今も役に立っております。しかし、人口減少の近年であっても行政改革等による合併等で知らない市が増えており土地勘が狂ってきました。
西鉄ライオンズには仰木の東筑高、中西太の高松一高、畑の小倉高など当時は名門公立高校出のプロ野球選手がいました。
いつも懐かしい綺麗な写真を有難うございます。
準特急さま
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。昭和初期、大正初期の雰囲気があるとのこと、全く同感です。写真はできるだけ邪魔物を排除して撮っていますが、この付近は、ボタ山、木造平屋の炭住街、未舗装の道路、鼻を垂らした子どもと、まさに土門拳の世界がまだ残っていました。これは現場に立たないと分からないことですが、昭和40年代を飛び越えて、終戦直後の風景が残っていたことは事実です。
九州の蒸機について触れられていますが、たまたま雑誌社のYさんから、C60が牽いた「かもめ」があるはずだから、見せてほしいと電話がありました。私も全く気が付かなかったのですが、預かっていた故人のネガにちゃんとありました。まだ蒸機の時代にこだわる人が多いこと、ちょっと安堵しました。
話は飛びますが、お書きのように、高校野球では、むかしは文武両道の学校が、とくに九州地方には多かったように思います。九州人の気質にもつながるような、それも九州の隠れた魅力だと思っています。
地図シリーズ、興味深く拝読しています。
投稿されている写真の情景はいずれも「凄い」としか
言いようがありません。
このような情景をナマで見ることは間に合いませんでしたが、
古地図を眺め、古き良き時代を想像するのも楽しいものです。
ところで、昨日、地形図を購入しましたが、久々(30年?ぶり)と
いうこともあり、驚いたことがありました。
梅田の紀伊國屋なんですが、5万図や欲しかった1/10,000が全く置いて
なくて1/25,000のみであったことがひとつです。国土地理院も合理化
なのか、これが今のニーズなのでしょうか?
もう一つは、連続する6枚(縦3×横2)を購入してつなぎ合わそうと
したのですが、端と端が合わなかったことで、よく見ると隣の地図と
重複範囲があるのでした。1枚当たりの掲載範囲は拡大しているので
サービス向上なんでしょうが、地形図は「端と端がビシッとつながる」
ものと思っていたので、衝撃?でした。
単なる無知ですが、、、
宇都家さま
過分なお褒め、ありがとうございます。ちょっと自慢するようですが、この付近で撮った写真は、なかなかシャープで画質も良かったと思っています。これは、撮影の技術よりも、後工程である、スキャン・修整の技量にも拠ることが大きいようです。
さて、地図店の現状、私も地図コーナーを覗かなくなってから相当の年月が経っていて、このような状況を初めて知りました。1万は、かなりの枚数に上がるため、スペースの関係で止めたのでしょうか。
地図の端部がわずかに重複しているのは、以前からあったと思いますが、重複部分を切り落としてつないでも、微妙な紙の伸縮があってズレが生じることはよくありますね。私も以前、編集作業でどうしても食い違いが生じ、印刷現場の製版機で、微修正してもらい、きちんとつないだことがありました。
鉄腕稲尾と同期の畑隆幸投手の後輩です。(笑)
筑豊の鉄路、まさに「鉄路輝く」といった美しい写真に見惚れています。
この時代は貨物輸送の列車であっても、仕事の現場が綺麗だったと何度見ても思います。
駅にはごみが落ちていないし、コンビニの袋も飛んでいません。あとは、駅構内やホーム上の雑草が全く無いと言ってよく、今の山陽線山口県下などの車窓には、廃墟のような背の高い雑草が多く人員を減らしても維持に努める鉄道の姿に、胸が迫る思いです。
ちなみに香月線が廃止になったのは国鉄末期の昭和60年でした。