地図を携えて線路端を歩いた日々 -16-

飯田線⑦ 中部天竜

伊那路を抜け、天竜川の渓谷美を眺めながら、中央構造線を長大トンネルで抜けて、飯田線は中部天竜に至ります。ここには、中部天竜機関支区があって運輸上の要の駅になっていて、いつも、ひと電車遅らせて、区を訪問したものです。

中部天竜機関支区を横に見て発車する辰野行き1227M、クモハ52004+サハ75102+クハ47108+クモハ54119 “流電”の活躍は中部天竜以南が多く、辰野まで足を伸ばすのは1往復のみだった(昭和45年8月)

南側から見た中部天竜構内、右から1226M、クハ68608先頭。中央は交換する1225M、左は留置中のED1712。ホームは島式一本(昭和45年8月)

なぜ“中部天竜”の駅名か、本欄でも、以前に藤本哲男さんが詳細に述べられている。昭和9年、三信鉄道によって開設された当時の駅名は佐久間だったが、天竜川の対岸にある昔からの集落である中部(なかっぺ)の名を採って、翌年に中部天竜(なかっぺてんりゅう)に改称されている。それが昭和18年に、現在の駅名の読み(ちゅうぶてんりゅう)に変更されている。中部天竜機関支区は、統合によって廃止されて、平成3年に跡地を利用して、佐久間レールパークが開設された。しかし平成21年に廃止されて、保存車両は名古屋のリニア館へ送られた。
運輸上の要であることは、現在でも変わりないものの、もともと集落はわずかなもので、現在の一日乗降人員は170人程度だが、現在は、市町の合併で浜松市になっている。 80系の「伊那2号」、当時「伊那」は3往復が運転されていた(昭和45年8月)。
飯田線では17m級電車の活躍は昭和47年まで続いたが、訪問した当時は予備車状態だった。構内には、クハ18015+クハ18013が放置されていた。クハ18の前身は、横須賀線用に造られた2扉クロスシートのモハ32のクハ化(昭和45年8月)。
貨物列車を牽くED17 14が発車待ち(昭和47年2月)。
庫から入換中のED17 10を見る。右手には使われていない、古びた貨物用ホームが残っていた(昭和45年8月)。
貨物牽引は、後年にはEF10に代わっていた(昭和52年9月)。
中部天竜名物のサエ9320、国電唯一の木造車で、いつも留置線の奥に押し込められ、手前に電柱が立っていたり撮りにくい位置にいた。この時は光線もよく、広角レンズを使って何とか撮れた。もとは、大正13年製造の伊那電鉄のサロハユニフ100で、長ったらしい称号については、本欄で関三平さんや湯口徹さんも書かれている。昭和28年に救援車となった。伊那松島にも、もう1両がいた(昭和45年8月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -16-」への7件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    静チウ付近の1227M編成に目が釘付けです。
    どれもこれも曰く付きのツワモノ揃いに思わず『ウ~ン』と唸ってしまいました。

    先ずは先頭の流電、大窓2次形の美しさ。セセコマシイ感じの1次形と比べて何と優雅な事。(NHKのテロップ風に言えば『これは個人の感想です』=笑=)
    憎っくき戦争で、不幸に遭遇した最終番の006を除き、阪和線のクイーン時代を経てスカ形に追い出された後の姿ですね。

    続くサハ75、スカ線のマドンナの成れの果てで、それもドア開け改造を受けた後の痛々しい?姿です。

    このクハ47は生粋の関西車。43の相棒として我が京阪神を走り抜けたクハ58で、戦中の4ドア化も免れて、スカ線⇒身延線⇒飯田線とたらい回しされた後、余生?を送っていた姿ですね。

    シンガリのクモハ54も(ク)モハ60からの編入車でしたね。

    夫々の『曰く付き』を思い出させていただき、本当に楽しい『絵』でした。

    また、サエ9320は勉強になりました。
    国電(省線)出自の車両では無かったとは言え、特にサロハユニフは知りませんでした。

    • 河さま
      いつもコメントをいただき、ありがとうございます。番号ごとに、出自や経歴が異なるのが、旧国の魅力ですね。私など、それを覚えるのが煩雑で、逆に旧国から遠ざかっていました。余談になりますが、旧国の編成調べは、河さんはどうされていますか。若い頃の私は、3両までなら、ソラで覚えて、あとでメモ帳に転記し、4両以上はその場でメモしました。ところが、今は1両でも忘れることがあり、メモ段階で、あわてて見直しに行くことがあります。記憶容量が若い頃の三分の一に退化してしまったのでしょうか。ポケは始まっていないと思いますが、記憶力は相当に衰えていると思わせる、番号調べでした。

  2. 総本家青信号特派員様

    車両番号の記録ですが、編成の場合は基本的に『手抜き』して、先頭車のみを記録し、停車中や留置中は『気が向いたら』全車メモります。

    走行車両を迎え撃つ場合は動体視力と記憶力を駆使して先頭車の番号を押さえるのが精一杯ですが、後追いの場合はお手上げですね。
    従って、投稿などの時には『先頭車●●●●●他の6連』などと誤魔化しています。(笑)

  3. 総本家青信号特派員様、河 昭一郎様
    お二方の議論の中にお邪魔させていただきます。編成とまではいかなくても先頭車だけでも番号がわかればと思っているが、最近の車両ナンバ-の表示の仕方はいただけない。何じゃいなと思う。格好ばかりつけ小さい上にグレーの紙のようなものに表示しているので走行中のナンバーはまず確認できない状態。今はきちんとデジカメで撮れば拡大機能で番号が判読できるが、例えば横須賀線のE217系など少し斜めから撮ると番号が読み取れない。西日本E233系など見難い典型である。名鉄の5000、5200、5500等初期高性能車の車体の切り抜き文字は大きくて昔のタイガースの背番号の様な字体でわかりやすい。南海の初期高性能車なども判読しやすい。撮り鉄のために番号表示があるのではなく鉄道会社が管理等に問題なく出来れば小さく安く作った方がいいのであるが、車体の番号表示は表札のようなもの。もっと堂々と表示してほしい。JRなどは最近は先頭車を写せば正面のどこかに編成表示があるので編成表を持っていれば番号の確認はほぼ解決できる。走行車両の生の人間の目での確認は後で拡大したり、編成表で確認すると時々間違っていることがある。記憶力の減退とボケの進行、車両表示の小型化などが重なりあって無理に判読しようとすと間違いのもととなる。駅等停車中に確認するのが賢明のような気がする。

    • 編成の調べ方から、ナンバーの表示まで、デジ青らしい論議になってきましたね。少し前ですが、印刷物は文字を小さくするほうが、デザインのクォリティが高いと言う、ヘンな考えが浸透し、鉄道事業者にも、それが伝播し、可読性を全く無視した、ナンバー表示が流行っていると思います。準特急さんもおっしゃるように、ナンバーは、家で言えば表札ですから、大きく堂々と表示すべきですね。その点、名鉄の独自の数字フォント、切り抜き文字は立派ですね。切り抜きナンバーを製造する、専門の町工場があるそうです。

  4. 準特急様 総本家青信号特派員様

    そうですね、車両ナンバーの表示については聡本家さんの仰る名鉄もさる事ながら、当地では京急が前面に大きな切り文字を使用しており、当初はビジュアル時代の『派手派手』に違和感のみを感じたものです。
    準特急さんが御指摘のE217系。グレー地に白文字は確かに見難いですね。

    編成表の件、昔もありましたが昨今のように市販されてはおらず、我々はツテをたどって手に入れるしか有りませんでした。
    その上、今の様にほぼ固定編成で編成単位の運用をする時代では無く、旧国は1両単位の運用に近く、編成は流動性が大有りだったため、結局失敗した経験があります。

    いや~それにしても番号を拾うのは大変でしたヨネ。
    山科の築堤なんかで迎撃した時はギリギリまでファインダーから目を離さず、シャッターを切るのと同時に通り過ぎる番号に視線を振るワザをマスターしたものです。
    しかし、後追いの場合は目はファインダーからは外せず、シャッターを切る頃にはとっくに番号は行き過ぎていて・・・。

  5. 準特急様 総本家青信号特派員様

    訂正です。

    京急の前面の番号は切り抜き文字ではありませんでしたね。
    勘違いとは恐ろしいもので、それが『思い込み』となってしまうのも更に恐ろしい事です。

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